56. ゲームマスター

『旦那様~! ご無事ですか~?』


 アバドンの声が聞こえる。その声に、俺は現実に引き戻された気がした。


『無事だけど無事じゃない。なんかこう……見てはいけないものを見てしまった……。ちょっと戻るね』


 俺は情けない声で応えた。その声には、自分でも驚くほどの虚脱感きょだつかんが滲んでいた。


 本当はこの世界を一周しようとも思っていたのだが、きっと太平洋の向こうにはアメリカ大陸があってヨーロッパ大陸があってインドがあって東南アジアがあるだけだろう。これ以上の探索は意味がない。その現実が、俺の心に重くのしかかる。


        ◇


 広場に着陸し、アバドンにボルトを抜いてもらう――――。


 再び地上に立った時、俺は奇妙な喪失感そうしつかんを覚えて足元がふらついた。まるで、大切な何かを宇宙に置き去りにしてきたかのように。


「宇宙どうでしたか?」


 アバドンは興味津々に聞いてくるが、俺は何を言っていいのか言葉が出てこなかった。


 アバドンに日本列島の話をしても理解できないだろう。転生者と現地人のみぞの深さに、俺は一瞬たじろいだ。


「なんか説明の難しいものが……。お前も行ってくるか?」


 俺は大きくため息をつくと首を振りながら答える。


「私は旦那様と違いますから、こんなのもち上げて宇宙まで行けませんよ」


 手を振りながら顔をそむけるアバドン。


「そか。綺麗だったぞ……」


「それはござんしたね」


 ちょっとすねるアバドン。


「ははっ、良かったんだかどうだか……。コーヒーでも飲むか?」


 俺は疲れた笑いを浮かべながら言った。身体がコーヒーの苦味を求めている。


「ぜひぜひ! 旦那様のコーヒーは美味しですからね!」


 嬉しいことを言ってくれるアバドンの背中をパンパンと叩き、店へと戻る。その温もりが、俺をわずかに元気づけてくれた。


 店に戻ると、いつもの手順でコーヒー豆を挽いていく。


 ゴリゴリという破砕音にお湯の沸く音――――。


 しかし、いつもなら安心感を与えてくれるこの日常の一コマが、どこかはかなく感じられた。


「アバドン、この世界って……本当に現実なのかな?」

 

 コーヒーを淹れながら、俺は思わず呟いた。


「はぁ? 旦那様、宇宙で何かありました?」


 アバドンはけげんそうに首を傾げる。その素直な反応に、俺は苦笑する。


「いや、なんでもない。ただの……思いつきさ」


 俺はそう言いながらコーヒーをアバドンに差し出す。


 自分も一口すすると、香り高い苦味が疲労に硬くなった身体を包み込んでいく。


 この異世界の日本列島で俺はどう生きていけばいいのだろうか――――?


 俺は窓の外に転がっている宇宙船をチラリと見て、再び深い思考の海に沈んでいった。



      ◇



 顔を上げるとアバドンは目をつぶり、軽く首を振りながらコーヒーの香りを堪能たんのうしていた。その仕草に、どこか人間らしさを感じる。


「ちょっと、この世界について教えて欲しいんだよね」


 俺はコーヒーをすすりながらさりげなく聞いてみる。


 アバドンは濃いアイシャドウの目をこちらに向け、嬉しそうに紫色のくちびるを開いた。


「なんでもお答えしますよ! 旦那様!」


「お前、ダンジョンでアルバイトしてたろ? あれ、誰が雇い主なんだ?」


「ヌチ・ギさんです。小柄でヒョロッとしてせた男なんですが……、彼がたまに募集のメッセージを送ってくるんです」


 この男がこの世界の謎を解くキーになるに違いない。俺は身を乗り出してアバドンの瞳を見つめた。


「その、ヌチ・ギさんが、ダンジョン作ったり魔物を管理してるんだね、何者なんだろう?」


「さぁ……、何者かは私も全然わかりません」


 そう言ってアバドンは首を振る。その仕草に、俺は少しがっかりした。


「彼はいつからこんなことをやっていて、それは何のため?」


「さて……私が生まれたのは二千年くらい前ですが、その頃にはすでにヌチ・ギさんはいましたよ。何のためにこんなことやってるかは……ちょっとわかりません。ちなみに私もヌチ・ギさんに作られました」


 なんと、アバドンの親らしい。魔物を生み出し、管理しているのだから当たり前ではあるが、ちょっと不思議な感じがする。


「ヌチ・ギさんは……、何ができるのかな?」


 俺の声に、好奇心と緊張が混じる。


「森羅万象何でもできますよ。時間を止めたり、新たな生き物作りだしたり、それはまさに全知全能ですよ」


 なるほど、MMORPGのゲームマスターみたいなものかもしれない。やはりこの世界は仮想現実で、世界を構成するデータを直接いじれるからどんなことでも実現可能だし、何でも調べられる――――。


 その考えが浮かんだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。


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