第42話 紫
草薙は廊下の突き当りにある、自販機で囲まれた中にビニールの長椅子が置かれただけの休憩スペースで、突然かけられた後藤の言葉に耳を奪われた。
草薙にとって後藤主任は転属のきっかけを作ってくれたという恩はあれど、特に親しいわけでもない関係で、人間性についてもあまり共感を得られない人、ただし彼女の持つ危機予測の能力だけは本物で、職場で何か面白い事でも起きないかと思いながら日々仕事をしている後藤の助言は、その事について特に気を付けていれば危機を避けられる。
助言を鵜吞みにしてその通りの行動を取ればほぼ確実に事故に遭い。後藤が言った事だけはやらないようにしている限り危険な事は起きないという事は、派遣社員の後藤が周囲から押し上げられる形で主任となって以来、一度も起きていない職場事故が証明していて、後藤自身は彼女にとってまことに不本意な実績をさっさと返上するべく、こまめに事故を誘発させるような助言をしている。
草薙は後藤主任の言葉を一言も聞き逃さないように傾聴した。
「おまえらオカルトが好きな奴らも、原付バイクが好きな奴らもクソばかりだ。クソがクソをあっちこっちにバラまいて、自分はクソなんかしてませんよって顔してやがる。健全で生きがいを得られる趣味を楽しんで毎日が充実してますよって顔して、パンツの中はクソまみれだ」
後藤はそれだけ言って、休憩の時にいつも飲んでいる缶も中身も紫色のエナジードリンクを煽り、炭酸のゲップを吐いた。
草薙は後藤の言っている話の内容を出来るだけ理解しようと務めた。それは出来れば理解したくない事。
原付バイクは道路を走る限り排気ガスをバラ撒き、一〇〇〇kmに一回のオイル交換のたびに廃油を破棄している。
自分の乗っている旧式のダックスはエンジンオイルがミッションオイルとの兼用でスクータータイプの原付のようなギアオイルやディスクブレーキ車のようなブレーキフルードが無いだけまだマシだと思ったが、それも五十歩百歩の話。
何より草薙は現在住んでいる多摩センターの団地からの通勤や生活用品の買い出しではなく、オカルトスポット探索という純粋に自分の楽しみだけを目的にダックスで走り回り、生きていくために必要とはいえない用途でガソリンを消費している。
オカルトスポットの探索という趣味もそうだった。人が居住し所有している場所を自分の楽しみのために見物し、観光のように現地にお金を落とすわけでもなく、たまに起きるオカルトスポットでの器物破損や地権者の許可を得ぬままの配信などの迷惑行為も、ああいう人間と自分は別だからと見てみぬふりをするだけ。
同好会の中でそれらを禁じる規則を作ったところで、規則は人間の恣意による複雑な細則を生み、やがて同好会の分解に繋がるだろう。多くは現実からの逃避的思考を持っているオカルト愛好集団で、草薙はそういう場を何度も見たことがある。
草薙はオカルトという自分の趣味が世に害をもたらすだけのものなんだろうかと考え込んでしまった。原付趣味もまた、通勤は私鉄で、買い物は徒歩で充分な多摩センターに住んでいる身には必要のない贅沢なのかもしれない。
後藤は頭を抱える草薙に追い打ちをかけるように言葉を吐き捨てた。
「私が好きで見ていて、Vtuber配信で小遣い稼ぎもしているモンド映画を作っている奴らは、顔も名前も出している。クソするたびにパンツを脱いで汚ったねぇケツを丸出しにしてる。汚い物を出すんだからな。たまに正しい事をしてるって奴ら、街にクソがあるのが許せねって奴らに撃たれたりして自分がモンド映画の素材になったりして笑えるが、おまえらオカルト好きは人に撃たれなくなけりゃこのままパンツはいたままクソしてろ」
草薙は後藤の言う事を理解したくなかった。後藤主任の言うところのクソみたいな趣味であるオカルトや原付バイクをこれからも楽しみたいなら、パンツを下ろしてケツを出せ。つまり自分の身元を明かせということか。何一つ歯止めを持たず顔を隠したまま卑怯な事をしていれば、いずれ内部抗争や集団心理から生まれる暴走に発展する。後藤主任の言葉を借りればクソまみれになる。後藤はそうなる事を期待している。
そうならないために個人情報の飛び交う今の日本で顔を出すのは不可能。でもこのままいけばクソまみれになるだけ。ならば顔を出さないまでもお尻くらい出すようにすれば、住所氏名までは明かさないが、自分たちがオカルトを趣味とするサークルでるあることを、一般人にはわからないが同好者やその地域の治安を受け持つ役職の人間にはわかる形で示すのを、サークル内での唯一の決め事にすることで、危険な匿名集団になる事を回避する。そのための方法ならば、幾つか心あたりがないでもない。
草薙は両手で後藤の手を握りながら言った。
「決めました、私が作ったオカルト同好会、その唯一の掟を、バイクを紫に塗ることにします」
紫色に深い理由は無い。ただ普段はどぎついとしか思えない後藤の飲んでいるエナジードリンクの色が、今日は妙に綺麗に見えたから。
顔もお尻も出せない草薙が、自分の行動に自分で責任を取るために決めた、多分に妥協的な方法。
それを共有してくれる人間と自分が愛好する趣味を楽しみたいし、それ以外の決め事は何一つ作りたくない。
草薙が作ったサークルがクソまみれになってドロドロの内ゲバを繰り広げて欲しいと願っていた後藤は、心底興味の無い様子で草薙の手を振り払いながら、休憩スペースを出ていった。
「トイレ行ってくる」
後藤がトイレに何をしにいくのが草薙は聞かなかったが、きっとパンツを下ろすんだろうと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます