「雨上がりの小さな虹 ~風邪と優しさの処方箋~」

 季節が夏から秋へと移ろうとする、少し肌寒い雨の日曜日。さくらハウスのリビングは、いつもより静かだった。普段なら朝早くからジョギングに出かけ、シャワーを浴びてキリッとした表情で現れるはずの鷹宮澪が、珍しくまだ部屋から出てこないのだ。


「……澪ちゃん、まだ寝てるのかな?」


 ソファでスケッチブックを広げていた小鳥遊詩音が、心配そうにつぶやいた。彼女は大きめのパーカーを着て、少し眠そうだ。


「そうね。昨夜も遅くまで仕事をしていたみたいだし……。でも、少し様子が変だわ」


 窓際でハーブティーを飲んでいた月城にこが、カップをソーサーに置きながら答えた。彼女はシルクのパジャマに薄手のガウンを羽織り、髪は優雅にまとめられている。


 二人は顔を見合わせ、澪の部屋に向かった。そっとドアをノックするが、返事はない。


「澪、入るわよ」


 にこが静かにドアを開けると、ベッドの上で澪が苦しそうに丸まっていた。顔は赤く、額には汗が滲んでいる。


「澪ちゃん! 大丈夫!?」


 詩音が慌てて駆け寄る。


「……ごめん。なんだか、すごく寒気がして……」


 澪の声は弱々しく、掠れていた。にこがそっと澪の額に手を当てると、かなりの熱があることが分かった。


「大変! すぐに薬と冷やすものを用意しないと!」


 にこがテキパキと指示を出す。


「詩音、あなたは冷蔵庫から冷却シートとスポーツドリンクをお願い。私は薬箱を探すわ」


「う、うん!」


 詩音は慌ててリビングへ戻り、にこも救急箱を探し始めた。いつも完璧で頼りになる澪がダウンしたことで、さくらハウスの日常は静かな混乱に見舞われた。


 リビングに戻った詩音は、ふと部屋の中を見回した。いつも澪がきれいに整頓している雑誌のコーナーが少し乱れている。テーブルの上には、昨夜澪が飲んだであろうマグカップがそのまま置かれている。


(そっか……いつも澪ちゃんが、さっと片付けてくれてたんだな……)


 詩音は、普段当たり前のように享受していた澪の気配りの大きさを、改めて感じていた。


 一方、にこは薬箱を見つけたものの、風邪薬の種類が多くてどれを選べばいいか迷っていた。


(澪なら、こういう時、的確に判断できるのに……)


 結局、総合感冒薬と書かれたものを選び、キッチンへ向かう。澪のために温かい飲み物を用意しようと思ったが、戸棚を開けて戸惑った。


(あれ……? 澪がよく飲んでる、あのハーブティーはどこかしら……? 蜂蜜も……)


 いつも澪が定位置に置いているはずのものが見当たらない。自分で探すことの少なさに、にこは少しだけ反省した。


 そこへ、階下からミチおばあちゃんが顔を出した。


「あらあら、どうしたの? 朝からバタバタして」


「おはようございます、おばあちゃん。実は澪が熱を出してしまって……」


 にこが説明すると、おばあちゃんは心配そうな顔になった。


「まあ、それは大変。薬は飲ませたの?」


「いえ、これから……」


「じゃあ、その前にこれを。昔から風邪にはこれが一番よ」


 おばあちゃんはそう言うと、慣れた手つきでキッチンに立ち、生姜をすりおろし始めた。蜂蜜とレモンを加え、あっという間に温かい生姜湯が出来上がった。


「ありがとうございます、おばあちゃん」


 にこが感謝を述べると、おばあちゃんは優しく微笑んだ。


「困った時はお互い様よ。さあ、澪ちゃんのところに持っていってあげて」


 詩音とにこは、冷却シート、スポーツドリンク、薬、そしておばあちゃんの特製生姜湯を持って、再び澪の部屋へ向かった。


 澪は、おばあちゃんの生姜湯をゆっくりと飲み、薬を飲んで再びベッドに横になった。


「二人とも、ありがとう……。おばあちゃんにも、ありがとうって伝えてくれる?」


「うん、任せて」


 詩音が優しく頷く。


「あなたは何も心配しないで、ゆっくり休むのよ」


 にこが、持ってきたオーガニックコットンのタオルで澪の汗を優しく拭った。そして、枕元にリラックス効果のあるラベンダーのアロマを数滴垂らしたディフューザーを置いた。


「ありがとう……」


 澪は安心したように目を閉じた。


 その日から、詩音とにこの協力体制での看病が始まった。詩音は、澪が退屈しないようにと、彼女が好きそうなジャンルの雑誌や小説をいくつか買ってきた。おかゆを作る時も、澪が好きな梅干しを添えたり、消化に良さそうな野菜を細かく刻んで入れたり、細やかな気配りを見せた。


 にこは、衛生面に気を配り、こまめに部屋の換気をしたり、加湿器の水を替えたりした。澪の肌が乾燥しないようにと、自分の愛用する低刺激の保湿クリームを貸してあげたりもした。


 寝込んでいる澪は、思うように体が動かないもどかしさを感じていた。山積みの仕事のこと、明日の会議のこと……頭の中は心配事でいっぱいだったが、二人の友人とおばあちゃんの温かい看病に、心は少しずつ安らいでいった。


(健康って、本当にありがたいことだったんだな……)


 窓の外で静かに降り続く雨音を聞きながら、澪は思った。いつも当たり前のように動かせていた体が、今は熱っぽく重い。当たり前だと思っていた日常が、いかに貴重なものだったか。そして、忙しさにかまけて、自分の体を労わることを怠っていたことにも気づかされた。


(たまには、こうして立ち止まって休むことも、必要なのかもしれない……)


 人の優しさに触れ、自分の弱さと向き合う時間。それは、澪にとって思いがけない休息となっていた。


 数日が過ぎ、雨が上がった朝。澪の熱はようやく下がり、体調もかなり回復していた。


「おはよう、澪ちゃん! 顔色、すごく良くなったね!」


 朝食のおかゆを持って部屋に入ってきた詩音が、嬉しそうに言った。


「ええ、ありがとう。二人のおかげよ」


 澪は、まだ少し掠れた声だったが、笑顔で答えた。


「無理はしないでね。今日は一日ゆっくり過ごしましょう」


 にこも、安心した表情で言った。


 昼過ぎ、すっかり元気を取り戻した澪は、詩音とにこと一緒にリビングで過ごしていた。窓の外を見ると、雨上がりの空に、美しい七色の虹がかかっていた。


「わぁ! 虹!」


 詩音が声を上げる。


「本当だわ。久しぶりに見た気がする」


 にこも窓に近づく。


「……きれいね」


 澪が、しみじみと呟いた。


 三人はベランダに出て、空にかかる大きな虹を見上げた。雨上がりの澄んだ空気と、太陽の光を受けて輝く虹。それは、まるで澪の回復を祝福しているかのようだった。


「元気になって、本当によかった」


 詩音が、隣に立つ澪の顔を見て言った。


「看病、ありがとう。二人がいてくれて、本当に心強かったわ」


 澪が、心からの感謝を込めて言った。


「私たちも、澪がいないと大変だったのよ。改めて、澪の大切さがわかったわ」


 にこが、少し照れたように言った。


 三人は、顔を見合わせて微笑んだ。特別な言葉はなくても、互いの存在への感謝と、当たり前の日常が戻ってきたことへの喜びが、静かに伝わり合っていた。


 雨上がりの空にかかる虹のように、彼女たちの友情もまた、この出来事を通して、より一層鮮やかに、そして強く輝き始めたのだった。

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