底抜けの壺

「それじゃあ、また機会があれば、話そうね。


 君は冴利以来2人目の底抜けの壺の真意を聞くことができた人間なんだから、自信を持った方がいいわ。」


 西野圭子はそう言って、教授と一緒に学食を去っていった。


 西野は笑っていた。だが、それが彼女にふさわしい。


「どうだったの?


 底抜けの壺の意味、分かった?」


 何も知らない優美は、梨子に話しかける。梨子は底知れないものを感じていた。


 絶望とも、恐怖ともとれるような底なしの何か。


「……ええ、分かったわ。


 底抜けの壺の本当の意味をね。」

「へえー、教えてよ。」


 優美は軽い気持ちで、その真相を聞いて来た。梨子は先ほどの西野の返答によってかき乱されてしまった頭の中を整理した。


「……じゃあ、1から話しましょう。


 まず、私が不思議だと思ったのは、底抜けの壺のラストシーン。


 なぜ、姉は生き残ったのか?


 底抜けの壺では、弟のジェームスの方が体力のある描写が多くなされていた。それに、終盤に入るまで、弟はピンピンして元気だった。


 でも、終盤、急にジェームスは元気がなくなり、最終的には餓死した。


 しかし、食料を分け合っていた姉のマリーは生き残り、なんなら、数日生き残った。


 この時、さっき優美が教えてくれた最後通牒ゲームの考えが役に立った。


 マリーは自分の利益を最大にしようとしたホモエコノミクスだった。


 そう考えれば、ジェームスが餓死した後、マリーが生き残った理由もうなづける。マリーは食料を隠していた。マリーはジェームスと少ない食料を折半するふりをして、自分は隠した食料を貪っていた。


 もしかしたら、最初は半分に分けていたのかもしれない。それでも、空腹に耐えきれないマリーは少しずつ自分の取り分を増やし、弟に分ける分を減らす。最終的には、ジェームスにパンくずを分けていたのかもしれない。


 マリーの利益を最大化する選択はそれだった。


 そして、これは西野圭子自身の選択とも一致する。


 西野圭子は、自身の幼少期の経験を参考にして、底抜けの壺の物語を書いたと言っていたわね。


 なら、西野圭子もまた食料を隠していた。


 弟に分配する分を減らした。だから、弟だけが弱っていき、西野圭子が弱った様子を言わなかったのは、そう言うことだった。


 だが、これなら、自分の食欲に勝てなかった極限状況ゆえの選択だったと考えることができる。


 しかし、今回はそう言ったたぐいのものではない。


 なぜなら、西野圭子は計画的に弟を殺したから。


 そもそも、彼女は10歳だった。なら、小学校に通っていたのではないか?


 そう考えると、西野の弱っていく弟を私はどうすることもできなかったという言葉が不思議に思えてくる。


 これは、彼女だけが何もしなかったということではないか?


 弟が苦しんでいることを彼女が漏らさなければ、誰も弟を助けることなく、段々と弟は弱っていく。


 そして、いつかは死に至る。


 彼女は弟というごく潰しが1人いなくなれば、自分の食べる量が増えると思っていた。


 だから、弟を殺そうとした。


 彼女は死を加速させるために、宝探しゲームを行った。弟の体力を奪って、餓死を早めた。


 そして、彼女の望む通り、弟は死んだ。


 彼女の罪はばれることが無い。ただ、自分の食べる量を増やしただけで、弟が死ぬとは思わなかったと言えばいいだけだ。


 そして、彼女が犯したこの殺人は、底抜けの壺の真意を形作っていった。


 その理由は、彼女が犯した殺人と底抜けの壺での殺人を比べれば分かる。


 底抜けの壺では、弟が死んだ数日後に、救助船がマリーのいる宝島に来た。その時、マリーは肉が剥げ、骨がむき出しになったジェームスの死体を抱きしめたと書かれてある。


 しかし、たった数日で、死体が白骨化するのか?


 たとえ、肉の分解が早い夏だとしても、肉が露わになるほどの白骨化なら数十日はいるでしょう。数日と片づけられる日にちにしては、死体の分解が速過ぎるんです。


 さらに言うなら、マリーはなぜ、ジェームスの死体を埋葬しなかったのか?


 普通なら、マリーはジェームスの死を偲び、土に埋めたり、火で燃やしたりすることで、埋葬するでしょう。しかし、マリーはしなかった。


 この2つの疑問から導き出すことのできる結論は1つ。


 マリーはジェームスの死体を食べていた。


 底抜けの壺で、姉が弟を殺した理由は、ただ食料を食べる人間を減らしたいだけでなく、弟自体を食料として食べたかったからだった。


 では、このような現実と小説での殺人の違いは何を示すのか?


 それは、西野圭子の止まらない欲望の増大。


 幼少期の彼女にとって、欲望はただ食欲だけだった。


 だが、大学時代、彼女が学費を稼ぐため、バイトで働き詰めの生活を送ると、彼女は何を感じたのか?


 バイトで自分の身をすり減らす日々、自分の何か大切なものを消費しているような感覚。


 周りの大学生は、のほほんと自堕落でモラトリアムな日々を送っている。


 弟の未来を貪って、生き続けてきた自分は、こんな無意味な仕事の繰り返しで、人生を終えてしまうのか?


 そう考えた彼女の頭にはあることが思い浮かんだ。


 まだ弟食べきれていない。


 弟との過去を小説に残そう。


 そして、その小説が売れれば、まだ屍の弟は味がする。


 だから、彼女は弟を骨の髄まで食べきるために、小説を書いた。その時、弟を殺した理由は、弟を食べるためとしておいた。


 もちろん、今の自分を小説の登場人物に投影させるため。


 食欲だけだった彼女の欲望は、承認欲求のようなものが足され、深く、大きくなっていった。


 その増大する欲望は、底なしで、際限のないものとなっていった。


 だから、底抜けの壺。


 いくら注いで、満たそうとしても、満たされることの無い底なしの欲望。


 それが、底抜けの壺に隠された本当の意味。」


 長々と語り終えた梨子は、そう言って、優美の方を見つめた。優美は何とも言えない表情をしていた。


「そんな利益を追求する究極のホモエコノミクスが彼女だった。私がそこまで理解すると、彼女にする質問は1つだった。


 今の彼女は、底抜けの壺のラストシーンをどう描くのだろうか?


 私の予想では、彼女の育っていく欲望から、弟の肉を食いつくし、骨だけを残すような彼女の回答を期待していた。


 でも、彼女の回答は私の想像のはるか上だった。


 ……彼女は知っていた。


 欲望を増幅させた人間の末路を。


 古くから、聖書にも書かれた大罪の先。」


 梨子はそう言うと、もう一度彼女の回答を思い出した。






「もしも、底抜けの壺を書き直すならか……


 もしかして、君も冴利みたいに気が付いちゃったのかなあ。


 フフフッ、それもまた面白いね。


 ああっと、質問に答えないとね。今の私が底抜けの壺を書き直すなら、もちろんラストシーンの救助船が迎えに来るシーンを書き直すわ。


 そうね……、





 きっと骨も残さないんじゃないかしら。もちろん、2人ともね。」

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