【常世の君の物語No.6】明記

くさかはる@五十音

第一章:明記

一筋の涙が、頬をついと流れた。


柳原明記めいきはそれをぐいとぬぐった。

どれほど眠っていたろうか、頭上の太陽は既に真上を通り過ぎているようである。

木漏れ日の中からそれを見やって、明記はその場で一度、伸びをする。

伸ばした手足に草の先がさやさやと触れる。

叢の中で眠っていたせいで、体中を虫が這っていた。

立ち上がり、衣服をばたばたとしてそれらを落とすと、明記は「わ」と大声を出した。

気合を入れたのである。

それから浜の方へ向き直ると、眼下に広がる海に向かい、もう二度、三度、「わーっ」と叫んだ。

今度は気合を入れるためではなく、鬱屈した気分を吹き飛ばすためのものであった。

そうしてやっと目を覚ますと、明記はきびすを返し、北の町の方へと坂道を下って行った。

ここは鎌倉。

源頼朝が幕府を開いてこの方、三代続いた将軍の家系が途絶え、幕府の実権は現在、北条義時が握っている。


明記の家は鎌倉の町の北の端にあった。

大きさでいえば中の下くらいの家柄であったが、これでも立派な武士の家であった。

そのかやぶきの屋根の下で、今まさに、家臣の弥助が濡れた布でもって門の柱を拭いていた。

「おう、弥助、精が出るな」

大股で門をくぐりしな、明記は弥助に声をかける。

「おかえりなさいまし、坊ちゃん。浜はいかがでした」

弥助は曲がった腰を伸ばし、明記に目線を合わせる。

「別に何も。お前も毎日飽きないことだ。年寄は引っ込んでおればよいものを」

明記はにべもなく言う。

「はは、なんの。この弥助、まだまだお役に立って見せますぞ」

弥助はそう言うと、くしゃくしゃの笑みを明記に向けた。

「それで門の拭き掃除か。ご苦労なことだ。では仕事を増やしてやろう」

そう言うと明記は弥助の足元にあった桶を勢いをつけ力強く蹴飛ばした。

桶はきれいに一度でひっくり返ると、中にたたえられていた水はあたり一面に勢いよく飛び散った。

「何をなさる!」

弥助が目を見開いて叫ぶ。

「どうだ、仕事が増えたぞ。よかったな、弥助。せいぜい励め」

明記は、はははと声高に笑い声をあげ、振り向きもせずに家の中へと入って行った。

弥助はその後ろ姿を見送り、ふぅと一度深いため息をつくと桶を持ち上げ、再び水を汲みに行くのであった。

季節は春――、開け放たれた木戸をかすめて、屋敷の内にも外にもあたたかな風が吹き抜けていた。


そんな鎌倉の町に、今、一人の男が船から降り立っていた。

男の名を、銘信めいしんという。

年のころは三十手前、すらりとした長い手足に、色白の肌が人目を引いた。

「お前さん、どこから来なすった」

その風貌に目を止め、誰彼ともなく声をかける。

「いや、天下の差配役が鎌倉に移って久しいと聞き、鎌倉という地をこの目で見てみようと来てみたわけで」

銘信はそう言うと、屈託のない笑顔を声の主に向けた。

「ほう。見た所、身分はそれほど高くはないとお見受けするが、行く当てはあるのか」

銘信は聞かれ、これも笑顔とやわらかな声で返す。

「行く当てはこれから決めます。これでも私は舞をしましてね。京の都では名の通った舞手だったりするのですよ。ひとつ舞をご所望とあれば、どこへなりとも参ります。お兄さん、どこか金払いのいい屋敷をご存じありませんか」

お兄さんと呼ばれ、白髪交じりの声の主は照れ笑い混じりにこう返した。

「それなら佐治様の屋敷がいい。どれ、そこの検問所に知り合いがいるから、話をつけてあげよう」

言って男は背を向けて、足早に検問所の方へと去って行った。

残された銘信は日陰に入り、今しがた着いたばかりの港町を一望した。

端から端までどれほどあるだろうか、港は見渡す限りの人で埋め尽くされ、海には船が帆先を並べ、今や鎌倉の港は銘信が今まで見た中で一等大きな大湊となっていた。


その夜のこと、銘信は案内された佐治の館で、所望された舞を披露した。

それは見事な舞だということで、銘信の舞は、翌日には鎌倉じゅうの噂になった。

その噂は、弥助の耳にも入ったのだった。

「ぼっちゃん、ご存じですか。昨日、佐治様の屋敷で、それは見事な舞が披露されたとのことです。なんでも京の都から参った男の舞手なのだそうで」

朝の権現通いの折に仕入れたその噂を、弥助は屋敷に帰るなり早速、明記に話して聞かせた。

「ほう、その舞手とやら、男なのか」

明記はその点に関心を寄せた。

「さようで。私も不思議に思い詳しい者に聞いてみましたら、なんでも、舞手は女子だけとは限らぬのが京風らしいのです」

弥助はうれしいのか、口の端に泡を飛ばしながらくしゃくしゃの笑顔でまくしたてる。

「よし、その者をうちへ呼べ」

明記はぴしゃりと弥助に命じた。

「しかし、御屋形様の許可を得ませんと……」

弥助はそう尻込みをする。

「なぁに、親父には俺から話しておく。いいからお前はさっさと使いに行くがいい」

明記はそう言い捨てると、楽しみだのう、と手に持つ扇で顎をとんとついた。


鎌倉中に広まった噂により銘信は引く手あまたとなっていた。

明記の命令に弥助は必死で答えようとしたが、それを先んじて銘信に舞を所望する中堅以上の家が多くあった。

自分の家より格上の連中を相手にしては、明記も黙るしかなく、悔しい思いをしながらも、それでもとりつけた約束の日を待ちわびた。

果たして半月後の日暮れ頃、明記の家の門を、銘信がくぐった。

「小さな家ですが、こちらへどうぞ」

暮れなずむ景色の中、銘信の白い肌がぼうっと浮かび上がるのを、弥助は固唾をのんで見やった。

なるほど、女子の舞手には出ない味がある。

素人の弥助でさえ、そう思った。

やがて屋敷の一番大きな部屋に、明記の父と母、それに明記を含む子供たちが集った。

勿論、控えの間には弥助をはじめとする家臣や手伝いの者がひしめきあっている。

「では、始めよ」

皆の前に膳が並べられたのを見計らって、館の主である明記の父親が命を下した。

それから少しの間を置いて、笛の音が聞こえ始めた。

吹いているのは鎌倉の者である。

中央で構えを解いた銘信が、おもむろに右手をあげ体をよじる。

舞が始まった。

笛の音は銘信の体の動きに合わせ高らかに鳴り響き、それに合わせて銘信は集った面々に見せつけるように、妖艶に舞った。

銘信の舞は三部構成であったが、それらがすべて終わるまで、誰一人として座を立たなかった。

皆、膳に箸をつけるのも忘れて、銘信の舞に見とれていたのであった。

ぱちん、と扇の閉じる音が静かな空間の中で響いたかと思うと、皆、はじかれたように互いの顔を見合わせ、顔をほころばせた。

そして、いかに舞が素晴らしかったかについて、思い思いに語り始めたのである。

銘信は、そんな光景に慣れているのか、すました顔で部屋の隅に座している。

すると、雑多な声の中から、若くて高い声がひとつ、聞こえた。

「銘信殿、今宵の思い出に、その扇、くださらない?」

声の主は、明記の姉、お菊であった。

「これお菊、はしたない」

明記は今年十六になるが、その姉であるお菊は、明記の一年年上であった。

「だって、お母さま、あまりにも舞が素晴らしくって。ねぇ銘信様、こちらへいらして」

年頃の娘の言い分に日頃から甘い顔をしている父親は、これこれ、と言いながら笑って見守っている。

そういう訳で、銘信はお菊の前までやってきた。

銘信の目が、お菊のあどけない笑顔を捕らえた。

銘信は、己が元来惚れっぽいことを知っていた。

しかし十代の頃に想い人と家族を立て続けに殺されるという不幸を体験してからは、遊びの関係を持ちこそすれ、心が動くような恋に落ちたことは一度もなかった。

ところが、そんな己の心が、お菊の顔を見た途端に早鐘を打ち出したのである。

これは、どうしたことか――。

この夜、銘信は、己が十年以上ぶりに恋に落ちたことを知った。


それから間もなく、銘信はお菊に会うため屋敷に通うようになった。

明記もそれを喜び、二人が屋敷の縁側で話し込んでいたりすると、弟たちをけしかけたりしてからかうのであった。

春もたけなわになると、銘信とお菊、それに明記の三人で、西の谷に群生している山桜を見に行ったりもした。

やがて銘信の寝起きの世話を屋敷で行うようになり、一か月も経つ頃になると、銘信は柳原家の一員のようにまでなっていた。

あの頃の我らは世の中で最も幸せであった――。

明記は大人になり昔を思い返す時には、いつもこの頃のことを思い出すのであった。


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