50. 青いサンゴ礁

 店に戻ると、鍵が開いていた。俺は眉をひそめ、大きく息をつくとそっと中をのぞき込んだ。薄闇うすやみに包まれた店内で、一つの影が静かに佇んでいる。


 目を凝らすと……、それはドロシーだった。


 彼女の姿に、俺は心臓をめ付けられるような息苦しさを覚えた。いつもの明るさが消え失せ、暗闇に溶け込むかのように静かに座っている。


 何度か深呼吸をし、俺は明るい調子を装ってバーンとドアを開けた。


「あれ? ドロシーどうしたの? 今日はお店開けないよ」


 ドロシーは俺の方をチラリと見上げ、静かにため息をつく――――。


「税金の書類とか……書かないといけないから……」


 力なく立ち上がる彼女の動作は、どこか無理している感じだった。


「税金は急がなくていいよ。無理しないでね」


 俺は優しく諭すように言ったが、ドロシーはうつむいたまま黙り込んでしまった。


 重苦しい沈黙が部屋を満たす。俺は彼女に近づき、中腰になってその顔を覗き込んだ。


「何かあった?」


 ドロシーはそっと俺の袖をつかんだ。その指先が微かに震えている。


「怖いの……」


 つぶやくような、か細い声。


「え? 何が……怖い?」


「一人でいると、昨日のことがブワッて浮かぶの……」


 ドロシーの目から、大粒の涙がポトリと落ちた。その瞬間、俺の胸に鋭い痛みが走る。


 俺は思わず彼女を優しく抱きしめた。ふんわりと立ち上る甘く優しいドロシーの香りが、鼻腔をくすぐる。


「大丈夫、もう二度と怖い目になんて絶対わせないから」


 俺はそう言って、彼女をぎゅっと抱きしめた。


「うぇぇぇぇ……」


 こらえてきた感情が堰を切ったように溢れ出す。俺は優しく彼女の背中をトントンと叩いた。


 さらわれ、男たちに囲まれ、服を破られた恐怖。その絶望は、想像を絶するものだっただろう。簡単に忘れられるはずがない。


 俺はドロシーが泣き止むまで、ずっとゆっくりと背中をさすり続けた。


「うっうっうっ……」


 ドロシーの嗚咽が、静かに暗い店内に響く。その悲しみの波が、俺の胸に深く刻まれていく――――。



       ◇



 嗚咽が少しずつ和らぎ始めた頃、俺はドロシーをそっとテーブルへと導いた。


「コーヒーでも入れよう」


 俺は優しく微笑んで、ドロシーも涙を手のひらで拭いながらうなずいた。


 店内に香ばしいコーヒーの香りがただよい始める。その香りが、緊張した空気を少しずつ和らげていく。


「ねぇ、今度海にでも行かない?」


 俺は湯気の立つカップをドロシーに差し出しながら、明るい口調で提案した。


「海?」


 ドロシーの瞳に、小さな好奇心の光が宿る。


「そうそう、南の海にでも行って、綺麗な魚たちとたわむれながら泳ごうよ」


 俺は優しく微笑みかける。


「海……。私、行ったことないわ……。楽しいの?」


 ドロシーの表情に、少しずつ明るさが戻ってくるのが分かった。



「そりゃぁ最高だよ! 真っ白な砂浜、青く透き通った海、真っ青な空、沢山のカラフルな熱帯魚、居るだけで癒されるよ」


 俺は身振り手振りを交えながら、海の素晴らしさを熱心に説明した。その様子に、ドロシーの唇が僅かに緩む。


「ふぅん……」


 ドロシーはコーヒーを一口すすり、立ち昇る湯気をぼんやりと見つめる。


「どうやって行くの?」


 ドロシーが顔を上げ、興味深そうに尋ねる。


「それは任せて、ドロシーは水着だけ用意しておいて」


「水着? 何それ?」


 ドロシーの首を傾げる仕草に、俺は我に返った。この世界に水着という概念がないことを忘れていたのだ。


「あ、れても構わない服装でってこと」


 俺は慌てて言い直す。


「え、洗濯する時に濡らすんだから、みんな濡れても構わないわよ」


 ドロシーの純粋な返答に、俺は思わず赤面してしまう。


「いや、そうじゃなくて……濡れると布って透けちゃうものがあるから……」


 俺の言葉に、ドロシーの頬が瞬く間にあかく染まる。


「あっ!」


 二人の間に、甘く柔らかな空気が流れる。


「ちょっと探しておいてね」


「う、うん……」


 ドロシーはうつむきながら、照れ臭そうに答えた。その仕草に、俺は胸が温かくなるのを感じる。


 窓の外では、夕暮れの街並みが茜色あかねいろに染まり始めていた。俺たちの前には、新たな冒険への期待が広がっている。海への旅は、きっとドロシーの心の傷を癒すだろう。そして、俺自身にとっても、この世界の不思議を解き明かす大きなヒントになるかもしれない。


 俺はコーヒーを口に運びながら、昔行った南の島の青い海を思い出していた。

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