大人への階段

木村 瞭

第一章 大人への扉

第1話 高校二年時に優美と修治は初めて顔を合せた

 新藤優美は京都市北郊の閑静な住宅街に生まれ育った。母親は心身共に華奢で、華道の師範をしていたが、現実の生活よりも華の世界に没入する女性だった。父親は東証一部に上場する中堅企業のオーナー経営者で、市の教育委員会の一員でもあった。彼は衝動的で厳しく、教育に関して熱心だった。書物からは何も学ばず、独力で世の中を渡って来た男だったが、教育を受けていれば人生はもっと上手く行っただろうと固く信じていた。

 こうした両親から生まれた優美は、少女の頃から神経が繊細で、空想の中に愛や真実を求めるもの静かな子だった。優美は学校で勉強によく励んだ。恥ずかしがり屋で内気だった彼女はいつも勉強ばかりしていた。皆に良く思われたい一心で、優美は先生が教室で出す質問には全て答えようとした。勢い良く手を挙げ、眼をきらきらと輝かせて、クラスの他の生徒たちが答えられない質問に答えた時には、幸せそうに微笑んだ。

私、あなた達の為に答えてあげたのよ、ううん、気にしなくて良いのよ、質問は全部わたしが答えてあげるから・・・

彼女の眼はそう言っているようだった。

 

 高校二年時のクラス編成で優美は藤木修治と初めて顔を合せた。

修治は熊本からの転校生で九州訛りがあり、口数も少なく、短髪の精悍な顔に濃い眉毛、その太い眉の下に涼やかな細い眼が在った。雑誌から切り取ったアイドルのピンナップ写真を後生大事に鞄に入れて毎日持ち歩いていた。ビキニ水着の写真だった。

いつも帽子を阿弥陀に被り、不良っぽく露悪的だったが、勉強は良く出来た。物怖じせず、見知らぬ誰とでも気さくに話し、何処へでも気軽に出向いた。ロックンロールやポピュラーを好んだが、バッハやモーツアルトなどのクラシックにも耳を傾けた。

熊本で卓球をやっていたらしく転校後すぐに卓球部へ入ったが、団体戦のレギュラーには選ばれなかった。

 

 或る日の昼休み、一つの事件が起きた。

それは、昼食も終わって午後の授業が始まる少し前の、生徒食堂での出来事だった。

長身の屈強なサッカー部員の一人が、卓球部のキャプテンに突っ掛って来た。

「卓球部員どもの気に喰わ無ぇところは、な。女生徒に人気が有り過ぎること、やたらと女子部員が多いこと、その人気にあやかって調子に乗り過ぎていること。あんな小さな台でちょこまか動き回って何が面白いんだ?陰気で暗くて、あんなものはスポーツじゃ無えよ」

ムカッと来たキャプテンが言い返した。

「喧しい、黙れ!」 

「何言って居やがる、この女たらしの、軟派野郎が!」

その時、傍にいた修治がさっと立ち上がって物も言わず、そのサッカー部員の顎に痛烈な右のパンチを一発浴びせた。忽ちその場は修羅場と化した。キャプテンと修治は二人してサッカー部員達の誰彼構わずに殴りかかった。テーブルが引っくり返り、女生徒達が叫び、拳固が交錯した。サッカー部員や野球部員達ほど屈強頑健でなかった修治が、自分の仲間が「女誑し」と罵られたという唯それだけの理由で、強豪サッカー部を向こうにまわして闘ったのだった。修治は、肩と肩をぶつけ合い、食事の出し口であるカウンターを背にして、力の限りパンチを振るい続けた。

 

 それから修治の周りにはいつも人が集まり、仲間達が彼を取り囲んだ。彼の居る所だけ空気の色が違うようだった。男の子も女の子も彼に惹きつけられた。そして、新藤優美もその惹きつけられた中の一人だった。優美の心は修治と親しくなるという思いで揺れ動いた。修治が教室へ入って来ると、彼女は忙しく勉強している振りをしたが、彼の様子を一心に窺がった。修治が自分の隣の席に着いたりすると彼女は赤くなって顔を下に向けた。何か話をしようとしたが、言葉が出て来なかった。優美の胸は修治に如何に近づくかで一杯になった。自分が生まれてからずっと求めていた資質が修治には具わっているのではないかと考えた。そして、自分が勇敢に行動すれば、修治との関係も変わるのではないか、そうすれば、ドアを開けて部屋へ入るように、彼との新しい関係が切り拓けるのはないか、優美はそういう考えに執り憑かれ、昼も夜もそのことを考え続けた。とても温かくて親密なものを真剣に求めていたが、それは未だ意識の上では性とは結び付いていなかった。其処まではっきりしたものではなく、彼女の心はたまたま修治に出くわしただけだったのである。修治はクラスメイトとして身近に居たし、自分に対して冷淡ではなかった故である。

 

 日本史の授業を受ける教室への階段を上ろうとして、優美と修治は出くわした。修治は、やあ~、という表情を顔に浮かべ、優美は軽く微笑み返した。並んで階段を上りながら修治が言った。

「授業が終わったら、ノートを写させてくれないか?」

「えっ?」

「俺、先週、風邪を引いて一日休んだから、日本史の授業を受けてないんだ」

「あっ、そう、そうだったわね。良いわよ、解かった。貸してあげるわ」

二人は連れ立って教室へ入り、優美は修治の真後ろの席に着いた。

これまで勉強に死力を尽くす程に頑張って来た優美は、東京の国立大学に現役で合格するだろうと目される秀才になり、その過程で、次第に、自信の欠片のようなものが培われて来た。そして、思春期の人生を生きる多様な局面においても、何事につけチャレンジャブルに振舞うことが目に見えて際立って来もした。

 秋の学園祭の夜、キャンプファイア―を囲んで、参加している全校生徒が輪になって踊るフォークダンスが始まった時、思いがけなくも、優美は修治からパートナーとして声を掛けられた。

「一緒に踊ってくれないか?」

「えっ?わたしが?」

「うん、宜しく!」

優美は舞い上がる有頂天の思いで、修治と手を組み合った。だが、三十分ほどが経って、一人ずつ相手が変わって行くチェンジング・パートナーになった時、優美はもう他の誰とも踊りたくなくて、輪から外れ、会場のグランドを後にした。


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