私の方がミステリ好きだぞっ!

藤井由加

ホームズさんは、イギリス人

何を当たり前なことを。と思うかもしれませんね。まあ、ちょっと目を貸してください。


シャーロック・ホームズの中にはちょいちょいフランス語が出てきますよね。今回注目したいのは、「赤毛同盟」の最後に出てくるホームズさんの発言です。この作品のタイトルには「赤毛連盟」や「赤毛組合」などの翻訳揺れがありますが、それは日本人の語感の問題なので無視します。


今回取り扱いたいのは、ホームズさんがギュスターヴ・フローベルさんとジョルジュ・サンドさんという2人の作家の間で交わされた手紙から、ワンフレーズを引用して物語を締め括っている場面です。


この場面の日本語訳テキストを幾つか確認しましょう。


『人間は無 ―― 仕事がすべて』 - コンプリート・シャーロックホームズ


『本人などどうでもいい――やったことがすべてなのだ。』 - 青空文庫


"ひとはむなしくロム・セ・リアン――芸術こそすべてだウーヴル・セ・トウ" - 訳:深町眞理子


『大切なのは、人物より業績だ』 - 訳:石田文子


こ、このくらいでいいでしょうか。子供向けの本であることもあって、最後に挙げた和訳が1番分かりやすくて良いですね。原文も見てみましょう。


"L'homme c'est rien - l'oeuvre c'est tout,"


この1文だけで解釈をするなら、「罪を憎んで人を憎まず」という意味にも訳せます。今回の文脈ではその逆。言わば「功績を称えて人(その立役者)を称えず」という意味で使われています。


ホームズさんは独特な美学に基づいて、自分の力を貸したことで初めて解決できた事件の手柄を、他の人に譲ってしまうような人です。なので世間一般の人々はホームズさんの活躍を知らないままに、日々の幸せな生活を享受しているんですよね。


そこに登場したのがワトソンさんという語り手さんかつ助手さんです。ワトソンさんはホームズさんの活躍を記録し、後世に伝えるために小説を書いているんです。


さて、ここでフランス語の原文を見てみましょうか。上の1文と見比べて、間違い探しをしてから続きを読んでください。


"L'homme n'est rien, l'oeuvre tout"


ホームズさんが引用していた文脈では、「功績を称えて、その立役者を称えず」の意味でしたが、引用元の手紙本文ではどうなのでしょうと思って、調べてみました。以下に引用と和訳を並べて示します。


"tions et que l’artiste ne doit pas plus apparaître dans son œuvre que Dieu dans la nature. L’homme n’est rien, l’œuvre tout !"


「そして芸術家は自然界の神と同じように作品の中に現れてはいけないということです。芸術家に価値はない、芸術そのものが全て!」


サンドさんとフロベールさんの手紙は、作家論を巡るやり取りだったんですね。引用元のフレーズは赤毛同盟中と同じ文脈で用いられていました。ところでこの「芸術家に価値はない、芸術そのものが全て!」という思想は、先述のホームズさんの美学に似ていませんか?「探偵に価値はない、業績そのものが全て!」


"L'homme c'est rien - l'oeuvre c'est tout,"  ホームズの発言

"L'homme n'est rien, l'oeuvre tout" 手紙の原文テキスト


それぞれ英訳してみましょうか。


"The man it is nothing - the work it is everything." ホームズの発言の英語訳

"The man never be anything, the work (is) everything" 手紙の原文テキストの英語訳


この部分でホームズさんが正確な引用に失敗しているのか、もしくは少しアレンジを加えて自分の言葉にしているのかは断定できませんが、原文とのズレが起きているという事実は、私が持っているペーパーバックの注釈ページにも書いてあって、割と有名な話みたいです。


ホームズさんの発言からは、「探偵に価値はない」の部分にある、強い否定のニュアンスが消えています。 "ne ~ rien" という呼応の副詞は「全然ない」を意味しています。それを上の英訳では "never be anything" と表現してみました。


どうして引用されたテキストはオリジナルから少し変わっているのかと言えば、メタ的な分析をするならば、ホームズの読者層は広く、インテリ層から労働者層まで様々だったからでしょうか。読者の中にはジョルジュ・サンドさんとギュスターヴ・フローベルさんの間で交わされた手紙のことなど全然知らない人もいたでしょう。


例えば C'est というのは英語で It is ですから、フランス語をちゃんと勉強したことない人でも、イギリスで暮らしていれば何となく理解できるレベルの表現だと思います。お隣さんなんですし。


この現象をコナン・ドイルさんの意図としてではなく、ホームズさんの無意識の産物として説明するなら、彼はフランス語の初心者なイギリス人の気持ちが分かる人だった、ということでしょうか。


とある人の気持ちを理解するためには、その人にならなければ理解できない。探偵さんはそう言っていました。このフランス語のフレーズを言い放ったホームズさんは、その瞬間だけ、不特定多数のイギリス国民の中の一人として、イギリス人になっていたんです。いかがでしょう?


では、今回はここまで!ご読了ありがとうございました!

よいお年を


参考文献

 Doyle, A. C. (2001). The adventures of Sherlock Holmes and the memoirs of Sherlock Holmes. PENGUIN CLASSICS.

 コナン・ドイル、(2010)、シャーロック・ホームズの冒険、深町眞理子訳、東京創元社

 コナン・ドイル、(2014)、名探偵シャーロック・ホームズ 赤毛連盟 まだらのひも 石田文子訳、角川つばさ文庫

 コンプリート・シャーロックホームズ https://221b.jp/sa/redh-9.html

 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/8_31220.html

 ウィキソース フローベルの手紙 Page:Pensées de Gustave Flaubert 1915.djvu/95. Wikisource. https://fr.m.wikisource.org/wiki/Page:Pens%C3%A9es_de_Gustave_Flaubert_1915.djvu/95

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