多重世界シンドローム

一花カナウ・ただふみ

運命の糸

第1話 任務で尾行中……だったのですが

 夕焼けの茜色が宵闇の藍色に変わりつつある時間だった。


 暖かな色の街灯が灯りはじめ、通りを行き交う人々も増えてきている。これから自宅に、または塾に、あるいは羽をのばしに向かうところなのだろう。


 そんな様子をうかがえる服装の人たちがあふれている交差点。その中に墨色の日傘に光沢のない闇色のメイド服を身につけた一人の少女が紛れていた。彼女が着ているそれらはとてもシンプルなデザインで、それでも回りの様子からすれば目立つ格好であるのだが、彼女自身に溶け込んでいて違和感はない。その少女が、信号が青に変わっているにも関わらず立ち止まっているのにはわけがあった。


 少女の色素の薄いマッシュルームカットの髪が揺れると、不安げな焦茶の瞳が正面に立つ三人の少年のそれぞれの顔に向けられる。相手の少年たちは不機嫌そうに彼女を見下ろしていた。


(――弱りました……)


 メイド服の少女、緒方あやめは困惑していた。何故、ここで声を掛けられてしまったのか。


「――だから、なんでずっと俺らのことをつけてくるんだ?」


 一番背の高い少年がむっとした様子で問い掛ける。


(……どう説明したらよろしいのでしょうか)


 確かに緒方あやめは、ある一人の少年をつけていた。付かず離れずの間隔を保ち、その少年が家を出たところからずっと監視をしていたのだ。


「……つけてなどおりませぬ。たまたま同じ方向であっただけでして」


 しかし、彼女の監視対象者は目の前の少年たちの中にはいない。


「バカな。電車に乗る前から俺らの後ろにいただろうが」


 それは事実だ。あやめが追っていた人物がずっと彼らの前にいたのである。


「貴方たちがおっしゃるように、ワタシの前にずっとおられました。しかし、それは、同じ方向に目的地があるからにすぎません」


 控え目な口調で言い切って、あやめは唾を飲み込む。


(偶然……ではないようですね……)


 澄ました顔を保っていたが、内心は乱れていた。


(多重世界シンドロームの発動がこんなにも自然に起こるなんて……)


 ちらりと通りの向こうに目をやる。あやめが朝から監視していた少年の横顔が目に入った。


「――何が目的だ?」


「はい?」


 一番背の高い少年がリーダー的役割を担っているらしい。ついと一歩前に出ると、あやめを睨む。


 あやめは慌てて視線を戻し、少年たちの顔を見上げる。ローヒールの革靴をはいたところで、彼らとは頭一つ分は背が足りない。ハイヒールであっても背は足りないだろう。


「そんな格好してさ、なんかの営業なわけ? それともコスプレとか? なんのキャラになりきっているのさ?」


 リーダー格の少年の後ろに控えていた丸顔の少年がニヤニヤしながらからかってくる。


 あやめは表情を変えない。向こうの勘違いであるのだ。挑発されたところでどうということはない。


「ですから、丁度経路が揃ってしまったからにすぎませぬ。――もうよろしいでしょうか? 信号が変わってしまいます」


 あやめの任務はまだ残っている。対象者が家の中に無事に入るのを見届けねばならないのだ。


 その対象者の姿は、彼女の立ち位置からはすでに見えなくなっていた。


「――照れることはないんだぜ?」


 何を意図しての台詞なのか、あやめは直感的に理解できなかった。


 リーダー格の少年の大きな手があやめの細いあごに伸ばされ、くいっと持ち上げた。


「相手をしてほしいなら、そう言えばいいじゃねぇか」


 少年の瞳の奥で暗い何かがうごめいたのをあやめは感じ取った。反射的にその手を払い、一歩後ろに退く。


「何をおっしゃっているのです?」


 あやめは感情らしい感情を顔に浮かべた。強い不快感が貼り付いている。しかし声は冷静だ。


(離脱せねば……)


 走って逃げようか、とまず考える。人が少ない場所に逃げ込むことができれば、文字通りに姿を消せる。


「コスプレには興味はないが、あんたのような可愛い顔した女のコには興味があるって言っているんだ」


 少年の手が再び伸ばされる。あやめは後退してかわすつもりでいたが、先に後ろに回り込んでいた別の少年に邪魔されてうまくいかない。


「いっ……」


 手首を強く掴まれて、思わず日傘を手放す。


 風に吹かれて日傘は転がる。


 あやめの目は自然と日傘を追っていた。


 ――あえて目立つ格好をしろ。顔を覚えられないためにも。


 ふいにあやめの脳裏に上司の言葉がよぎる。日傘は自身の顔を隠すのに最適であり、カムフラージュにも丁度良い。あやめの日傘にはそんな理由があった。


(何故こんなときに……)


 逃げようと思えばいくらでも逃げられる。それだけの能力を彼女には与えられていた。何故なら――。


 転がって行ったはずの傘は、車道に飛び出す前に止まった。


「――ったく、なにタラタラ歩いているんだよ?」


 日傘は一人の少年の手に握られていた。


(まさか……!)


 傘を持つ手から視線を上げていく。


「そんなんだから誤解されるんだぞ」


 拾った傘を閉じてあやめに差し出す困り顔の少年。彼はあやめの監視対象者だった。


「いやぁ、オレのカノジョがご迷惑をお掛けしたみたいで」


 愛想笑いを浮かべて、あやめの監視対象者は手を掴んだままの少年に顔を向ける。しかし表情はにこやかであっても威圧感があった。


「え、あ、えっと……」


 どうしたらよいのか咄嗟にはわからなかったようだ。リーダー格の少年は手首をなかなか放そうとしない。


「ほら、お前も、されるがままじゃなくて抵抗しろよ。叫び声を上げても問題ない場面だぜ?」


 言って、さりげなくウインクをあやめに投げてくる。


(この方は――)


 あやめは監視対象者である少年の意図をくみ取り、空いていた右手を左手に添える。


「――申し訳ありませぬ。誤解させてしまったようで。――その……手を放していただけないでしょうか?」


「……わ、わかったよ。こちらこそスマナイ」


 腑に落ちない様子であったが、あやめの目にはどこかおびえているようにも映った。


「んじゃ、行こうぜ」


 手首が解放されると、監視対象の少年はあやめの手を優しく取った。正面の信号はすでに赤になってしまったので、青になった左手の横断歩道へと導く。


「はい」


 あやめは笑顔で返事をする。それは演技ではなく、自然と内側からしみだしてきたものだった。


 呆けた顔の三人の少年をあやめは見送る。彼らにはここで何が起こったのか理解できなかったことだろう。


(――これが多重世界シンドロームの力……)


 改めて、あやめは自分をエスコートする少年の横顔を見つめる。


 可愛らしいというよりも凛々しいといったほうが似合う整った顔立ち。黒よりもやや明るい色の髪はおそらく天然で、重力に逆らって立っているのは寝癖ではなく彼自身がセットしているからだろう。


 今日は休日であるので、その服装には彼の拘りが出ている。装飾品は身に付けていないが、彼なりに気をつかっているのがうかがえた。丁寧にアイロンがかけられている羽織ったシャツはブランドもので、その下に着ているTシャツも同じブランドのもの。はいているジーンズも人気の高いメーカー品。スニーカーもメーカー品であったが、綺麗にみがかれていて目立った汚れはない。正直なところ、彼の格好は地味だが洒落ている。それらを実にうまく着こなしているのだった。


(――あえて特筆すべき点のないただの少年に見えますのに)


 あやめが見つめていたのに気付いたようだ。少年はあやめに顔を向けると、あっ、と小さく声を出して手を放した。

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