奇び雑貨店【Glace】

玖凪由

第1話 小さな案内人




 さっと吹いた風に、さわさわと木の葉のこすれる音が響き渡る。


 日光が、まるで祝福でもしているかのように地上へ降り注いでいる。


「――別れよっか」


 そんな爽やかな初夏のある昼下がりに、そんな言葉が俺に突き立てられた。






「……んあ……?」


 ふっと意識が浮上し、目を開ける。


 しばらくぼんやりとして、のろのろと枕元へ手を伸ばす。手に取ったスマホの画面をつけると、午前十一時を少し過ぎたばかりの時刻が表示された。


 普段なら寝坊どころの話ではないが、今日は問題ない。なんと言っても今日の講義は午後からだからだ。


 そのまま少しぼーっとしていると、腹がくぅ~……と情けない音を鳴らした。朝食の時間はとっくに過ぎ、昼間近の時間帯。最後に食べたのが昨夜二十時頃の晩飯で、半日以上も過ぎているのだから腹が減るのも当然のことだ。


 さすがに何か食べないとか。俺は腹をさすりながら考える。


 今から大学に行けば十二時過ぎになるため、学食で昼食にありつくのも選択肢としてはアリだ。……アリではあるのだが、それを選ぶ意志が今の俺にはなかった。


 なるべく学校にいたくない。そんな思いしかない自分に重苦しいため息を吐き出す。自分で自分が本当に嫌になる。


 ほんの少し前までは逆だった。早くキャンパスに行きたくてしょうがなかった。そんな、高校時代までは感じたことのなかった気持ちを抱いていたはずだったのだ。


 いつからこうなってしまったのか――だなんて、そんなことは考えるまでもない。


 ――別れよっか


 突きつけられたあの言葉が、今も脳にこびりついている。


 理由はいまだにわからないまま。


 唯一わかることは、俺の夏休みが始まる前から終了したという事実だけ。


「死にてぇ~……」


 ことある事にあの時の光景を思い出し、その度に自然と口からこぼれ出る言葉。もはや口癖になりつつある。よくないということはわかっているのだが、気がつくと口にしてしまっているのだ。


 のっそりと身を起こし、冷蔵庫にあったもので適当に昼飯を済ませ、大学へ向かう準備をする。


 服を着替え、洗面に赴く。顔を洗い、歯を磨き、そして鏡を見ながら髪をセットする。未だにこんなことを続けている自分におかしさを感じながらも、もはやルーティンとなり果てた身だしなみを整える。


 ワックスを手で伸ばし、金とまではいかないがそれなりに明るく染めた髪をかき上げると、耳が露わになる。両耳にはイケてる風なお手頃価格ピアスをひとつずつつけている。


 髪も耳も、大学生活開始直前にやったものだ。これのおかげで俺は楽しく刺激的なひと時を手に入れることができたと言っても過言ではない。


 今となっては、楽しく刺激的なひと時と過去のものだが。鏡に映る自分の口元が自嘲気味に笑む。


 やるせなさを感じ、頭をぶんぶんと振って洗面所を出た俺は、放ってあったデイパックをひっつかんだ。軽く中身をチェックしてから肩にかけ、玄関へ向かう。心なしか足取りは重かった。


 ドアを開けると、刺すような光が目に入り、あまりの眩しさに涙が出そうになる。顔をしかめ、戸締りをして歩き出した俺を、まったく嬉しくない照りつける太陽と真昼間の暑さが迎えた。






「あ、三ヶ嶋みかしまくん!」


 教室に入ってすぐ、俺を呼ぶ声が聞こえた。そちらに目を向けると、席の真ん中あたりの列の右端に手を振っている男子がいる。


 俺はそれに応じるように軽く手を挙げて、その男子生徒が着席している長机に向かった。


「今日は午後からだっけ」


 荷物を下ろして隣に座った俺に、邪気のない柔和な表情で男子が話しかけてくる。


「まぁな。おかげでたっぷり寝れた」

「電車も空いてるもんね」

「まぁ、午後からだとイマイチやる気起きなくて、たまにサボりたくもなるけどな」

「あはは、その気持ちはわかるかも」

「へぇ、お前でもそんな風に思うんだな」


 意外に思って軽く目を見張ると、男子――真木まきたけるは苦笑した。


「そりゃあ、僕だって思うよ。今から行くのちょっと億劫だなって」


 真木は勉強熱心な男だ。この大学に通う生徒の中では少数派の部類に入る。


 うちの大学は都心近くにあるが、そこまで偏差値の高いところではない。底辺とまではいかないが、全国的に並かそれ以下ぐらいだろう。


 だから、ここに通う生徒は大半が勉学以外で大学生活をエンジョイしている。サークル活動やバイト、その他遊びなど、高校生までとはまた違った環境で、社会人になるまでの猶予期間を謳歌おうかしているのだ。かくいう俺もその例に漏れていない。


 そんな連中ばかりだというのに、真木は勉強に重きを置いているようだった。一切サボることなく、熱心に受講している。こんな大したことない大学で、だ。


 俺はお世辞にも頭がいいとは言えない。勉強は中高からあまり得意ではなく、テストはずっと平均付近を彷徨っていた。いくらうちの大学が全国的に下のほうとはいえ、さすがにそんな成績で入学できるほど甘くはない。


 受験期間に必死こいて勉強して、なんとか入学までこぎつけた。入ってしまえばこちらのものだというのを体現している俺は、当然ながら今は勉強などほとんどしていない。せいぜい、留年を避けるために単位だけは落とさないように注意しているぐらいだ。


 真木に、なんでそんなに頑張るのかと聞いたことがある。すると、勉強は将来の役に立つからだという実に模範的な回答が返ってきたのが印象に残っている。


 だというのに、そんな人間が学校に行くのが面倒だと思うというのが意外だった。


「でも、三ヶ嶋くんもすごいよね。いつもばっちり決めて来てるし」


 そう言って真木が眼鏡の奥の瞳を若干キラキラさせ、俺に尊敬にも似た眼差しを送ってくる。


 染めた髪をセットし、適度にアクセをつけている俺と違い、真木はどう見ても地毛でアクセ類などは一切つけていない。服装もどこにでもあるチェーン店で買ったのだと容易に推察できる格好だ。清潔感こそあれ、客観的に見れば地味だと言えるだろう。


 ぱっと見正反対な俺たちがこうして話しているところは、傍から見たら意外に思われるかもしれない。でも、俺は真木と駄弁るのは嫌いじゃない。むしろ、肩の力を抜いて気兼ねなく話せるから気持ちが楽だ。


 彼を侮っているわけではない。今でこそこんな身なりの俺だが、かつては真木のように派手さや陽キャとは真反対の人間だった。――根っこの部分は何ひとつ変わっていないから、真木との会話に安堵を覚えているのかもしれない。


「あーいやこれは……癖っつーか」


 つい声に陰が滲む。自虐から出た言葉だが、それに気づいていない真木は感嘆の声を上げる。


「かっこいいなぁ……。僕もそんな言葉言ってみたいよ」


 自分で言うのも口幅ったいが、どうも真木は俺に憧れの気持ちを抱いているらしい。少し前までの俺ならいい気分になっていたかもしれないが、今の俺にとってその羨望は痛みを伴って俺を突き刺す。


 そんな眼差しを送ってこないでほしい。俺のはそんないいもんじゃないんだから。

 

「僕も三ヶ嶋くんみたいにオシャレできたらなぁ……」


 真木の声がふと翳る。その言葉の意味を俺は知っているが、かける言葉が見つからない。


 それでもなにか言おうと口を開きかけたとき、ちょうど講師が入ってきた。教室にいた他の連中が席に座り始める。


「始まるね」


 真木はノートを開いて居住まいを正し、授業に臨む体勢を整えた。こうなった真木は、基本的に受講中は一切無駄口を叩かず、真剣に受講するモードとなる。


 講師が入ってきたのをナイスタイミングだと思ってしまった自分に自己嫌悪する。それから、自分の気の利かなさにうんざりするだけだった。


 俺は隣に気づかれないようにそっと息を吐き、始まった講釈を聞くともなしに聞き始めた。



  ▼  ▼



 すべての講義を終え、俺と真木はキャンパスを並んで歩いていた。


「真木はこれからバイトか?」

「うん。稼がなきゃだから」


 真木はいわゆる苦学生だ。母子家庭で、女手ひとつで育ててくれたのだと聞いている。真木は、本当は高校卒業したら即就職するつもりだったらしい。しかし、真木の母親は息子が本当は大学進学したいという気持ちを持っていることを見抜き、大学に進学させてくれたという。


 だから、真木は勉強に熱心なのだろう。できるだけいい職について、母親に楽をさせるために。


 それだけでなく、なんと真木は講義後でもバイトを惜しみなく入れていた。少しでも母親の力になれるように、稼いだ給料はほとんど家に入れているのだと聞いた。本当に親孝行者だと思う。少し、いや、だいぶ心配になるレベルではあるが。


「あんま無理すんなよ」

「あはは、ありがとう。三ヶ嶋くんはサークル?」


 サークル。その単語にピクリと肩が跳ねる。


「あーいや……バイト探ししなきゃいけなくてさ」


 そう言うと、えっと真木は目を丸くした。


「バイト? 三ヶ嶋くんが?」


 心底意外そうに言われ、俺はあーと意味のない言葉を発し、頬をかいた。


「……まぁ、もうすぐ夏休みだしな。稼ぎ時だし、金がありゃできることも増えるだろ?」


 なんで俺はこんな言葉しか出てこないんだ。この期に及んで。


「やっぱりすごいなぁ三ヶ嶋くんは。サークルとバイトかけもちなんて、僕には真似できないよ」


 真木はサークルに属していない。その代わりとでもいうようにバイトをできる限り入れている。そんな真木はサークルには多少なりとも憧れがあるようで、俺のことを逐一褒めてくる。


 やめろ。やめてくれ。


 俺は尊敬されるような人間じゃないんだ。


 勉強にバイトに一生懸命なお前のほうが、俺なんかよりもよっぽどすごいんだから。


「じゃあ、夏休み大忙しだね。サークルにバイトに、あとデー……」


 言いかけて、真木ははっと口をつぐんだ。


「あっ、えっと……」


 気まずそうに言い澱む真木を見て、俺は思わず苦笑した。


「おいおい、そんな反応されるほうが傷つくっつーの」

「ご、ごめんね! わざとじゃなくて……」

「わーってるよ。前にも言ったが、そんな気にすんなって」


 できるだけ軽い調子でそう言って笑ってみせるが、真木は表情はどこか不安そうだった。


「あの、三ヶ嶋くん」

「ん?」

「……大丈夫?」

「……ああ、もう吹っ切ってるよ」


 我ながら、なんて下手くそな嘘なんだろう。そう自覚できてしまうほど、声色に滲んでしまっている。ああほら、真木の表情が変わらないじゃないか。


 それでも真木は、それ以上言及してくることなかった。……本当にいい奴だ。


「あ、そろそろ行なきゃ……」

「おう。バイト、がんばれよ」

「うん、三ヶ嶋くんもサークルとバイト探し頑張ってね!」


 パタパタと駆けていく背を見送り、俺は真木と別れた。


「……サークル、か」


 サークルのことを考えると気が重くなる。俺は最低だ。心配してくれている真木にさえ、ここ最近サークルに行っていないことを伝えられていないんだから。


 あそこには、彼女がいる。だから、俺はあの日以来サークルに顔を出せなくなっていた。


 どの面下げて行けばいいのかわからなくなってしまったのだ。まったくもって情けない。所詮、俺はこの程度の人間でしかなかったという事実を嫌というほど突きつけられる。


 どれだけ上っ面を取り繕おうと、中身が変わることはない。俺のような薄っぺらい人間がいい例だ。


 俺は嘆息して首を振った。いつまでもこんなことを考えていてはだめだ。ひとまずは気を紛らわせないと。


 そう思った俺は図書室へ向かい、空いていたテーブル席に腰かけてバッグから求人誌を取り出した。少し前にコンビニでフリーペーパーとして置かれていたものである。


「バイト、どうすっかなー……」


 机上に広げた求人誌とにらめっこをする。実はバイトは初めてではない。どうしても欲しいものがあって、それを買うために高校生時代にやったことがあるのだ。


 ……高校時代、か。あの頃の自分に別れを告げて、俺は変わったはずだった。それなのに、どうしてこうなってしまったんだろう。


 と、いけない。また思考がそちらへ向いてしまった。なんのためにここまで来たと思ってるんだ。


 嫌な思考を無理やり振り払い、求人誌をパラパラめくる。希望条件としては、できるだけこの大学から離れていること。なるべく大学の知り合いに会いたくなかった。この際、移動に一,二時間かけてもいい。どうせ夏休みにすることなんてバイトぐらいしかないのだ。なら、多少遠くてもそこまで支障はない。


 お盆以外で実家には帰りたくないし、地元の友人たちとも会えない。それこそ、どの面下げて会えばいいのかという話になるからだ。


 求人誌をパラパラめくって見繕っていると、ちょうどよさそうな仕事を見つけた。隣町で、ここから電車で一時間ほどの立地。仕事内容は飲食店のホールスタッフだ。


 髪色自由と書いてあるのもポイントが高い。忘れていたが、俺の髪は染まっており、ピアスも空いている。ピアスは仕事中外せばいいだけだが、髪色は少し厄介だ。ひとまず夏休み期間だけのつもりなので、その期間だけ暗くするのも面倒なのである。


 今更髪色に拘る必要もないのだが、それでもなんだか固執してしまう。我ながら未練たらしいとは思うが、あの頃の自分に戻ることだけは避けたかったので現状維持の状態を保っているのだった。


 とにもかくにも目星はついた。さっそく連絡しようと席を立ち、俺は図書室を後にした。



  ▼  ▼



「あっち~……」


 数日後、講義を終えた俺は街中を歩いていた。電話でバイト希望の旨を伝えたその日に、面接の日取りが決まった。それが今日、このあと十五時からだ。


 今日の俺が取っている講義は午前中までだった。講義終了後すぐキャンパスを出て、駅近のファミレスで適当に昼を済ませ、面接のある店舗に向かっている最中である。


 大学の最寄駅から店の最寄りまでに一度乗り換えがある。ただし、ただ駅のホームが変わるわけではなく、改札を出て別の駅まで10分ほど歩かなければならないのだ。今歩いているのが、その中間地点と言うわけだ。


 なるべく安いルートを探した結果がこれだった。幸い、面接の時間には余裕を持って出てきたため、そう急ぐ必要はない。


 そう思ってのルート選択だったが、強い日差しの中を歩かなければならないということをすっかり失念していた。おかげで今や汗だく。正直、このまま電車に乗りたくはないレベルだ。駅に着いたら、ホームで電車を待っている間に制汗シートで拭けるところは拭いてしまおう。


 次からはケチらずに電車オンリーで行けるルートにするぞと決意を固めつつ、スマホの地図アプリに目を落とす。ここには降りたことがなく、まったく土地勘がない。いや、俺は元々地方出身なのだから、都会の土地勘なんて一ミリもない。ようやくアパートと大学近辺に何があるのかをざっくり覚えられたばかりなのだ。それ以外はもっぱら地図アプリ頼りだった。


 周りに注意しつつ、地図アプリを見ながら歩くことしばし。スマホから顔を上げたタイミングで、ふと視界にたくさんポスターが貼られた賑やかそうな店が入った。


 ゲームショップだ。貼られているのは、発売中あるいは発売予定のゲームソフトの広告だと思われる。


 無意識的に足を止め、癖でついその広告を流し見していると、そのうちのひとつに目が留まった。


「うお、このシリーズ新作出んのか!」


 思わず興奮気味の声がこぼれ出て、それにはっとして辺りを見回す。幸い、すぐそばに通り過ぎるような人影はなく、俺はほっと息を吐く。


 そうして改めてその広告を見た。その広告には剣や杖を持ったキャラクターが数名描かれており、ボスらしきいかつい外見のモンスターも映っている。


 いわゆるファンタジー系のRPGゲームだ。何作も続くロングシリーズもので、俺はこのシリーズはすべてやり込んでいる。厳密に言うとシリーズの途中からやり始めたのだが、それが思いのほか面白く、気づいたら1作目から買って夢中で遊んでいた。


 構図から察するに、どうやら今作はシリーズ初となるダブルヒロインらしい。俺は主人公が男女選べるのなら、基本的には男性キャラを選んでいる。だが、性別には特にこだわりはないため、主人公が女性キャラでも抵抗感はない。それに、結局パーティに加わるキャラクターの動作はすべてプレイヤーが選ぶことになるから、あまり関係がなかったりする。


 俺はゲームの操作性よりもストーリーを重要視する質のため、話が面白ければ他に多少難があってもあまり苦に感じない。無論、よほどひどすぎなければだが。


 自分の大好きなゲームの新作で浮足立ったのも束の間、俺ははたと思い出した。そうだ、今の俺はこのゲームソフトを買っても遊ぶことができない。


 なぜなら、持っていたゲーム機をほとんど売ってしまったからだ。大学入学が決まったあと、夢のキャンパスライフに向けて少しでも足しにしたかった。それから、自分が変わるために思い切った結果だった。


 俺は昔からこうと決めたらそれにすべてのリソースを割く傾向にある。思い切りがいいのは長所だと思っているが、それが今となって仇となってしまっているのはどういう皮肉だろうか。


 ふと焦点を合わせると、ガラス窓に自嘲気味な笑みを浮かべた大学生が映っている。……ここにいてはダメだ。俺は首を振り、身体の向きを変えて足早にその場を立ち去る。


 再びスマホの地図アプリを見ながら、乗り換え駅に向けて数分歩いた時だった。ふいに微かな音が聞こえたのは。


 小さいが甲高い声だ。なんだか聞き覚えがある気がする。……これは、猫の鳴き声か?


 キョロキョロと辺りを見渡すが、それらしき影はない。しかし、声は断続的に聞こえてくる。


 集中して声の位置を探る。すると、その声が頭上から聞こえてくることに気がついた。


 はっと視線を上げると、近くの木の上に小さな影を見つけた。


 黒猫だ。小柄だが、子猫と呼ぶには少し大きいように思う。その猫が、枝の上に乗って断続的に鳴いている。


「……もしかして、降りられなくなってんのか?」


 本当にこんなことがあるとは。シミュレーションゲームでしか見たことがないぞ。


 俺は再び辺りを軽く見まわす。しかし、周りに人影はほとんどない。


「仕方ねぇな……」


 見つけてしまった以上、さすがに見て見ぬ振りはできない。あんな可哀想な鳴き声を聴いて素通りできるほどのメンタルを、俺は持ち合わせていなかった。


 俺自身さほど運動ができるわけではないが、勉強よりかはマシだと思っている。この程度の木なら問題なく上ることができるはずだ、きっと。そう踏んで、俺は木に手をかける。


「今助けてやっから、そこ動くんじゃないぞ……」


 操作キャラの選択台詞のような言葉を無意識に言いつつ、慎重によじ登っていく。幸いというべきか、その木には凹凸があり、うまく手や足を引っかけられるようになっていた。


 やや置いて猫が乗っている枝に辿り着き、俺は右腕でしっかり幹に掴まりながら左腕を猫へと伸ばす。


「ほら、来い」


 猫の鼻先まで手をやると、猫は俺の指先を嗅ぐような仕草を少ししたあと、大人しく俺の手のひらに前脚を乗せてきた。


 あまりに素直な動きにびっくりしつつも俺は慌てて寄ってきた猫を腕に抱える。そうして猫を落とさないようにしっかり抱きながら、よっと一気に飛び降りた。


 無事着地し、ふうと息を吐く。意外と高さがあったが、なんとか無事に助け出すことができた。


 猫の様子を窺う。全体的に真っ黒な毛並みをしているが、四本の脚の先だけ白い毛になっている。そして驚いたのが、猫の目の色が両方で違っていたこと。右が青色で、左が黄色。たしか、オッドアイというのだったか。


 その珍しいオッドアイの猫は、俺の腕の中で大人しくしている。猫ってこんなに大人しい生き物だっただろうか。


 少し疑問に思ってよくよく見ると、猫は首輪がされていた。つまり、飼い猫ということだ。だから妙に人慣れしているように見えたのか。


 その首輪には特にタグなどはついておらず、名前も住所も書かれているようには見えなかった。これでは、飼い主の元に連れていってやることもできない。


 猫なら自力で家に帰ることができるのではないかと思うがどうなのだろうか。一旦、俺は屈んでその猫をそっと地面に降ろしてやった。


「ほら、さっさと家に帰んな。もう降りられないようなとこに上るんじゃないぞ」


 なんて、周り人がいないのをいいことに好き勝手言ってみる。俺が通りがからなかったらどうなっていたことやら。まぁ、その時は俺ではない誰かが助けてくれたのかもしれないが。


 俺の言葉がわかったわけではあるまいが、猫はフニャッと少し変わった鳴き声をひとつ上げると、すたすたと歩いて行った。よかった、これで俺のそばから離れなかったら、本格的に交番にでも連れて行かなければならないところだった。


 あの調子ならおそらく大丈夫だろう。無事に飼い主の元に帰れるはずだ。無責任かもしれないが、残念ながら俺にできることはもうない。


「ったく」


 俺が立ち上がってこの場を去ろうとしたとき、またフニャッという声が耳に届いた。


 振り返ってみると、視線の先にさっきの猫がいた。こちらをじっと見ており、背を向けて数歩歩いたかと思えば、またこちらを見た。


「……ついてこい、ってか?」


 まさかな、と思ったものの、猫が同じ挙動を繰り返し、俺の目をじっと見つめてくる。


 間違いない、これは明らかについてこいと言っている。


 思えば、この時の俺は舞い上がっていたのかもしれない。こんなあり得ない非日常的な状況に。だから、重要なことを忘れて俺はあの猫についていくことにしたのだ。






「おーい、どこまで行くんだよー」


 猫が細い道を軽やかに歩いていく。時折、背後を振り返り俺がついてきているか確認するかのような仕草も見せながら。


 なんだか知る人ぞ知るような道を通らされている気がする。一体どこまで行くのだろうか。


 まさか俺をもてあそんでいるわけじゃないだろうな、とやや疑いが生じ始めた時だった。急に視界が開け、目前に建物があった。


 こじんまりとした西洋風の建物だ。全体的に水色で、そのせいかどこか涼しげな爽やかさを感じる。


「なんだここ……」


 扉の両脇にショーウィンドウがある。そこから棚に並んだ小さな雑貨がいくつも並んでいた。


「雑貨屋か? 店の名前は――」


 入り口らしき扉の上に大きな看板があった。その看板には【Glace】と英字で書かれている。しかし、なんだか妙だ。英語にしては読みづらいような気がする。俺がただ単に英語が苦手なだけかもしれないが。


「あー……なんて読むんだこれ? ぐ、ぐれいす……?」

「――グラースね」

「うひゃあっ!?」


 ふいに横合いから声がかけられ、思わず俺は間抜けな声を上げてしまった。


「〝氷〟って意味のフランス語なの。オシャレでしょ?」


 慌てて顔を向けた視線の先に、そう続けた声の主がいた。


 若い女性で、二十代半ばぐらいだろうか。少なくとも俺よりは年上だと思われる。真っ白のブラウスに、ひらひらと揺れる淡い水色のロングスカート姿。全体的に涼しげな服装である。


 肩より少し長いストレートヘアは色素が薄く、天然ものだと嫌でもわかってしまうほど透き通るような髪色をしていた。顔立ちも整っており、日本人顔ではあるもののなんだか純粋な日本人とは思えなかった。


「メル、おかえり」


 女性が腕を広げると、俺を先導してきた猫が軽やかに跳躍して女性の腕の中に納まった。


 猫――メルは、ゴロゴロと喉を鳴らしながら女性の胸元に擦り寄っている。女性のほうも顔を綻ばせて、メルを優しい手つきで撫でた。


 呆然とその光景を見ながら立ち尽くす俺のほうに、女性がやおら顔を向け微笑んだ。


「ようこそ、雑貨店【Glace】へ」


 そうして紡がれた言葉は、やけに俺の心に響いた。




 ――それが俺と、この不思議な店との出会いだった。


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