第35話 俊彦、井川加奈に真実の女の息吹を見る

 四月中頃、午後の仕事が始まる少し前の昼休みに、俊彦はデスクの前でコーヒーを飲みながら椅子に凭れて、書類に眼を通していた。

「何をご覧になっているのですか?」

傍を通りかかった井川加奈が声を掛けて覗き込んだ。

「なに、別に大したものじゃ無いよ、午後の講義のレジュメだよ」

「そうですか、ご熱心なのですね」

そう言って向きを変えようとした井川加奈の上衣の裾が机の端に置いて在ったコーヒーカップに触れて、カップがひっくり返った。コーヒーが零れて彼女の膝の辺りと机の上を濡らした。

「あっ、済みません!」

咄嗟に、井川加奈はそのまま、自分の上衣の袖で、無造作に机の上に零れたコーヒーをさあ~っと拭き取った。今日着下ろしたばかりと思われる真新しい服の袖を雑巾代わりに使ったのである。

驚いた俊彦が少し語気を荒めて言った。

「汚れるじゃないか、折角の服が!」

「いえ、良いんです。済みません、コーヒー、煎れ替えて来ます」

彼女はそう言い置いて部屋を出て行った。

さり気ない仕草に見えたが、俊彦は彼女の仕草に、ほのぼのとした温もりと優しさを視た気がした。

「そうか、そういう娘だったのか・・・」

彼は其処で少し考えこみ、何かを心に決めた。

 

 その日の夕方、井川加奈が帰途の私鉄駅に着くと、改札口の前で俊彦が人待ち顔に佇んでいた。買い物袋を下げた彼女は少し手前で足を止めて彼に呼びかけ、悪戯っぽい眼で笑い掛けた。

「どなたかをお待ちなのですか、先生?」

「うん、待って居たんだよ、逢いたい人を、ね」

「でも、あの可愛いお嬢さんはもう故郷へ帰られたんじゃないすか?」

「えっ、何でそんなことを君が知っているんだ?」

「何度かお見かけしたんです、白いBMWのお二人を」

「そうだったのか、見られていたのか・・・」

「でも、ここ十日間ほどはお見かけして居ませんわ」

「然し、逢いたい人は来るんだよ」

「えっ、来られるんですか、真実に?」

「真実だ、と言うより、もう来ているんだよ、眼の前に。僕が逢いたくて待って居たのは、間違えないで欲しい、井川君、君なんだ」

「わたしを、ですか?でも、何故?」

「話したいことが一杯在ってさ。口ではなかなか上手く言えないんだが・・・」

そこで、俊彦はちょっと息をついてから、話を続けた。

「僕は最近ずうっと、この三月ほどの間、若いぴちぴちした明るい華やかな女の精気みたいなものに魅入られていた。然し、真実の女の息吹と言うのは、井川君、君のことだったんだ。君の優しさ、穏やかさ、和やかさこそが女の生命なんだ。一年間も毎日仕事で顔を合わせながら解らなかったが、僕はやっとそれに気が付いた。今日、君が零れたコーヒーを服の袖で拭いてくれた時に、解ったんだ。とにかく君に、それを伝えたかった、だからこうして待って居たんだ」

 井川加奈は眼を見張り、放心して、手にした買物袋を落としそうになり、その後、不意に激しく瞬きをした。更に、彼女は狼狽え、当惑し、じっとしていられない素振りになって、言った。

「少し歩いて下さい、あちらへ。あの踏切を渡って向うへ行きませんか」

彼女は俊彦の返事を待たずに先に立って歩き出した。

その少し前屈みの肩が、歩きながら頻りに揺れている。しゃくり上げているようにも見える。

俊彦は足を速めて追いつき、その肩にそっと手をかけた。

 それから二人はレストランでフレンチを食し、バーでワインを飲んで心穏やかなひと時を過ごした。それは二人が出会って初めての、寛いだ和やかな解き放たれた時間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る