元カノの死因
第10話 過去を知る男
真夏の名残を感じさせる強い陽射しと冬の足音を感じさせる冷たい風。それらを直に受けるオープンテラスの前を若いカップルが通り過ぎる。指を絡ませて笑い合いながら、ときには身体を寄せ合い互いを見つめ、とても幸せそうに。その後ろや前も同年代の男女が、やはり同じような雰囲気で歩いていた。
「――なぁ、あやめ?」
「…………」
「――おーい、聞こえてないのか?」
「…………」
「――あやめ?」
あやめの正面の椅子に座っていた貴家が立ち上がり、彼女の肩を揺らす。
「は、はいっ!」
ぼんやりと通りを眺めていたあやめは、揺すられてやっと自分の名を呼ばれていたのに気付いた。
「どうした? 今朝からずっと上の空だぞ?」
心配そうな貴家の顔。
「そ……そうでしょうか?」
それを見て申し訳ない気持ちになり、あやめは無理に笑む。
水族館を訪ねた翌日。縁の命令で下界にやってきたあやめは、昨日と同様に貴家の住むマンションのエントランスで待ち合わせ、彼と街を散策。今は昼食を兼ねてカフェで休憩しているところである。
彼女にとって楽しみにしていた日であるというのに、しかし前のように気持ちが浮かれることはなかった。委員会(モイライ)内の動きが気になって落ち着かないのだ。
(うう……いけません。任務に集中しませんと)
反省して小さなため息をつく。せっかく会えたというのに、これでは任務もろくに遂行できない。気を引き締めなくてはと思うあやめに、貴家は台詞を続ける。
「前のときみたいに照れて挙動不審というわけでもないようだし、オレと一緒にいるの、つまらない?」
「いえっ! 決してそんなことは!」
つまらないわけがない。別れたときから会いたいと願っていたのだ。こんなに早く再会できるとは思っていなかったので驚きはしたが、嬉しいことには違いない。
「じゃあさ、ツキのものが来てる、とか? ツラいなら言えよ?」
「そ、そうではありませぬ」
まさかそんなことを訊かれるとは予想していなかったので、あやめは慌てて頭を左右に振った。
「んじゃ、心配ごとか? 恋煩いだったら相談不可だがな」
「いえ……」
そこであやめははたと気付く。
「何故恋煩いは不可なんです?」
正面の席に座り直し、カフェオレをすする貴家にあやめは問う。
「オレが聴きたくないから」
「?」
貴家はさらりと答えたが、あやめには理解できない。思わずきょとんとしてしまう。
「あれ? そこは照れるところだと思うんだが」
「照れる、ですか?」
全くわかっていないあやめの様子を見て、貴家は苦笑した。
「君さ、鈍いって言われない?」
「え? 鈍いですか?」
言われている意味がわからない。あやめはわずかに首をかしげる。
「まぁいーや。気が紛れたなら」
(あ……気を遣わせてしまっている……)
あやめは俯いて、自身が注文していたカフェラテを飲む。口の中にコーヒーの苦味とミルクの甘味が広がってゆく。
「何かあったのか? 昨日の呼び出しが相当なダメージになっているとか」
サンドウィッチを片手に、貴家は問い掛ける。
「大したことではないんですよ」
「あやめがそれだけ悩んでいるってことは、大したことだろ? ――オレに言えないことか?」
「えぇ……」
あやめは返事を濁す。
(正直に話しても困らせてしまうだけでしょうし……)
委員会(モイライ)のことを口外するなと言われているわけではない。してみたところで、頭の状態を疑われるだけだからだ。
それに、万が一のときは《導き手(ラケシス)》の力で話した内容をうやむやにしたり、《断ち切り手(アトロポス)》と呼ばれる《事象の切断》を行う能力によって情報自体を消し去ってしまうので問題にならない。委員会(モイライ)の情報はそのようにしてずっと守られてきたのであった。
(下界の人間を侮蔑しているわけではありませぬが、これは自分の中にとどめておきませんと)
小さくため息。あやめは気が重い。
「そっか……。もしもオレで力になれることがあるなら、なんでも相談してくれよ」
「はい……申し訳ありませぬ」
俯いたまま上目遣いに貴家を見ると、彼の周囲が歪んで見えた。
(う……これって、ワタシのために能力を発動させています?)
多重世界シンドローム発症者が何を願っているのかはあやめにはわからない。起こった事象から推測するだけだ。それでも彼が自分のことを心配しているのだということは、あやめには伝わっていた。
(本当に申し訳ありませぬ)
さっさと仕事を片付けて委員会(モイライ)に戻ろうとあやめが口を開きかけたとき、通りから声がかかった。
「あれ? 貴家さん。こんなところでデートですか?」
あやめには聞き覚えのないおっとりとした控えめな声。やや高めの声の主に目を向けると、黒のパーカーにジーンズという姿の少年がこちらに向かって歩いてきていた。
「ん? 珍しいな。井上」
どうやら貴家とこの少年とは面識があるようだ。親しげな笑顔を浮かべて貴家は返す。
「僕はこれから模試ですよ。来年は受験を控えているというのに、貴家さんは余裕そうでうらやましいですね。僕も彼女のような可愛らしい女のコとデートに行きたいものですよ」
あやめたちがいるテーブルに到着すると、笑顔で嫌味たっぷりに井上が言う。
「すればいいじゃねぇか」
「うわっ。学年首席は言うことが違いますね」
あっさりと答える貴家に、作った笑顔をわずかにひきつらせる井上。仲が良いのか悪いのか、このやりとりからはわかりにくいなとあやめは思う。
「――それと、僕が振られたばかりで傷心気味であることを知っていてその台詞を吐くなんて、かなぁり意地悪だと思うんだけどなぁ?」
「あ、振られたんだ」
「白々しいですね」
「いや、マジで知らなかったんだって」
はぁ、と井上はため息をつくと、あやめに視線を向けた。
「――一応、自己紹介しておきますね。僕は井上純也(イノウエジュンヤ)。彼とは幼馴染みなんです。どうぞよろしく」
「初めまして。ワタシは緒方あやめと申します」
向こうが名乗ったので、あやめも名乗りぺこりと頭を下げる。むやみに下界の人間に名乗るものではないのだが、不自然になるよりはその場を繕ってあとで情報を消すのが妥当であると判断したのだった。
「ふぅん……緒方あやめ、ね」
そう呟く井上の瞳に不思議な光が射したような気がしたが、一瞬であったので見間違いだろうとあやめは考える。委員会(モイライ)のことが気にかかっているための幻覚に違いない。
「――あ、そうだ」
井上は何かを思い出したかのような顔をすると、あやめの耳元に顔を寄せる。
「怪我をしたくないなら、貴家礼於とは付き合わないほうが賢明ですよ」
ぼそりと呟くと、井上はあやめと目を合わせてニコリと笑んだ。しかしその笑顔の下に暗い感情が見え隠れしている。
(この人は……)
胸騒ぎがする。井上純也とは関わってはいけない、本能が告げている。
「なんだ? 井上。オレの悪口でも吹き込んでるのか?」
あからさまに不愉快そうな口調で貴家が文句をつける。
「いんやぁ、まさかぁ。貴家さんが喜ぶことをこっそり教えてあげただけですよ」
にこにこしながら貴家を見る井上。そこに不自然さは微塵もない。
「うそつけ」
「だったら彼女に聞いたらいかがです?」
言って、ひらひらと手を振る。
「では試験に間に合わなくなるといけないので、僕はこのへんで。お二人は優雅な午後のひとときをお過ごしくださいませ」
そう告げるなり、井上は駅に向かう道を歩いてゆき、人混みに紛れて消えた。
「――アイツが何を言ったのか知らんが、気にするな」
カフェオレをすすりながら貴家が言う。不機嫌さとあやめを気遣う優しさの入り混じった声だ。
「貴家さまは彼がなんと言ったのか、訊ねないのですね」
当然訊いてくるだろうと思っていたのにそうしないことに疑問を抱き、あやめはそのまま告げる。
「どーせ、しょうもないことだろうからな。だいたい想像がつく」
貴家は視線をもう一度通りへ、井上が去った方向に目をやる。本当に立ち去ったのか確認しているようだ。
「しょうもないこと、ですか……」
残っているカフェラテをすすりながら、井上が耳打ちした言葉を反芻する。
――怪我をしたくないなら、貴家礼於とは付き合わないほうが賢明ですよ。
果たしてこの台詞、貴家に対する嫌がらせのために告げたものであるのか。
(念のために調べておきますか)
どうにも引っ掛かる。
それは貴家をかばうために思ったわけではない。これはあやめがこの仕事の中で身につけた勘というものである。
「――そろそろ出ようかと思うんだが、大丈夫そうか?」
「はい」
見れば貴家の手元にあった皿からサンドウィッチが消えている。あやめも食べ終えていたので問題ない。
「で、どこに行くかな。この周辺にいるとアイツと顔を合わせそうだし」
苦いものでも食べたような顔をして呟く貴家に、あやめは首をわずかにかしげる。
「井上さまとは仲が悪いのですか? 彼は幼馴染みだと仰っていましたが」
「まぁね。一葉(カズハ)が死んでからのアイツはちょっと苦手なんだよ」
「カズハ……?」
あやめには聞き覚えのない名前である。貴家の家族の名前なら調査しているのでわかるはずだから、少なくとも彼の親戚の名前ではないだろう。
「フルネームは笹倉一葉(ササクラカズハ)。井上と共通の幼馴染みで、オレの元カノだ」
(幼馴染みで、元カノさんのお名前でしたか――)
「……へ?」
意外な台詞に、あやめは思わず声を出す。
「他に知りたいことはあるか?」
貴家の声はいつも通りだったが、表情にはつらさが滲んでいた。
「いえ、何も」
「遠慮しなくていいぞ」
「聞きたくありませぬゆえ、もう問いませぬ」
あやめはゆるゆると首を横に振って答える。彼のそんな顔を見ていたくはなかった。
(井上さまに会いたくないのは、きっと笹倉さまを思い出すからなのでしょう)
死んだ、彼はそう言った。一体彼らの間に何があったのだろうか。
「んー。そうだな。この話は終わりにしよう。――ってことで、流留川に行くか! 急に緑を見たくなった」
もう緑という時季ではないけどなぁと思いながらもあやめは頷き、歩き出した貴家の背中を追った。
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