第30話 家訓
*
「割に合わないわね」
静まり返った図書館の中で、神楽坂はボソリと呟いた。
あまりに唐突な呟きだったが、それは独り言でありながら俺に反応を強いているようにも感じた。そんな意図を感じ取った俺は半ば反射的に訊き返す。
「え、なに?」
「割に合わないと言っているのよ」
神楽坂はいつも通りの無表情で同じ言葉を繰り返し、トンと指先で机を叩く。何に対してそう言っているのかを問うたつもりだったが、こちらの意図は伝わらなかったらしい。
杠葉の料理を手伝ったのが二日前、今日は日曜日である。土曜日の夜に神楽坂から連絡があり、日曜日も勉強を見て欲しいとの依頼を受けたのだった。勉強くらいしかすることがなかった俺は快諾。最近、自分自身の時間を取れなくなりつつあるような気がするが、しかし意外にも勉強は捗っている感じもする。時間が限られた方が集中力は増すらしい。
そんな経緯で、俺たちは近くの市営図書館に集まったのであった。場所探しの折に「うち、くる?」と神楽坂からポップな感じでお誘いもあったのだが、俺は丁重にお断りする。杠葉にしろ神楽坂にしろ、気軽に男を家に誘いすぎじゃないかね?
「これだけ懇切丁寧に教えてもらって、貴重な休日の時間ももらっているのに、そのお礼がたかだか数万円のお寿司を奢る程度というのは神楽坂家の名折れだわ」
貴重な休日という表現をされてしまうとなんとなく罪悪感を感じないでもなかった。どうせやることもないしな。人に教えることで理解度を深めることにも繋がっているし自分としても得るものはある。むしろこんなことで数万円もの寿司を奢ってもらっていいものなのかという気さえしてくる。
いや、しかし時給換算したらこんなもんか? およそ二日に一回、放課後に二時間程度と考えたら数万円くらいはもらってもおかしくないか。
脳内で計算をしていると、俺の意識を引き戻すように、今一度トンと指で机を弾く。
「何か私にしてほしいこと、ないかしら? あぁ、もちろん私の全身を隈なく舐めてもいいというあれとは別で考えてくれて結構よ」
「結構よ、じゃねぇよ」
言われなくてもそっちは実現させるつもりはねぇっつの。
つーか公共の場でなんてことを言いやがる。TPOという概念はないのかこいつには。
いや場所を選べば言っていいという内容でもないのだけれど。
「どうかしら。あなたの希望を言ってみなさいな」
「してほしいことと言われてもなぁ。そんな急に言われても思いつかないというか」
「無欲ねぇ。本当に何でもいいのよ。神楽坂家の全身全霊を以てして応えることを誓うわ」
「そいつは何でも叶えられそうだな……」
未だ神楽坂家の全貌は与り知るところではないが、端々から垣間見えるスケールの大きさを踏まえれば、俺のような小市民の希望を叶えることなぞ小指の先程の労力も必要としないのだろう。
「『受けた恩は倍に、受けた仇は十倍にして返せ』、これが我が神楽坂家の家訓よ」
内容もさることながら、家訓なるものがあることがまず驚きである。
我が家にあるのはせいぜい『飯食った後は皿を洗え』くらいなものだ。いやはやスケールが違いすぎて嫌になるね。比べるべくもないんだけどさ。
「『欲しいものはすべて手に入れろ』、これも家訓の一つね」
「その二つの家訓だけで神楽坂がどういう風に育てられたかよくわかるよ。というか一体いくつあるんだよその家訓とやらは」
「我が家の家訓は百八からなるわ」
「煩悩かよ」
ともかく、神楽坂は厳格な家庭で育てられたらしい。
一つ言えるのは、厳格に育てられたとして真人間に育つわけではないらしいということくらいだった。
そんなことを考えていると、対面に座った神楽坂がすうと目を細める。
「何か失礼なことを考えてないかしら?」
「滅相もないです」
「ふぅん……ちなみに私にはあるわよ。やりたいことも、欲しいものも、たくさんあるの。まだ私が手に入れられていないものは数えきれないほどあるわ。それらを取り残したまま――取りこぼしながら人生を浪費していくだなんて、それこそ神楽坂家の名折れね」
神楽坂は遠くを見つめるようにしてそう言った。
取りこぼしばかりの人生を歩む俺からしてみれば耳の痛い話だ。
しかし、やりたいこと――ねぇ。それこそ神楽坂家の全身全霊とやらを駆使すれば実現できないことの方が少ないんじゃないのか?
「まぁ、そこらへんは色々な事情があるのよ。それに単純な『力』ではどうにもならないこともあるでしょう? 例えば天ヶ瀬くん、あなたは大金をあげるから今の家族と離れて神楽坂家の人間になれと言われて素直に従うかしら?」
「……いや、確かにそう聞かれたらNoと答えるけれど、ちょっとそれは極論過ぎないか?」
「そんなことないわ。私が言いたいのは、結局どこまでいっても人の心はままならないということよ。そのことはあなたと杠葉さんが一番よくわかっているんじゃないかしら」
神楽坂は他人事のようにそう言った。
それを出されてしまうとこちらとしてはぐうの音も出ない。
「もちろん、人によって尺度は違うけれどね。例えば、もし逆に天ヶ瀬家の人間にならないかと誘われれば私は一も二もなく頷くわ。大金を積まれなくても即答するわよ。むしろこちらからお金を出してでもそうしたいところだわ」
「はぁ」
そこまでして神楽坂家を出たいということなのだろうか。かと言ってうちに来られてもだいぶ手に余る感じではあるが。
これ以上言及してしまうと他人の家の事情に立ち入ってしまう予感がした俺は曖昧に相槌を返す。
俺の微妙な反応など意に介さずといった様子で、神楽坂は鷹揚に首を振る。
「でも、それとは反対に『お前は天ヶ瀬家の人間になってはいけない』だなんて無茶なことを言われれば、たとえどんな交換条件を提示されても私は断固として断るわ」
「いや、意味わかんねぇよ。お前自身が言っていることの方がよっぽど無茶だろ。なんだその仮定」
「私の心を止めることなど誰にもできないのよ。天ヶ瀬家の人間になろうとする私を妨げるものなどこの世のどこにないわ」
「あるよ! 具体的には行政とか!」
「ふん、行政ごとき神楽坂家の力の前に何の意味も持たないわ」
「なに、神楽坂家って王族かなにかなの?」
神楽坂は随分と大仰に言った。行政にまで権力を有する神楽坂家って一体何なんだよ。そしてそんな神楽坂家から脱出するために神楽坂家の力を利用するってのが通用するもんかね。
色々と疑問は尽きないが、本人は至って真面目そのものである。
「……家を移るとかそういう現実味の無い話はさておき、結局お前は一体何が言いたいんだ」
「そうね、どうにもならないことはどうしようもないけれど、どうにかなる程度のやりたいことをやろうとし、また欲しいものを欲している人間がいるのならば、それくらいは手伝ってあげるのが世の常というものじゃないかと思うのよ」
「つまり?」
神楽坂はにこりと笑う。
あるいは笑ったように見えただけかもしれない。
ともかく神楽坂は欲しい言葉を上手く俺から引き出せたらしいということだけはわかった。
「勉強の息抜き、付き合ってちょうだい」
*
そもそも最初は神楽坂の方から俺にお礼をするという話ではなかったっけ? などと思う間もなく俺は図書館の外に連れ出される。
鈍色の折り紙を敷き詰めたように、空には暗雲が立ち込めていた。予報だと今日は降らないはずだがそれも怪しい。
「おい、どこに行くつもりなんだよ」
いつまで経っても行き先を告げず歩き続ける神楽坂に堪らず声をかける。
神楽坂は振り返ることなく答える。
「そうね。やってみたいことリストの上位から片づけて行きたいと思います。まずは映画鑑賞としけこみましょう」
そう言って神楽坂はズンズンと歩いていく。しけこむというのはあまりこういう時に使っていい表現じゃねぇよなぁと思ってしまうのは俺の国語力の高さ故か。
しかし映画鑑賞となると上映時間だけでも丸二時間は要する。移動を含めれば三時間はかかるだろう。午前中から数えてちょうど三時間ほど勉強をしていたところなので、休憩すること自体はやぶさかではない。集中の持続時間は45分、あるいは90分が限界と言われているしな。しかし息抜きにしては随分長いようにも思う。
「細かいことを気にするなんて天ヶ瀬くんらしくないわね。いいから黙ってついてきなさいよ」
俺らしさとはなんなのか激しく自問自答したいところである。
結局俺は抵抗することもなく、神楽坂に導かれるまま日曜日の午後を過ごしていく。
図書館からほど近い映画館で時間の都合がよさそうな映画(たまたまやっていた恋愛映画だった)を鑑賞し、その後カフェに立ち寄る。普通のカップルなら映画の感想を話し合ったりするのだろうが、あいにく俺たちは普通ではないし、カップルでもなかった。カップルといえば、この現場を一条や杠葉、クラスメートに見られでもしたらややこしいことにもなりかねないが、一応うちの高校の生徒の生活圏からは外れたスポット(高校のある市とは別の市営図書館だ)にしているし、最悪見つかっても勉強を教えていたということで言い訳は利くだろう。そもそも俺と神楽坂が付き合ってるなどと言ったところで信じる奴もいるまい。
しかしこれが神楽坂のやりたいことなのだろうか。映画やカフェなんてのは学生の遊びの定番ではある(ただし俺を除く)が、こいつがそれに興味を示すタイプとは思わなかったな。
まぁ普段の様子をみた感じ学校に友だちはいなさそうだし、そういう経験はあまりないのかもしれない。なんだかんだ言って神楽坂も高校生らしいイベントに憧れていたということなのだろう。
うん? そう言えば全ての始まりのあの放課後、こいつが手を回して杠葉を中庭に誘き出していたんだよな。学校の中に手を借りられるような人間がいるとも思えないが、一体どうやって手を回したのだろう?
「ん、だいぶ息抜きが捗った気がするわ」
「もはや息抜きがメインになってねーか?」
そんな会話を繰り広げながら、俺たちは川辺をそぞろ歩いていた。映画館に行く時とは異なり、神楽坂はゆったりと俺の隣を並び歩く。
食後の運動に散歩でもしましょうという神楽坂の提案である。俺も勉強のインターバルに散歩をして気分をリフレッシュすることはままある。歩くことは嫌いじゃない。
「今日はありがとう、一日中付き合ってくれて」
「ま、行きがかりってやつだ。これでお前が赤点回避して寿司を奢ってもらえるようになるなら、いくらでも付き合うよ」
「そう。じゃあ来週もお願いしようかしら」
「いや、来週は文化祭一週間前だし、流石に展覧会の準備を進めねーとだろ」
「あぁ、そういえばそんなイベントもあったわね」
神楽坂はぼんやりとした表情でそんなことを言う。もともと俺たちの関係は展覧会準備から始まったわけだが、こいつは本気でそのことを忘れている可能性があるな。
文化祭は土日開催だ。その前日は準備のため、全校的に授業は取り止めとなる。既に展覧会のためのアイデアはクラスから集め終わっていて、それらをどうまとめて行くかという文章化のフェーズにある。要するに俺の得意分野だ。前日準備の時間を含めれば間に合わないということもまずないだろう。ただ、直前になって焦ることをしたくない。転ばぬ先の杖をつくタイプなのだ。前の週の土日を使って書き写す以外の作業は全て終えておきたいところだった。
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