第15話



 ボタッ


 ボタボタッ



 絶句している傍ら、信じられない光景が、目の前に飛び込んでくる。


 ナイフは深く皮膚を切り裂いていた。


 遠目からでも、その「深さ」がわかるほどだった。


 思わず目を覆ってしまったんだ。


 肉が切れる感触が、鈍い音の向こうにあったから。



 「…ッ——!」


 「大丈夫。ほら」



 テーブルに置いてあったティッシュで血を拭うと、確かに切り裂かれたはずの「傷口」が、綺麗に塞がっていた。


 跡形もなく綺麗になっていた。



 …いや、でも今…



 「もう一回見せようか?」


 「…は?いや、待て待て!」



 彼女は再度ナイフを手に持とうとしていたから、急いで止めた。


 気でも触れたのか?!


 なんで急にこんなッ…


 とにかくやめてくれ!



 彼女の左手を掴む。


 傷ついたはずの右腕を間近で見た。


 「傷」が無い。


 やっぱり無い。


 …見間違いだったのか?


 いや、そんなはずない。


 大体、ここにこうして血が残ってる。


 ティッシュは真っ赤だ。


 床にも、鮮やかな色の「赤」が滴り落ちていた。


 それなのに…



 「私はもう死んでるの。理解できないかもしれないけれど」


 「…死んで…?」


 「10年前、…いや、キミと付き合う前に、私はもう死んでた。私が「私」じゃなくなったって言った方がいいかな?ねえ、覚えてるでしょ?キスした日のこと」


 「…え、あ、うん」



 覚えてるよ。


 そりゃ。


 忘れるはずがない。


 だって、初めての「キス」だったんだ。


 あれをキスって言っていいのかどうかわかんないが、俺にとっちゃ衝撃的な出来事だった。


 あの時の「感触」を、体が覚えてる。



 …でも、それが?



 「あれ、「私」じゃないんだ」


 「はい?」


 「キスをしたのは私だけど、「私」じゃない」



 言ってる意味がわからない。


 私だけど私じゃない?


 じゃあ、…誰?



 「話が脱線しそうだからやめとく。でも、見たでしょ?傷が治ったの」



 …見た…けど…



 “傷が治った”



 確かに傷は無くなってる。


 信じられないが、まじで跡形も無くなってる。


 傷はついてた。


 ナイフが、皮膚を切り裂いてた。


 見間違いじゃなかったはずだ。


 右腕をさすりながら、彼女は唇を近づけてきた。




 ドクン




 信じられない光景が、目の前に広がった。


 彼女の吐息が、顔に触れるほどの近さで落ちてきた。


 ソファに倒される俺。


 覆い被さるように、彼女が馬乗りになる。



 髪。



 最初の“異変”は、髪の「色」だった。


 金色だったはずの彼女の髪が、黒く染まっていく。


 目を疑った。


 何が起きたのかわからなかった。


 それだけじゃない。


 皮膚の色、——顔の印象。



 何て言うんだろうか。



 目の前にいる「人間」が、——“変わって”いく。



 鉛筆で描かれた線を消していくように。


 モノクロの絵に色を足していくように。



 その「変化」は唐突だった。


 唐突すぎるほどに、繊細だった。


 柔らかく、軽やかで。


 まるで、無数のシャボン玉が、ぷつぷつと澱みもなく弾けていくような“膨らみ”が、視界の奥で迫っていた。


 滑らかな時間が運ばれていた。


 水が流れていくような音。


 隙間を通り抜けていく風。


 さりげなく、——しなやかで。



 中学生の時に見た光景。



 彼女が、初めて俺の部屋に来た時の事。



 あの時の「不死川アカリ」が、そこにいた。



 まだ、子供だった頃の幼い表情を、白い肌の向こうに漂わせながら。


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