第壱陸話 泥濘

「……ンで、粘樹ッてェンは」

「ごめんってば、もう笑わない、からッ……ぶっ――」


 空中姿勢までは良かった、はずだった。

 空中で両腕を使い、少しでも空気抵抗を上半身に受けることで足からの落下を誘導。

 膝下を硬め、着地の体勢を整えていた。

 ……セルゲイの説明をもう少し聞いておくべきだったか。

 それとも、聞いていたところで結末は変わらなかったか。

 湿原の泥濘ぬかるみは硬化した脚を容易く受け入れ、沈み込み、前回とは違う要因で身動きが取れなくなってしまった。

 

「それァもうどォでもいいから、粘樹ァどれか教えてくれ」


 後から飛んできたカレンに一頻り笑われ、最初はイラっとしたがもう呆れを通り越してしまった。

 コイツはこういうやつだ、諦めよう。

 ようやく落ち着いてきたらしく、湿原を見渡し粘樹を探している。

 

「ん~、独特な見た目してるから直ぐに見つかると思うんだけど……あっ」


 何かに気付いたその視線の先に目を向ける。

 遠目でも分かるほど、大きな昆虫。

 地球を守る某ゲームに出てくるようなサイズ感の、黄金色を纏ったカメムシに似た生物が、何かを咀嚼していた。

 

「ンだあれァ……」


 普通のサイズなら問題ないが、|巨狗鬼オーク独眼鬼サイクロプス級の昆虫には流石にゾワゾワと背筋を伝うものを感じてしまう。

 しかし、一方のカレンはというと、

 

「アイツ、黄食虫バムワミが喰ってるのが粘樹よ! 早くなんとかしないと……!」


 出来れば関わりたくなかったが、一瞬でその希望は絶たれてしまった。

 

「……無視して他ン粘樹探すンじャダメなンか?」

黄食虫バムワミは粘樹を好んで食べるの、放ってたら樹液集めも出来なくなっちゃうわ!」


 逃げ道も絶たれた、やるしかないか……。

 足元は若干の泥濘。

 こちらは下手にハマれば抜け出すのも一苦労だが、相手は六本中四本の細い脚が泥の中も容易に掻き分け全身を支えている。

 走って近づくのは得策ではなさそうだ。

 で、あれば……

 

「アイツン弱点は分かッか?」

「たしか、頭の付け根……で合ってるのか分からないけど、その甲殻のスキマが弱かったはず」

「俺をソコ目掛けて飛ばしてくれ」

「…………」

「ァ?」


 待てども返事がない為にカレンの方を見やると、今にも笑い出しそうなのを必死で堪えている表情だった。

 先程の事を思い出し、泥に塗れた俺の衣服がカピカピに乾いてきている事も追い打ちを掛けたようだ。

 

「……はァ、今からでも返品出来ねェかな――」


 * * *

 

「狙いァ首元でいいンだな?」

「えぇ、行くわよッ!」


 数分後、落ち着いたカレンに今一度確認を取り、狙いを定める。

 身体強化魔法と四肢の硬化、ついでに本当は飲みたくなかった魔力塊を飲み下し、死斑活性で硬化していない肉体を強化した。

 カレンの合図で射出、宙を駆ける。

 視界が、時間が、世界が引き延ばされるような感覚。

 スポーツ選手がゾーンとやらに入った時。

 将又、事故などを起こす瞬間に発揮される爆発的な集中力の産物、走馬灯。

 きっとそれらに近しい感覚なのだろうか。

 風を切る音を置き去りに黄食虫バムワミへと突っ込む、長い長い一瞬の出来事。

 どこを見ているのか分からない複眼であろうその目と、視線が交錯した。

 

「――ッ」


 首元に手が届く数メートル手前、時間にして数万分の一秒などと表される程度の猶予で。

 ヤツは俺を認識し、羽ばたきを開始。

 飛び立って逃げる為というよりは、羽と甲殻を開きこちらの攻撃を牽制する為だ。

 

「こ、ンのッ――!」


 高速で羽ばたかれる羽を手刀で往なし、破り、甲殻を掴んでズレた狙いを調整。

 僅かに浮き上がっていた黄食虫バムワミもバランスを崩し、背中から泥の中へ倒れ込んだ――。

 

「……ッぶはァ、死ぬかと思ッた」

「自虐ブラックジョークは笑えないわよ」


 泥の中を掻き分け進み顔を出すと、カレンが目の前まで来ていた。

 黄食虫バムワミはまだ生きているが、自力で泥に埋まった体を起こすことは出来ないらしく足をバタバタと悶えさせるに留まっている。

 

 泥から脱け出て、顔の方へと移動する。

 ゴキブリは頭がもげても一週間は生きられるというが……

 

「ォ前ァ、どォだろォな?」


 鋭い牙をカチャカチャさせている頭の喉部分から貫手を突き込み、脳天へと貫通させた腕を半回転。

 暫くは足が蠢いていたが、次第にピクつくだけとなった。

 

「ん~、この粘樹はダメそうね……樹液全部そいつに飲まれちゃってる」

「チッ、次探すぞ」


 足元に捨てた頭を蹴とばし、行動を再開した。

 

 * * *

 

「今日は、少し元気そうじゃの?」


 自らを妖狐と名乗ったお姉さんは一度姿を消し、何時間か経過した今再び現れた。

 お兄さんや神樹さまたちが無事だと教えてもらってから、僅かだが心は晴れやかになっていた。

 

「……妾が人間どもの神だと言うたのは気にならぬか」


 ならない、と言えば嘘になります。

 でも、私の知りたかった事を教えてくれたこと。

 そして、私の味方だと言って頭を撫で、抱き寄せてくれたあの優しさを、私は信じます。

 

「……ほうか」


 少しばかり緊張の面持ちだったお姉さんは私の心を読み、ふっと表情を綻ばせた。

 その間も相変わらず、空気を読まずに採血は行われ、喉奥には流動食が流し込まれていく。

 長年で慣れていたとはいえ漏れ出てしまう嗚咽に、お姉さんは苦虫を噛み潰している。

 何故、お姉さんが苦しそうなんだろう?

 

「……少し、昔話をしようかの」


 そう前置きして、お姉さんは偲ぶ思い出を語り始めた。

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