光源の人

垣内玲

姫皇子ひめみこ様にございます」


 女房の声は、あまりはっきりとは聞こえなかった。身体が酷く熱い。


――皇子みこではないのか。


 頭に浮かんだのはそれだけだった。そんなことを思ってしまう自分が嫌だった。子供を3人も産んだというのに、私にはどこか、母であることの素質を欠いたところがあるような気がしてならない。


 2人目の子、敦康あつやすを産んですぐに、3人目を身ごもった。敦康ときも難産だった。これ以上は身体が持たない。また産めば、次は助からない。そう直感したけれども、帝が私を求めるのを、私は拒めなかった。拒めようはずがないではないか。帝の寵愛だけが、私の全てなのに。帝に愛されて、皇子を生むことが、私の役目なのに。


 熱い。


 苦しい。


 女房たちが私を呼んでいるような気がするけど、答えるのも億劫だった。


 帝に会いたい。もう一度だけでいい。もう一度だけ、帝に優しく抱きしめてもらえたら… もう一度だけ、私の名前を呼んでいただけたら…


 息が苦しい。


 頭が割れるように痛い。


 私はどこで間違えたのだろう。


 子供の頃は、毎日が楽しかった。関白だった父に守られて、欲しいものはなんでも与えられて、幼い頃からの遊び友達だった帝の元にに入内じゅだいして、華やかで機転の利く女房たちに囲まれて、そんな煌びやかな毎日が、幼心に少し怖かった。


 藤原の頂点に立つ家に生まれたのは、単なる幸運でしかない。幼い頃から、何となくそう感じていた。幸運によって手にしたものは、巡り合わせが変われば失われてしまうのではないか。そういう漠とした不安が、いつも心のどこかにあった。


 帝は、私を愛してくれている。それを疑ったことはない。現に帝は、数多の后たちのなかから私を皇后に立ててくださった。でも、それは私が関白家の娘だからではないのか。そう思うとたまらなく怖かった。だから私は、父や母に教えられたとおりの、理想の后を完璧に演じてみせた。演じることが、演じることで帝にもっともっと愛されることが、私の生きている意味だった。


 風向きが変わったのは、父が亡くなってからだ。それだけだったなら、まだよかった。兄の伊周これちかが、父の後を継ぐ可能性があったから。21の若さで内大臣にまで上り詰めた兄には、人望が無かった。とりわけ、東三条の女院にょいんには毛嫌いされていた。女院は帝の御母上だ。帝は、母君に言われるがままに、兄ではなく、左大臣を内覧の地位に就けた。


 帝が左大臣と接近すれば、左大臣の政敵の身内である私はどうなってしまうのだろう。私には、帝以外に頼る相手がいない。けれども、怖いという気持ちを表に出せば、それこそ帝の気持ちはますます私から離れてしまう気がしたから、決して自分の不安を人には見せなかった。


 左大臣を関白にはせず、内覧に留めたのは、私や兄への配慮であったのかも知れない。帝の后である私の父、すなわち帝の舅が就いていた関白という地位を、おいそれと他のものに与える気は無いという意思の表れだったのかもしれない。そんなふうに考えて、心を静めた。


 いずれにせよ、結果から言えば、左大臣の内覧就任は、私と私の家にとってこの上なく不都合なことだった。内覧は関白ではない。関白ではないから、大臣以下の公卿が参列する陣定に出席することができる。左大臣は、公卿の筆頭として陣定じんのさだめを取り仕切ることができ、陣定で話し合われた内容を直接帝にお伝えすることもできる。役職や位階の上でこそ最高の地位とは言えないものの、内覧を兼務する左大臣は、疑いもなく朝廷の最高権力者となった。


 焦ったのは兄伊周これちかだった。いや、本来、焦る必要はなかったのかもしれない。何しろ兄はまだ20代で、すでに内大臣の位にある。左大臣を追い落とすにせよ、取り入るにせよ、時間をかけていかようにも立ち回る術があったのだ。それでも、兄は待てなかった。そして本当は、私も焦っていた。だから、兄を諫められなかった。


 きっかけは、取るに足らないことだった。兄が通っていた女のところに、別な男の車があったというので、激高して相手に矢を射かけた。その相手の男というのが、あろうことか出家したさきの帝、すなわち法王様だった。しかも、法王様が通っていたのは、兄が通っていた女の妹だったという。こうして、内大臣の兄は、先帝に文字通り弓引いた大逆人になってしまった。その上、兄が女院を呪詛していたことや、臣下が執り行うことの許されない大元帥法だいげんのほうを修したことも露見し、兄は太宰府に配流されることになった。


 私の家の命運は、このときに尽きたのだろうか。そうなのかも知れない。いや、違う。それでもまだ、最悪の状況には至っていない。帝はずっと、私を愛してくださっていたはずだから。たとえそれが失われてしまうとしても、私以外の誰かのせいでそうなったのなら、こんなにも苦しんでいなかっただろう。私と帝を引き離したのは、政敵である左大臣や女院の悪意ではなく、身内であるはずの兄の軽率な振る舞いでもなく、私自身の愚かさだった。


 太宰府に行くのを嫌がった兄は、私に助けを求めた。私は兄をかくまった。他にどうすれば良いかわからなかった。私は、子供の頃から兄のことが大好きだった。父を失った今、兄までも遠い国に行ってしまうという現実に耐えられなかった。兄が私の御所にいることはすぐに知れた。早速検非違使けびいしが、私の御所までやってきた。


 身分卑しい、盗賊と変わらぬ風体の連中が、前の関白の娘である私の、帝の后である私の寝室にまでずかずかと踏み込んで、壁を壊し、天井や床を引き剥がす。兄が捕らえられ、連れて行かれるのを、町の下衆げすどもに見世物のように晒されている。どうして自分の身にこんなことが起こる? 私がどんな悪いことをしたというの? 私は、自分を取り巻く世界が変わってしまったことを、そのときになってようやく、はっきりと理解して、気がついたときには私は、手に鋏を取って、髪を下ろしていた。


 このとき、私のお腹には帝の子がいた。帝の子を宿して、私は出家した。出家すれば、帝にはもう会えない。お腹の子が皇子であったなら、状況は変わっていたかもしれない。そういう可能性も、私が出家したことで潰えた。


 苦しい。


 苦しい。


 熱い。


 熱い。


 熱い…


 兄の配流はいるから1年経った頃、帝は出家した私を宮中に呼び戻した。出家した后が宮中に入ることに、公卿たちは揃って苦い顔をした。当然のことだ。帝だってそれが、どれほど宮中の規律を乱すことかわからないわけではないはずだ。それでも帝は私を求めてくれた。私は帝のその想いが嬉しくて、苦しかった。私に、帝に愛される資格があるのだろうか。


 その翌年には2人目の子が生まれた。皇子だった。父が存命であれば、兄が失脚していなければ、この子が、敦康が後の帝になるはずだった。今はもう、この子の後ろ盾になる者が誰もいない。


 左大臣は、私が皇子を産むのに時を合わせて自分の娘を入内させた。公卿たちは左大臣家の宴に集い、皇子を産んだ私のもとには祝いに来なかった。ほんの何年か前までは、競って私や私の家の者に取り入ろうとしていた者たちが、今では誰もが左大臣の顔色を伺っている。


 翌年、左大臣は私を皇后とし、自分の娘を中宮とした。1人の帝に、2人の后が立つという前代未聞のこの決定にも、公卿たちは異を唱えなかった。私と、私の産んだ皇子に味方する者はもう誰もいない。帝も、公卿たちの支持を得た左大臣の娘を粗略に扱うことはできないだろう。


 いつか失われるかも知れないと、心のどこかで怯え続けていたものが、本当に失われてしまったのだとわかった。今の私に、何か残っているものがあるとすれば…


 熱い。


 熱い。


 苦しい。


 苦しい。


 苦しい。


 苦しい。


 もう何も見えない。聞こえない。


 私が死んだら、子供たちはどうなるのだろう。兄は、兄の子供たちは。


 帝は、私を喪って悲しんでくれるのだろうか。


 我が家の栄華を取り戻せるなどとはもう思っていない。敦康が即位するなどとても考えられない。兄のこともどうにもならない。私にとっては優しく、颯爽とした兄だったけれども、あまりにも逆境に弱かった。私の家に未来はないだろう。左大臣や、その娘の中宮が私たちの身内の生き残りに寛大であることを祈るしかない。


 ただ、それでも、家のことは諦められても、どうしても帝のことは諦められない。たとえ帝がこの先中宮を重んじることがあっても、帝の心のなかの一番は私であって欲しかった。


 我ながらなんと浅ましいことか。まがりなりにも仏門に入った身で、今際の際に往生のことではなく、1人の男に愛されることを考えている。人の心ほどあてにならないものはないとわかっているのに、どうしても帝にすがりたくなる。私にはもうそれしかないのだから。


 会いたい。


 帝に、もう一度会いたい。


 熱い。


 苦しい。


 痛い。


 痛い。


 痛い。


 痛い。


 痛い。


 もう一度、


 もう一度、


 もう一度、


 もう一度だけ……

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