第58話 扉を開けて 1
学園祭の朝が、明るく華やかな色で校内を包んでいた。透き通るような青空の下、風船が空高く舞い上がり、色とりどりのテントが並んでいる。生徒たちは制服の上にカラフルなエプロンを重ね、笑顔を浮かべながら屋台の準備に取り組んでいた。軽やかな風が頬を撫で、ポップなBGMが校内に響き渡る中、期待感が一層高まっていくのが感じられた。
その一方で、私たち演劇部の部室には緊張が漂っていた。舞台裏では、役者たちが繰り返しリハーサルを行い、スタッフたちは舞台装置や小道具の最終チェックを慌ただしく進めていた。部室の空気は、舞台の幕が上がる瞬間を待ち望むかのように張り詰めていた。
私はメイヴィス役の衣装に身を包み、鏡の前でじっと自分を見つめていた。緑色の長いウィッグがふわりと肩の上に流れ、軽やかなメイクが施された顔立ちは、まるで物語の一幕から抜け出したかのように輝いていた。鏡の中の自分は、まるで異世界の少女が現実世界に迷い込んできたように、幻想的で美しかった。
けれど、心の奥底には微かな期待とともに、大きな不安が渦巻いていた。鏡に映る自分に向かって深呼吸をし、静かにセリフを呟きながら、心の中で自分を鼓舞しようとしていた。鏡越しに見つめる自分の目が、まるで不安に押し潰されそうな小さな星のように輝いていた。
そのとき、控室のドアが静かに開き、茉凜が姿を現した。彼女は男子の制服をまとい、腰に長い剣を下げていた。その姿はまるで伝説の戦士のようで、白銀のウィッグが彼女の長身と精悍な表情を一層引き立てていた。彼女の立ち姿は、まるで物語の中から飛び出してきた王子様のように、堂々としていて、見る者を圧倒する美しさを持っていた。
その瞬間、胸が急にときめき、心の奥から「かっこいいな」という言葉が自然に湧き上がってきた。まるで夢の中で憧れていた王子様が、現実の世界に降り立ったかのような感覚に包まれてしまったのだ。
しかし、茉凜はいつものように明るい笑顔を浮かべ、緊張感など微塵も感じさせなかった。彼女の笑顔はまるで春の陽光のように温かく、心を和ませる力を持っていた。その姿は、どんな困難な状況でも冷静さを保つ彼女の強さと頼もしさを象徴していた。私の心はいつも、彼女の存在に深く引き込まれてしまうのだった。
「緊張するなって言うのは無理な話だよね。でも、その緊張感を楽しむことができれば、きっと素敵な舞台になるよ。『為せば成る』ってね」
茉凜の声には、優しさと共に穏やかな励ましの風が吹いていて、その言葉は私の心に深く染み込んでいった。
その言葉を聞いた瞬間、私は少しだけ微笑みを返しながら、自分の心を整え始めた。頬に浮かんだ微笑みは、心の奥底から自然に湧き上がったもので、茉凜の言葉によって私の緊張が徐々に溶けていくのを感じた。
「うん、ありがとう。がんばるよ」
静かに返すと、自分の心が少しずつ整っていくのを感じながら、再び深呼吸をした。心の中に広がる静けさと安心感が、私を落ち着かせてくれるのだった。
そのとき、洸人と明が私に近づいてきた。洸人は長髪とメガネはそのままに、暗いアイメイクと深いシャドウが彼の顔立ちを際立たせていた。鋭い目元に宿る冷酷な光が、まるで悪魔将軍そのもののようで、普段の飄々とした姿とはまるで別人のようだった。その存在感は圧倒的で、私はただただ感心するばかりだった。
一方、明は自分の流儀赤に合わせた赤いウィッグと赤いカラコンで、内に秘めた熱情を如実に表していた。彼女の姿は舞台上での迫力を想像させ、まるで火のように燃え盛る情熱が伝わってきた。
明が私の仕上がりを見て、目を丸くしていた。
「ほんと、弓鶴くん、めちゃくちゃきれいだよ。まじで天使みたい。ねぇ、ラストバトルでこいつぶん殴って、あなたをさらって逃げてもいい?」
その言葉に私は思わずくすっと笑ってしまった。
「明、いい加減にしろ。お前は舞台クラッシャーか」
明はその言葉を聞いて、さらに明るく笑った。
「半分は本気だけどね。弓鶴くんがすごく輝いてるから、つい言いたくなっちゃったんだぞ」
その時、茉凜が楽しげに反応した。
「ふふふ、サランよ。そのような不埒な真似はこのわたしが許さぬ。返り討ちにして刀の錆にしてくれよう」
彼女の冗談めいた言葉には、明らかな対抗心が込められていて、まるで二人の間に火花が散るような光景が浮かんだ。茉凜の楽しそうな口調と、その挑戦的な発言が、場の雰囲気を一層盛り上げていた。
明はその反応に目を輝かせ、「いいね、その意気込みだ!でも、気をつけてね。あたしは本気でいくから!」と挑戦的に言った。
そのやり取りを見ていると、自然と肩の力が抜け、心の奥底に静かな安心感が広がっていった。
私は深呼吸をしながら、穏やかに微笑んで言った。
「みんな、ありがとう。おかげで心が軽くなった」
その言葉と共に、私は一人一人の顔を見渡しながら、再び深呼吸をした。彼らの表情には、それぞれの思いが込められていて、その暖かさが私の心に深く響いた。
そして、力強く言葉を続けた。
「いよいよここが正念場だ。この一ヶ月あまり、本当に大変だった。だからこそ、今までの努力の集大成をここで見せよう。皆の力を合わせれば、きっと成功するはずだ」
その言葉が空気に溶け込むと、皆の顔が一斉に引き締まり、気持ちが高まっていった。彼らの目には、決意の輝きが宿り、その光が私たちの準備が整ったことを示していた。場の雰囲気が力強く、充実したものに変わり、心地よい緊張感が広がっていった。
力強い気勢が場を包み込み、私たちは一丸となって舞台へと向かっていった。その背中には、共に歩んできた日々の思いが乗せられていた。目の前に広がる舞台に向けて、私たちは心を一つにし、これからの瞬間を迎える準備を整えた。
◇ ◇
劇の進行とともに、私は次第にメイヴィスというキャラクターそのものに溶け込んでいった。舞台上での私の一挙手一投足が、まるで心の奥深くから響く彼女の声となり、私の体の一部として自然に流れ込んでくるような感覚だった。台詞が口をついて出るたびに、メイヴィスの喜びと切ない思いが私の言葉となり、観客に届けられていくのが、まるで夢の中での出来事のように感じられた。
茉凜もまた、その変わり身の巧みさと内に秘めた強さを発揮していた。彼女はウォルターという役に完全に入り込み、その誠実さと強さを見事に体現していた。舞台上での私のメイヴィスに引き寄せられるように、彼女もまたウォルターの内面を深く掘り下げていった。二人のキャラクターが互いに影響し合いながら、舞台の上で美しい調和を生み出していくのが、まるで魔法のように感じられた。
泉での出会いの場面では、私は淡い照明の下で神秘的な巫女の舞を披露し、その美しさが観客の心を釘付けにした。光が優しく私を包み込み、まるで幻想の中にいるかのような気持ちにさせるその瞬間、メイヴィスとウォルターの初対面が、運命の糸に導かれるように描かれていた。
随行騎士の選定の場面では、緊迫感が漂い、観客の息を呑む瞬間が続いていた。緊張と期待が入り混じる中で、メイヴィスとウォルターの意外な再会が静かに、しかし深く心に刻まれていった。
躊躇いと戸惑いの旅立ちのシーンでは、二人が背負う運命と、そこから生まれる感情の揺れ動きが鮮やかに描かれていた。初めて外の世界に触れるメイヴィスの無邪気な喜びや楽しい毎日が、舞台上で豊かに表現され、その温かさが観客の心に深く染み込んでいった。
しかし、物語が進むにつれて、暗転し魔族の襲撃が始まる。劇中の緊張感が高まり、サランとの激しい戦闘シーンが展開される中で、二人に待ち受ける現実と苦悩がキャラクターたちの心に深い傷を残し、その表情や動きに刻まれていった。痛みと葛藤が舞台上にリアルに反映され、観客はその苦しみを共に感じ取っていた。
そして、劇の終幕に向けて、第五幕が始まった。物語の集大成として、メイヴィスとウォルターの関係の深化と、その結末が織り成す感動的なクライマックスが舞台上に広がっていく。観客の期待と緊張がピークに達し、私たちの演技はその集大成を迎えようとしていた。
その時、私は完全にメイヴィスその人になっていた。心の奥底で彼女の感情が渦巻き、運命の重みを深く受け入れながら、最後の場所へと進む覚悟を決めていた。
◇ ◇
私たちはついに辿り着いた。長い旅路の果てに、探し求めていたその場所に。
泉が目の前に広がった瞬間、私の心の中で、長い間張り詰めていた緊張の糸がふっと切れたような感覚が広がった。喜びと安堵が波のように押し寄せてきたけれど、それと同時に、何かを失ったかのような寂しさも心にひっかかった。ここが私たちの旅の終わりを意味しているという事実が、嬉しさとともに切なさをもたらした。
泉の水面は、まるで穏やかな時間の流れを映し出す鏡のように澄み渡っていた。風がそっと水面を撫でるたびに、小さなさざ波が美しく広がり、その音さえも心を癒す旋律のように感じられた。私はその泉を見つめながら、心が静かに洗われていく感覚を味わっていた。今、この世界を脅かしている魔族の脅威など、遠く彼方の出来事のように感じられた。
ウォルターが頬に当たる風に目を細めながら、微笑を浮かべた。その顔は、少年のように無邪気で、旅の苦難を全て忘れたかのような安らぎが滲んでいた。彼のその笑顔が、泉の静けさと相まって、私の心をやさしく包み込むようだった。
「やっとたどり着いたな。これが聖なる泉か……本当に、素晴らしいところだ」
彼の言葉を聞いて、私はこの場所が持つ特別な意味を改めて実感していた。
「ええ、ここが私が探していた場所です。そして、私たちの旅の終着点です」
言葉を紡ぎながら、胸に湧き上がる感情をどう表現すればよいのか、少し迷った。そこには喜びと安堵、そして終わりに対する名残惜しさが入り混じっていた。私の心の奥にひっかかるものが、言葉にならないほど強く、私の言葉が震えていた。
ウォルターは泉の輝きを見つめながら、感慨深げに頷いた。その眼差しは、これまでの旅路を振り返るように優しく、しかしどこか切ないものだった。
「そうか……終わってしまうんだな、この旅も……」
彼の低く抑えた声には、旅の終わりに対する寂しさがはっきりと表れていた。それは私が感じているものとは違う感情であり、その言葉が私の心に深く響いた。
私はこれまでの旅の思い出を胸に抱きしめながら、精一杯の感謝を込めて、彼に言葉を贈る。
「はい。ここまで来られたのは、すべてあなたのおかげです。ありがとう、ウォルター。あなたの支えがなければ、ここまで辿り着けなかった」
彼は微笑みを浮かべ、柔らかな眼差しを私に向けた。その笑顔は、私の心を温かく包み込んでくれるものだったが、同時にどこか物足りなさそうな、何かを言いたげな様子も見え隠れしていた。
「なあ、メイヴィス、君にとってこの旅の目的は何だったんだ?本当のことを教えてくれないか?」
ウォルターの問いかけは、静かな湖面に投げ込まれた石のように、私の心に波紋を広げた。彼の眉はわずかにひそめられ、その瞳には微かな疑念の影が浮かんでいた。
「王様からの命令は、『特別な泉を探し出せ』だった。その場所へと至る道のりで『君を守れ』、と。ただそれだけだった。でも、それに何の意味があるのか、俺にはわからなかった。君にとってこの場所は、何か特別な意味を持つということなのか?」
その問いに対して、私は一瞬沈黙した。言葉を絞り出すのが難しく、胸の奥底で渦巻く感情が私を縛っていた。
「はい……」
一言だけを、苦しげに絞り出すように答えた。視線を外すと、泉の静けさが一層際立ち、私の心の中の波紋が静まっていくのを感じた。心の奥深くに秘めていた感情が、胸の内で暴れ回っていた。
ウォルターは、私の反応に何かを感じ取ったのか、さらに一歩踏み込んできた。彼の顔には、ただの疑問以上のものが映っていた。その瞳が私を見つめ、まるで私の心の奥底に触れようとするように、深く深く見つめてきた。
「それは一体何だ? 教えてはもらえないのか?」
ウォルターの真剣な瞳が私を捉えて離さない。彼の期待と疑念が入り混じった視線に晒され、私の心は揺れ動いた。でも、私はどうすることもできず、胸が締め付けられるのを感じながら答えた。
「いずれわかります。その時が来れば……」
私は視線を足元に落とし、声が小さくなるのを感じた。言葉にすることが恐ろしかった。心の奥底で沸き上がる恐れと不安が、私の言葉をもつれていくようだった。
ウォルターはしばらく私を見つめていたが、やがてため息をつき、肩が少し落ちたように見えた。その姿に、私の心もまた、静かに痛むのを感じた。
「君を最初に見たのは……森の奥の小さな泉でのことだ。君は覚えているかい?」
ウォルターの問いかけに、私はその時の情景が鮮明に蘇ってくるのを感じた。静寂な森の奥にひっそりと佇む泉、その周囲を包むように揺れる薄青い光。それは現実離れした幻想のようでありながら、確かに私の中に刻まれた記憶の一部だった。
「そうですね。でも、その時の私自身は王宮の奥で、夢の中にいましたから」
私はそう答えながら、当時の不思議な感覚を思い返した。あの時の自分はまるで異世界に迷い込んだかのようで、すべてが曖昧で遠い記憶の中に溶け込んでいくようだった。
「夢?」
ウォルターの声には驚きと好奇心が混ざっていた。彼の反応を見て、私は少しだけ安心したような気がした。
「ええ、気付いたらあの場所に立っていて、不思議な光を放っていた泉に吸い寄せられるままに足を踏み入れようとしたら、なぜか水面の上を滑るように歩いていて、ああ、これは夢なんだとわかりました」
私は自分の体験を言葉にしながら、心の奥底で響く違和感を感じていた。夢と現実が交錯するあの瞬間、私の心はどこかに迷い込んでしまったように感じていた。
「じゃあ俺が見ていたのは?」
ウォルターが身を乗り出して問い詰めてきた。その眼差しの強さに、私は一瞬ためらったが、目を伏せることで彼の追求を避けた。
「私の幻みたいなものでしょうね」
私の言葉には、どこか儚さが含まれていた。幻のような、夢のようなその体験が、現実にどれほど意味を持つのか、私自身にもわからないまま、ただ心の奥で静かに響き続けていた。
「そんなばかな、俺はたしかに君を見た。そこで舞っている姿も……。それが君の夢だったというのか?」
ウォルターの声には困惑が混ざっていたが、私はその疑問に答えるために過去の記憶を辿った。あの泉の神秘的な輝きと、私の内面で響く不思議な感覚が、彼の言葉と重なっていくようだった。
「よくはわかりません。あなたがその場所に居たのは本当でしょう。おそらくは、私自身の魂みたいなものが、あの泉に引き寄せられていたのだと思います」
「本体ではない、魂……」
ウォルターの声には一抹の驚きが感じられた。その反応に、私は小さく息を吐いた。自分の魂があの場所に引き寄せられ、そこで舞いを始めたことを思い返しながら、それがどうしてこんなにも自然だったのか、私自身も理解に苦しんでいた。
「ええ、そして私はそこで舞いを始めた……誰に習ったわけでもないのに、身体が自然に動いて、まるで生まれる前からそれを知っていて、そうすることが決められていたように」
それは、巫女として受け継がれた血の中に組み込まれた何かだったのだと、今になってようやく理解できた。あの小さな泉は、私の魂を呼び寄せ、舞いを通じて聖なる泉の場所を伝えたのだ。
「あの舞いを見ていて、心から美しいと思った。戦うことしか知らない俺でも、それがわかったんだ。それが何か特別なものに感じられた」
その言葉を聞いた瞬間、私の心がぎゅっと縮むのを感じた。ウォルターが私の舞いに対してどのような感情を抱いたのか、その感情が彼にとって何を意味するのか、私は少し怖かった。彼の思いが私にどれほど影響を及ぼすのか、心の奥で恐れと期待が交錯していた。
「そうだったんですか……。恥ずかしいな、隠れて覗きだなんて」
本当は彼にそんな意図がないことは分かっていた。それでも、私はわざと意地悪な物言いをして、彼の反応を見たくなった。自分の心を軽くしようとする、ほんの小さな悪戯だった。
ウォルターはその言葉に急に目を見開き、慌てふためいて答えた。
「お、おい。俺はそういうつもりであそこにいたわけじゃないからな」
ウォルターの焦った声と、突然赤くなった顔を見て、私はどうしても笑いを堪えることができなかった。彼の素直な反応が、私の心をほんのりと温かくした。
「ふふふ、冗談です。わかっていますよ」
「まったくもう、からかうんじゃない」
彼の顔が真っ赤になっている様子がとても可愛らしくて、私はその姿に心が和んだ。普段の彼が持つ硬い印象とは裏腹に、こんなに愛らしい一面を見せてくれるのが嬉しく、私の笑顔は自然と広がった。
「ごめんなさい」
謝りながらも、私の笑みは止まらなかった。ウォルターが咳払いをして、改めて真剣な表情に戻ろうとする姿を見て、その姿がさらにおかしくて、私はほんの少しだけ再び笑ってしまった。
「だが……」
彼は気を取り直して、私に尋ねた。焦りを抑えつつも、その眼差しには深い探求心が宿っていた。
「あの舞は単なる美しさだけじゃなかった。何か儚げで、とても寂しそうで、悲しいものに感じられた気がするんだ。この女の子はどんなことを考えてあの舞を表現しているのだろうって、気になった。君からの依頼を受けたのも、その理由が知りたかったからだ」
ウォルターの言葉は私の胸に深く響いた。彼が私の舞を見て、その奥に潜む寂しさや悲しみまで感じ取っていたとは、思いもよらなかった。私の心の奥底に眠っていた感情が、彼の鋭い感受性によって掘り起こされるようで、私は思わず息を呑んだ。
あれは、私が閉じた世界の中で生きてきた証であり、代々の巫女たちが抱えてきた悲しい運命そのものだった。その舞には、私が抱えていた孤独や哀しみが滲み出ており、何度も繰り返される運命の輪廻を象徴するものだった。
そして、その舞にはもう一つの意味が隠されている。私がそれを踊ることによって、聖なる泉への道が開かれ、私の使命が果たされるのだと感じていた。
「そうだったんですか……。もしかすると、あなたも泉に呼ばれたのかもしれないですね」
「だといいな。なにせ君と出会うことができたんだから……。その泉とやらに礼を言いたいくらいさ」
ウォルターが微笑むと、その瞬間、私の心はふわりと包み込まれる感覚に満たされた。彼と出会えたことが、私にとっても特別な意味を持っていることを改めて感じた。
「そうですね……。私があなたを随行者に選んだのも、そんな理由だったのだと思います。あの時、私を必死に護ってくれた人がどんな方なのか、単純な好奇心から始まったのです」
「ははは」
私は真剣な気持ちで言ったつもりだったが、彼が突然笑い出したので、少しだけむっとしてしまった。彼の笑顔は、私にはちょっと不意打ちだったから。
「なんで笑うんですか?」
「いや、すまない。人の縁って、不思議なもんだなって、思ったんだ。俺は君と出会えて良かったよ」
その言葉に、私は心がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。彼にとっても、私との出会いが意味あるものであったことが嬉しくもあり、同時に切なさが胸に込み上げてきた。自分が彼を選んだことが、彼にとっても良い選択であったと信じたい反面、それが今の私にとってどれほど悲しくて苦しいものとなっているかを思うと、言葉が詰まってしまった。
それでも、私は心の奥に秘めた思いを素直に伝えなければならないと感じていた。胸の奥から溢れる感謝の気持ちが、言葉と共に私の心を震わせた。
「私も、ですよ……。あなたと出会えて、本当によかったと思っています」
その瞬間、ウォルターは静かに頷き、微笑みを浮かべたけれど、その微笑みには何か言いにくいことを抱えているような、複雑な感情が滲んでいた。
私の言葉が彼の心に届いたのかどうか、確かめることができないまま、その微笑みに少しだけ安堵しながら、私の胸は切ないほどに温かかった。
「そうか……」
彼の声には、ほんの少しの躊躇いが込められていた。それでも、彼はその躊躇いを振り払うように、問いかけた。
「それで……君はこの泉で、またあの舞をするのかい?」
私の心の中には、複雑な感情が渦巻いていた。その問いに対して、私は少し自嘲気味に、そしてどこか寂しげに答えた。
「……はい、そんなところです」
言葉が口から漏れるたびに、私の胸の奥に潜む決意と虚無感が交錯していた。ウォルターの目には、私がどんな答えを返すのか、深い関心と少しの不安が込められているようだった。
「じゃあ、それが済んだら、君はどうするんだ……?」
その問いに、私は苦笑を浮かべながら答えた。
「そこで私はお役御免です。この緑色の髪はあの国では不吉なものとして忌み嫌われていますし、帰るところなんてありません」
その髪色が示すように、王室にとって私はただの使い捨ての道具であり、役目を終えれば消えていく存在だった。帰るべき場所などなく、ただその目的のために存在することが許されていたに過ぎないのだ。その事実を思い出すたびに、私の心は切なく、虚しい感情で満たされていった。
ウォルターが黙り込んでからの長い沈黙が、私の心をさらにざわつかせた。彼の沈黙が私に不安を与えるのは、彼の心が何か深いところで揺れているのだと感じるからかもしれない。その思いが、私の胸に小さな不安の種を蒔いた。
そして、次に彼が口にした言葉は、私の心に冷たい鋭さで突き刺さった。
「そうか……。なら、一緒に旅を続けてみないか?」
そこには普段の彼の落ち着いた調子とは違い、明らかな焦りや躊躇が感じられた。
私にとってはその提案があまりにも唐突で、頭は一瞬で混乱に陥った。驚きと戸惑いで、私はただ口を開けて言葉を発することしかできなかった。
「え……?」
その短い返事が、私の心を乱す波紋を広げた。彼の言葉が私の思考を掻き乱し、何をどう考えればよいのかがわからなくなってしまった。
私の胸は高鳴り、全身が熱くなっていくのを感じた。ウォルターの言葉が、私の心に新たな希望の灯をともすと同時に、未知の未来への期待を抱かせた。
「旅を続けて、もっといろんなところを見て回って、もっと楽しいことを見つけよう。きっと面白いぞ?」
その言葉が私の心に響き、ウォルターと共に新しい旅に出ることができたら、どれほど素晴らしいだろうと、心が浮かれるのを抑えきれなかった。
「それもいいですね……。できたら、そうしたいです」
その言葉は、私が密かに抱いていた願いを象徴していた。彼との未来を夢見ていたその瞬間、まるで奇跡のように希望が溢れ、心が満たされるのを感じた。
しかし、その希望が現実になる可能性については、心の奥で冷静な自分が否定せざるを得なかった。現実の厳しさが、私の希望を押し潰し、どんなに願ってもその未来が実現することはないのだという痛切な現実を、私は痛感していた。心の中で揺れる希望と現実の狭間で、私の思考は迷子になっていた。
だって私は……
その言葉が心の奥底から静かに湧き上がり、冷たい現実を突きつけてくる。現実が私の心を締め付け、未来を描くことの空しさを感じさせる。心の中で希望と現実の狭間で揺れる感情が、思考を複雑にし、胸の奥に重くのしかかっていた。
ウォルターは私の答えに反応し、静かに言った。「じゃあ、さっさと終わらせようじゃないか」
その言葉が、さらに私の心に重くのしかかり、私の中で何かが葛藤しているのを感じた。終わりが近づくことが、私の心の奥底にある恐怖や不安を呼び起こす。私たちの旅が終わってしまうことが、感情を大きく揺さぶっていた。
「は、はい……。その前に、ウォルター?」
私は言いたくなってしまう気持ちが湧き上がり、苦しくてたまらなかった。ウォルターが怪訝そうな顔で私を見つめていた。
「なんだ、メイヴィス?」
その問いに、私は心の中で渦巻く感情を言葉にするのが辛いと感じた。終わりたくない、という気持ちが胸の奥で膨らみ、それを抑えきれない自分がいる。彼に伝えなければならない思いが、もどかしくて辛い。心はこの瞬間だけは続けていたいと願っていた。
「わたしは……まだ……」
言葉が途切れ、心の奥底から湧き上がる感情が口をついて出る。終わりたくないという気持ちが、私の心を締め付け、ウォルターにその真意を伝えたいと切望していた。
でも、私はその思いをぐっと堪えた。心の奥底で渦巻く現実の厳しさと希望の光の間で揺れる感情を、必死に押さえ込んでいた。涙が滲むのを必死にこらえながら、表情には決してその辛さを見せないように努めた。
「……ごめんなさい。なんでもないです」
その言葉が、私の口から出ると同時に、胸の奥の痛みが少し和らぐような気がした。ウォルターが真剣な眼差しで私を見つめる中で、私は自分の気持ちを抑え込みながらも、無理に作り笑顔を浮かべるしかなかった。
彼の真剣な表情が、私の心の奥底にある葛藤を照らし出す。何かを言おうとしても、言葉が喉に詰まってしまう。ウォルターに対する感謝と別れの痛みが混じり合い、どちらに向かうべきか迷いながらも、今はこの瞬間を大切にしたいと思う。
「本当に、なんでもないです」
その言葉に込めたのは、彼への感謝の気持ちと、これ以上自分の弱さを見せたくないという強い意志だった。どんなに辛くても、彼の前では明るく、前向きな姿を見せ続けたいと願っていた。心の奥でひっそりと鳴り響く痛みを、彼に感じさせるわけにはいかない。
ウォルターが何かを言おうとする前に、私は深呼吸してから、作り笑顔をもう一度浮かべた。
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