第33話 決戦前
教室には二年生全クラスの生徒の鞄が、机や椅子の上、さらには床にまで、所狭しと並べられていた。人がいない空間が鞄たちの存在によって妙に賑やかに彩られ、薄暗く、そして静寂の中でその光景を目にするとかえって騒がしさすら漂っているように思える。
そんな中、一条はただ一人窓際の椅子に腰掛けていた。彼が座っている席だけは鞄が置かれておらず、どうやら誰かの鞄をわざわざどけて、そこに腰を落ち着けたようだった。無言で窓の外を眺める彼の姿が、賑やかな教室に一人だけぽつんと取り残されたかのようで、その静かな背中がどこか寂しげに見えた。
「なにしてるんだ、こんなところで」
皆が文化祭準備で盛り上がる中、誰もいない教室で窓の外を眺めているというのはどうにも意味深に思えた。無言で荷物だけとって退散するのがなんとなく憚られて、俺が言葉を投げかけると、一条は緩慢な動きで首を傾けこちらに一瞥を寄越す。
「……きゅーけー中。実行委員の仕事が思ってた以上にたるくてな。ちとせの目を盗んでサボってんだ」
「そっか」
「そっちは、展覧会の準備は順調か?」
「ぼちぼちな。まぁ、どうせ見に来るヤツはほとんどいないだろうけど」
「ははっ」
一条の渇いた笑い声を区切りとして、社交辞令染みたやり取りが途切れる。
ここまでの会話にきっと意味はない。それは俺以上に一条がよくわかっていることだろう。
ぞわぞわとしたくすぐったいような、それでいて皮膚が泡立つような、なんとも表現しがたい感覚を背中に覚えながら、俺は自分の鞄を漁り目的のブツを取り出す。家に忘れたという最悪の事態は回避していたようで俺はホッと一息つく。
そんな様子を横目で流し見ていたらしい一条は、やや口調に躊躇いを見せながら小さく口を開いた。
「――なぁ、天ヶ瀬。あの子とはまだよろしくやってんのか?」
唐突に投げかけられた言葉に反応が遅れる。それは驚いたというよりかは、『あの子』というのが誰のことを指すのか脳内で整理が必要だったためである。ただ冷静に考えてみれば、一条と俺の接点なんてものは尾行で遭遇した場面しか思いつかないし、であれば必然的に『あの子』というのは俺の肩に引っ付いていた杠葉(変装バージョン)以外にはあり得ないだろう。
そういえば後輩の女の子だと説明したんだったな。頭の中で記憶の整合性を確かめながら俺は慎重に言葉を選んでいく。
「そっちもぼちぼちってとこ。おかげさまでな」
「ふぅん、そいつはよかったな」
「というか、その話はお互い忘れようってことじゃなかったっけか?」
「ああ、だっけか」
一条は小さく鼻を鳴らした。
意外にもあの時のことは覚えていたらしい。まぁ俺と二人きりの状況になって初めて思い出したくらいの感覚なのかもしれないが。
この問いかけにどんな意味があったのかはよくわからない。もしかしたら何の意味もない、アイスブレイクの延長戦だったのかもしれない。
しかしまぁ会話を続ける意思がそちらにあるのであれば、こちらもそれに応えよう。
決戦前の敵情視察と行こうじゃないか。
「あー、実行委員ってのは大変そうだな。当日もいろいろ仕事があるんだろ?」
「まーな。ナンタラ係やら校内の巡回やら、あんまり祭は楽しめそうにねーや」
「ふぅん、でも一条ってミスターコンテストには出るんだろ? 風の噂で聞いたぜ」
「ん……おぉ、よく知ってんな。ま、一応な。あぁ、そういえば」
一条は思い出したように唐突に切り出した。しかし、まるで見切り発車で言葉を発してしまったことを後悔するかの如く言い淀むと、短い間投詞とともにゆっくりと
「……あー、いや、なんでもない。気にしないでくれ、ただの言い間違えだ」
「……?」
「んじゃ、俺はそろそろ行くわ。これ以上サボってるとちとせにバレてめんどくさいことになりそうだし」
「……おう」
そう言ってガラリと椅子を引き、立ち上がる一条。なんだか完全に一条のペースだった。俺だってこんな教室に一人で残るつもりはない。
結局、一条が何を言おうとして、そして何を言わないことに決めたのかはまさしく一条のみ知るところだった。もしかしたら本当に言い間違えただけなのかもしれない。一条から俺に投げかけてくる言葉なんてあまりイメージがつかないし。
と、そこで俺はあることを思いつく。
それは本当にただの思いつきであり、最終的に意味を為すかどうかは俺にもわからない。連載したての漫画家が物語の冒頭でありとあらゆる伏線をばらまくような感覚に近い。もしかしたら最後まで回収されないまま終わるフラグのような気もしていて、とにかく具体的なイメージが固まっているわけではなかった。なんか俺、いつもこんなのばっかりだな。
ほんの少し自嘲めいた気分を抱きながら、既に歩き始めている一条の背中に言葉を投げかける。
「あー、あのさ一条、一個だけ聞いてもいいか?」
「……また、物の序でってやつか?」
「ん、まぁそんなとこ」
いつかの俺の謳い文句を皮肉っぽく繰り返した一条は、足を止めてゆっくりと振り返り、涼しげな表情でこちらを伺う。
「なんだよ」
「ええと……杠葉って明日も忙しかったりするか?」
杠葉というキーワードに、一条は眉を顰め怪訝な眼差しを向けてくる。
「……なんでそんなことを聞くんだ?」
「いやぁ、展覧会のことで学級委員に朝イチで確認してもらいたいことがあってさ、杠葉のスケジュールってどんな感じなのかなと思って」
「別に、そんなのあいつに直接聞けばいいだろ」
「……いや俺、杠葉の連絡先とか知らないからさ。今日は作業が終わったら銘々に解散するから、午後も会うタイミングなさそうだし」
連絡先を知らないというのはもちろん嘘だが、一条から言葉を引き出すためには仕方がない。嘘も方便というやつだ。
「……そうか」
一条は俺の言葉を噛みしめるように、ポツリと一言零すと、そのまま黙り込んで視線を足元へと彷徨わせた。静けさがじんわりと広がり、何か意味深なものを感じさせるが、実際のところはただ杠葉の明日のスケジュールでも頭の中で確認しているだけなのかもしれない。
やがて――といっても数秒程度であるが、一条は顔を上げ、されども俺の顔を見ることはなく、ただ虚空に視線を漂わせながら口を開く。
「学級委員は本番の仕事はないって言ってたぜ。精算やら後片付けやらでめんどくさいのはむしろ後日らしい。だから明日明後日はクラスの喫茶店を手伝うってよ」
「……そっか、ありがとう。んじゃ、明日の朝クラスで声かけてみるよ」
「……おう」
一条は頷き、最後にもう一度俺に一瞥くれたのち、それ以上は何も言わず教室から出て行った。
少し強引な聞き方だっただろうか。あれ以上深追いされていたらボロが出ていたかもしれない。
一人きりになった教室で静かな空気を目いっぱい吸い込みながら俺はそっと胸をなでおろす。冷静になって振り返ってみればこれは俺なりの宣戦布告だったのかもしれない。一条がそう受け取ったかは定かではないが、しかしこういうのはきっと杠葉にはできないことだろう。
肺に溜まった息を吐き出し、持参したマーカーを腕にしっかりと抱える。窓の外には相変わらずご機嫌斜めな鉛色の空が広がり、まるで舌を出して嘲笑うかのように重苦しく澱んでいる。曇天が低く垂れ込め、開け放たれた窓からはどこか湿っぽい空気が迷い込んでいた。
これは明日からの文化祭の天気もあまり期待できそうにないな。
俺はもう一度嘆息し、薄暗い教室を後にした。
*
その夜、俺は杠葉と珍しく電話で会話を交わす。明日以降の立ち回りについての打ち合わせを終えると、俺は続け様に神楽坂へチャットを送る。文面はこうだ。
『この間言っていたお礼の権利、使わせてくれ。一つ頼みたいことがある』
神楽坂といくつかやり取りを重ね、概ね了解を取り付けたところで俺はスマホをベッドの上に放り投げる。
「いたっ!」
「あ、悪い。お前がいるの忘れてた」
いつの間にか部屋に侵入していた月子が、スマホがぶつかったらしい肩口を抑えながらぶーぶーと不満をこぼす。いや、悪かったって。むくれる月子に平謝りを重ねて宥める。
「おいそこどけ。今日は自分の部屋で寝ろ。邪魔だ」
「ねぇ待って。つい今さっきまで可愛い月子ごめんねよしよしってしてくれてたのに、優しい陽ちゃんはどこにいったの!?」
「そんなことはしていない。名誉毀損だ」
「そっちが名誉毀損だって言うならこっちは尊妹遺棄だよ!」
「なんて読むんだよそれ」
すっかりギャースカモードに入ってしまったかと思われたが、意外にも今日の月子は大人しい。俺に投げつけようと振りかぶった枕を膝の上に落ち着ける。
「……ま、今日のところはあたしが引いてあげるよ。明日は文化祭だもんね。やむなし!」
「……なんだ、やけに素直だな。変なもんでも食ったか?」
「もうっ、あたしだって空気読む時は読むんだから! 陽ちゃん、ここ最近毎日遅くまで頑張ってたし。あの陽ちゃんがちゃんと青春してるんだからあたしも感慨深いよ」
「親戚のおばさんかお前は」
「明日も明後日も文化祭行くからね! 楽しみっ!」
「来なくていい。いや、マジで来んなよ」
やがて月子が自室へと帰ると、俺はベッドに身を投げ出し、薄目で天井を見上げる。
明日は文化祭。
早起き、しないとな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます