05.This basement always smells musty.
地下にはいつも黴と紙のにおいが立ち込めている。くしゃみ防止で鼻から下を布で覆い、僕は目の前の紙を眺めていた。アネットにシエルを任せて、甲斐性なしはしっかりバイトをするのである。
角が磨り減って丸くなった書き物机には紙束や巻物がところ狭しと散らばっていた。黄ばんだ白衣の爺さんたちが辞書と虫眼鏡をお供に古文書の解読にいそしんでいる。古代の知識どころか自分史さえあやふやな僕は場違いもいいところだけれど、彼らのように紙を覗きこむといつも不思議な感覚に襲われる。
なんとなく分かるのだ。
どんな文法、どんな発音かも分からない言葉が語りかけてくる。専門用語だとさっぱり分からないけれどそうでなければだいたいテンションで読める。僕の数少ない特技だ。
「博士、これ違うくないです?」
丸眼鏡の爺さんを呼び止め、目の前の巻物を指差す。三角形を四本の横線で区切り、それぞれの中に古代文字を書いた図だ。爺さんからは『昔の身分制度だと思う』と聞かされたけれど僕には違うものに見える。
「感情の……なんか悲しい気持ち? の説明、みたいな」
一番下の土台は『受け入れられない』。その上に『怒り』が乗っかり、『取引』が続く。天辺とそのひとつ下は掠れていて分からない。
爺さんは丸眼鏡をぎらりと光らせ巻物に飛びついた。枯れ枝のような指が文字をなぞっていると他の博士たちも集まってくる。ハゲの博士が辞書をひもとき、前職は冒険者でしたかみたいな筋肉男が追加の書物を机にぶちまけた。
「ああここ、ここじゃ、誤訳しておった!」
仕切り直しだと叫ぶ博士達。今まで悩んでいたのがまったく検討違いだったのに、解読の糸口が見つかったおかげで皆どこか嬉しそうだ。
こうなると僕にできることはない。僕の特技は『なんとなく分かる』程度で、正確に解読したりその背景を明らかにするのは文法だの歴史だのに通じた博士達の専門だ。
時計を見ればそろそろ昼食の頃合い。仕事にかかりきりの爺さん達に代わって食事を調達するのは僕の仕事だ。
「何か食べたいものある人ー?」
一応訊くが答えはない。つまり片手で簡単に食べられるものをご所望だ。またサンドイッチか……なんて内心で嘆息しつつ、僕は書き物机を離れた。
地下書庫の出入り口にほど近いソファにはクソダサい服の上に白衣を引っかけた爺さんが寝転がっていた。奥で子どもみたいにハシャいでいる一団とは専門分野が違うとかで休憩状態である。彼の側をそっと通り抜け――思い直して声をかける。
「あのー、古い書物に天使の話とかありましたっけ」
「金の髪と空色の瞳。空にまつわる名。そして三つの力を持つと言われておる」
爺さんは両目をシワに埋もれさせたまま即答してきた。
魔法や神話の研究者だという爺さんいわく、天使の持つ能力は三つ。
ひとつ、あらゆる人間と意志疎通できる。
ひとつ、負の感情を鎮める。
ひとつ、強い天使は己より弱い天使を服従させられる。
天使とは宮廷魔術師でさえめったに召喚できない、言葉のとおり雲の上の存在だが、偉大な天使の姿を目撃したという記述はいつの時代の史料にもあるらしい。
「王国全土が焼け野原となった五百年前、戦士たちを天界に導いた双子の大天使。スカイとティエン」
「シエルって名前はある?」
「おお、それも空を表す言葉じゃ。文献にはないがのお……」
語尾がだんだんふにゃふにゃになってきた。本格的に居眠りを始めた爺さんにそっとタオルケットをかけ、僕は息を殺して階段の一段めに足を乗せた。
/
こき使われたりパシられたり、合間にシエルの日用品を集めたりしていたらあっという間に日が沈んだ。
ひとつしかないベッドには空色のパジャマを着たシエルが転がっている。
「いけません……キースさんの寝る場所、なのに……」
断る言葉とは裏腹に、シエルはだらしなく両手足を放り出して動かない。瞼だってずいぶん重そうだ。力の入らない手でシーツを掻くところに布団を載せてやれば起き上がろうとする努力もあっという間に溶けてしまう。
「いいから寝て。おやすみ」
「ふあ……おやすみなさい、すかいさま……」
ほどなく寝息が聞こえてきた。早。
僕はシエルに背を向けて床に座り込んだ。薄っぺらいマットレスに頭を預けてぼんやりと天井を仰ぐ。隅にクモの巣が引っ掛かっているから掃除しないとな。
狭くて、ちょっと――ちょっとだけ汚い部屋。ベッドをもうひとつ置く余裕はない。部屋の主である僕は髪も瞳も土の色、甲斐性なしで記憶もない、薄っぺらな男だ。
シエルはただ役目があるから僕と一緒にいるだけ。きっと役目が終わったら天界に帰って、大天使スカイ様とやらに褒めてもらうんだろう。
分かってる。
カノジョなんかじゃないって今日自分で何度も言った。どっちかというと殺し屋に命を狙われているに近い状況だ。
なのに僕はシエルが側にいるのを当たり前のように受け入れて――彼女がスカイという名を口にしたのを受け入れられないでいる。
後頭部をぐりぐりとベッドに擦り付けても胸のざわめきは消えてくれなかった。
それから数日。
僕はとうとう『スカイ』について訊くことができなかった。
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