ほっこり短編小説集

木ノ葉丸

思い出のカタチ

鶏のから揚げ:思い出の味

夏祭りの前夜、小さな町の片隅で、若い料理人のタクミは、自分の食堂の厨房で特製の鶏のから揚げを準備していた。白熱灯の温かな光が調理台を照らし、彼の手元で絶妙なリズムを奏でる包丁の音が、静かな夜に響いていた。窓の外からは、風に乗って聞こえる遠くの祭囃子の練習音が、町全体に夏の訪れを告げていた。


タクミにとって、このから揚げは単なる料理ではなかった。それは、幼い頃に母親と過ごした夏祭りの思い出をつなぐ、大切な一品だったのだ。母親はこの町で生まれ育ち、そしてこの町で料理人としての人生を歩んできた。彼女の作る鶏のから揚げは絶品で、町の人々から「奇跡のから揚げ」と称賛されるほどの人気を誇っていた。


母との思い出

「母さんの味を、僕も再現できるかな……」

タクミは呟くようにそう言いながら、鶏肉を丁寧に下味に漬け込んだ。ショウガとニンニクの香りが厨房を満たし、幼い頃、母親と一緒に過ごした夏の記憶が鮮やかに蘇る。母が台所でから揚げを揚げる後ろ姿や、揚げたての一つを笑顔で差し出してくれた日のこと。ほんのり塩味が効いた熱々のから揚げを頬張ったときの、口いっぱいに広がる幸せな感覚。あの日々が、今のタクミの料理人としての原点だった。


「タクミ、料理っていうのはね、ただの技術じゃないのよ。心を込めることが一番大事なの。」

母が何度も繰り返したこの言葉は、タクミの心に深く刻まれていた。しかし、その「心を込める」ことの本当の意味を、彼はまだ完全に理解していなかった。


彼の母親はタクミが高校生だったある夏の日に病で亡くなった。それはあまりにも突然の別れだった。母の食堂を守りたいという思いと、東京で新しい世界を知りたいという思いとの間で揺れ動く中、彼は迷いながらも東京の料理専門学校へと進むことを選んだ。専門学校では厳しい師匠や優れた同期たちに揉まれ、多くの技術を学び取ったが、心の中には常に「母の味」を再現するという使命が残り続けていた。


帰郷と決意

数年ぶりに故郷へ帰った日、母の食堂の前で待っていてくれた町の人々の笑顔が、彼の決意を後押しした。

「タクミ君、お帰り。お母さんの食堂、寂しかったよ。」

「君が作る料理を食べるのが楽しみだ。」


その言葉に背中を押され、彼は母の跡を継ぎ、この小さな食堂を守ることを決意した。そこから始まったのは、母のレシピを基にした試行錯誤の日々だった。どれだけ忠実に再現しようとしても、どこか何かが違う。塩の加減、衣の食感、揚げるタイミング……。全てを微調整しながら、時には町の常連客に意見を求め、時には深夜まで一人で厨房に籠ることもあった。


ある日、店に立ち寄った幼馴染のユカが、タクミの苦労を見かねて声をかけてきた。

「タクミ、完璧じゃなくていいんじゃない?お母さんの味を再現するだけが目標じゃなくて、タクミらしい味を作るのも大事だと思うよ。」


その言葉は、彼の中に一筋の光を灯した。母の味を再現するだけでなく、それを自分の手で新しい形に進化させることが、真の継承なのではないかと気づいたのだ。


夏祭り当日

翌日の昼下がり、町の広場には色とりどりの提灯が飾られ、祭りの熱気が広がり始めていた。タクミの食堂は、祭りのメインストリートに面した一等地に屋台を出し、から揚げを提供する準備を整えていた。熱々の油がはじける音と、香ばしい匂いが広場一帯に広がると、人々は自然とその香りに引き寄せられていった。屋台の前には早くも行列ができ、タクミのから揚げを心待ちにする町の人々の顔があった。


「一つひとつ、丁寧にね……」

タクミは油の中で黄金色に揚がるから揚げを見つめながら、母の教えを心の中で反芻した。から揚げが揚がるたびに客へと手渡され、「うまい!」「これこれ、これだよ!」と喜びの声が次々に飛び交う。タクミの屋台はその夜、祭りの目玉となり、老若男女問わず多くの人々が訪れた。


「これぞ、母さんの味だ!」

ある常連客の声が、タクミの胸に深く刻まれた。その言葉を聞いた瞬間、彼の目には自然と涙が浮かんだ。祭りの賑わいの中、忙しさに追われる自分の背中を、ふと母親が見守ってくれているような気がしたのだ。


未来への一歩

深夜、祭りが終わり、人々がそれぞれの家路についた後、タクミは静まり返った食堂に戻っていた。厨房はいつもと変わらず、忙しい一日を終えた余韻を漂わせている。窓の外にはまだかすかに提灯の明かりが揺れており、町全体が穏やかな休息に包まれていた。


彼は厨房の中央で手を止め、ふと空を見上げた。夜空には母の好きだった星座がきらめいている。彼は静かに手を合わせ、心の中でそっと語りかけた。

「母さん、今日もたくさんの人に喜んでもらえたよ。僕のから揚げが、町の人たちの笑顔に繋がった。きっと、これが母さんの目指していた料理なんだね。これからも、あなたの味を大切に守っていくからね。」


その夜、タクミは厨房で火を落とし、静かに食堂の灯を消した。彼の心には達成感と安堵、そして新たな決意が宿っていた。母親のから揚げは、彼と町の人々を結ぶ特別な絆となり、その味はこれからも次の世代に受け継がれていくことだろう。


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