第40話 転職
草薙は奇妙な事を言った。
小熊の印象では進学校の数学教師のような外見と、話を聞く限り見た目通りの前職経験を持ち、話を聞いているだけで自分の頭の回転の低さを実感させられるような理路整然とした話し方をする草薙は、ドッペルゲンガーの如き物に出会ったという。
今までの会話の中で草薙が極力使わなかった曖昧な比喩表現。しかし教職課程を卒業し、学習塾講師のスキルと実務経験を有する彼女が感じた物を簡明直截、且つ自分のような理解力に乏しい人間に最低限の労力で説明するにはそれが最善なんだろうと思い、小熊は話の続きを促した。
「最初は私、伝票作成の仕事でこの会社に入ったんです」
草薙は自分の作業着の胸に刺繍された電子部品メーカーの社名を指しながら言った。
初めての勤労経験でバイクに乗る仕事をして以来、今に至るまでバイクで物を運ぶ仕事をし続けている小熊には縁が無かったが、主にデスクワークの仕事をしていた人間は、次の仕事でも同種の業務を選びがちになる。肉体を駆使する仕事をする事を忌避し、そんな事が自分に出来るのかと不安を抱く。
小熊が働いていた山梨のバイク便会社にも、前職の証券会社が倒産して失職したので事務で雇って欲しいという人間が来るという、自転車メッセンジャー映画の「クイックシルバー」のような珍事があった。社長の浮谷は事務専業の人間を雇う金なんて無いとお断りしようとしたが、彼女が普通二輪の免許を所有している事に着目した小熊が、まずは就職活動を始めるまでの生活費稼ぎでもしていかないかと説き伏せ、ライダーとしての採用を浮谷社長に認めさせたことがある。
結局彼女はクイックシルバーでケビン・ベーコンが演じた主人公のようにバイク便ライダーとしての適性を見せ、今でも山梨でバイク便の仕事を続けているらしい。
草薙も家業の手伝いのため高校の時に簿記資格を取得し、前職の学習塾講師をしている時に新人として事務仕事を色々とやらされた事もあって、採用もその後の業務遂行も滞りなくこなし、派遣社員としての身分ながらそれなりの給与を貰えるようになった。
無論、塾講師退職と同時に再開したダックスでのオカルトスポット探索も休日に時間を作って行うようになったが、だんだん以前も感じたことのあるズレが発生し始めたという。
スケジュールとコースを事前に決め、それから逸脱しないように楽しむオカルトスポットへの走行と撮影、レポート作成は、次第に義務のようになっていき、高校の時に感じたような、恐怖と好奇心が入り混じった感情で体中が震えるような感覚を味わうことは出来ない。
この転職は失敗だったかもしれないと思い始めた草薙の生活に、ある日変化が訪れた。
「そんな私に救いの手を差し伸べてくれたのが、後藤主任だったんです」
それまでテーブルの上に顎を乗せ、たまに中身の肉を捨てた餃子の皮やお冷やを口に運びながら一応は話を聞いてる様子だった後藤が、自分の話が始まった途端に目をそむけてテーブルに顔を伏し、心底つまならそうな様子で餃子の匂いのするゲップを吐いた。
後藤は壁に向かって言った。
「私はあの配送事務の草薙って奴はもうすぐぶっこわれる。それも物凄く面白い壊れ方で、それが楽しみだって言っただけだ」
仕事先での評価はあまり芳しくないようだが、危機予測能力に関してはズバ抜けているという認識を得ている後藤の言葉は、それなりに発言力があったらしい。退職を考えていた草薙に会社の人事業務を兼任する総務社員は、事務から配送部署への移動を勧めた。
電子部品の仕分けと梱包、事務部課から送られてきた伝票を貼付してトラックヤードまで配送する部署。多くがバイトや不正規雇用者で占められている職場の始業ミーティングで、形だけの自己紹介をした草薙は自分の趣味について聞かれ、原付でのオカルトスポット探索だと答えた。
今さら隠す事でもないが、変な人間だと思われたかと思い草薙は少し後悔したが、仕事仲間の一人が手を上げ、自分も実際に行くことはしないがそういう動画を見るのは休日の楽しみだと言った。趣味は原付でのショートツ―リングやピクニックだが、幾つかのオカルトスポットもその行動圏に入っているという人も居た。
草薙はオカルト趣味のもう一つの側面、非常に安価に楽しめてスポーツのように優劣が数値化されないので、学生や労働者の間では人気があるという部分も知っている積もりだったが、その実例を目の当たりにしてしまった。
学習塾への新卒就職からドロップアウトしてしまい、派遣社員としての食い扶持をにありつきながらもまだ社会的な立場の不安定な自分も、その一人だと知らされる。
皆が概ね草薙と似たような経緯で興味を持つようになったというオカルトの話で盛り上がり始めた草薙と仕事仲間。
そんな草薙たちを見た後藤の発した言葉を、草薙は今でも覚えているという。
「つまんねー奴よりはいい」
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