わたしの願い事
第44話
世界はそれぞれの事情を抱えながらも、まるで何事もないかのように進んでいる。
茜君と一緒に暮らし始めて一か月が過ぎた。大切な人と同じ家で過ごせるなんて、病室の窓からぼんやりと外を眺めていたあの頃の自分ではちっとも想像できなかった。
小さなこの部屋が私達だけのお城。引っ越す前だってネット通販を見ながら家具や家電を選ぶのは本当に楽しかった。もうこれ以上はないんじゃないかってくらい幸せな気持ちだった。
それでも、一緒に暮らし始めてからは想像もしなかったような幸せがいっぱいにあふれていた。茜君が帰りに私の分のシュークリームも買って来てくれること、二人で並んで歯磨きをすること、降り出した雪を窓から眺めて「綺麗だね」って言えること。そんな小さな幸せが私の心に降り積もっていく。
「デミグラスか、トマトソースか……それとも煮込み?」
商品棚に並んだデミグラス缶とトマト缶を両手に見比べる。茜君はどれが好きなんだろう。ハンバーグが何派なんて話、したことなかったよなぁ。今日は茜君の「講座」の日だから、たくさん頭を使ってくる分、美味しいものを食べてほしい。
私はデミグラス缶をカゴに入れて、トマト缶を棚に戻した。今日はデミグラスソースにしよう。次は違うのを作ればいい。これから何度だって作る機会はあるんだから。
「流石に買いすぎちゃったな……」
両手持ったいっぱいの買い物袋を見て少し反省した。お野菜が安かったのと、新作のお菓子が美味しそうだったのが今日の敗因だ。次の買い物はちょっと自粛しよう。
「あら、波瑠ちゃん?」
声をかけられて後ろを振り向くと、近所に住む高木さんが立っていた。
「こんばんは、高木さん」
高木さんはこのスーパーでよく会って話すようになったおばあちゃんだ。このスーパーは何曜日がまとめ買いにいいとか、美味しいお野菜の見分け方とか、いろんなことを教えてもらった。
「最近は寒いわねぇ」
「明日はまた雪が降るみたいですよ」
「あら、それは大変」
高木さんは私の手にした荷物を見て微笑んだ。
「今日はたくさん買ったのね」
「はい。ちょっと買いすぎちゃいました」
「ふふっ、そんなにたくさん荷物を持てるなんて細いのに力持ちなのね」
「えへへ、体は丈夫なんです」
そう言って両手の袋を持ち上げてみせた。
家に向かって歩いていると、この街に来た時のことを思い出した。実家からは電車で二十分くらいしか離れていないし、この街には昔何度か来たこともある。それでも、目に映る景色は全部が新しく思えた。
新しく知ったスーパー、野良猫がよくいる空き地。早くいろんな場所を見たくて、たくさん歩き回って茜君を困らせたっけ。入院していた頃は人目を避けてこっそり抜け出していたから、いつでも好きな時に、というわけではなかった。行きたいところへ好きな時に行けるってこんなにも自由なんだって、そう思った。
たった一ヶ月でこの街の景色にも茜君との思い出のある場所が出来た。あっちの公園は子供がいない時間を見計らって、雪の上に足跡を付けに行った。そこのカフェはいつも豆を焙煎するいい匂いがしていて、店の前を通るたびに「一緒に行きたいね」って話をする。そしてこの帰り道は初めて手を繋いで歩いた。
ああ……思い出したら、早く会いたくなってきた。
角を曲がると、駅の方から見慣れた猫背の背中が見えた。考えるよりも先に足が駆け出す。
「あ、か、ね、君っ!」
後ろからぶつかると、驚いたようにこっちを振り向いた。
「波瑠!?」
「お疲れさま。今日の講座はどうだった?」
茜君は高卒認定試験に向けて講座に通い始めた。今時オンライン講座や通信教育だってあるのにわざわざ対面式を選んだのは、茜君なりに自分の苦手をなくそうと頑張っているからなんだと思う。そのおかげか、この前の休みの日には茜君から買い物に行こうと誘ってくれた。私が新しい靴が欲しいって言ってたのを覚えていてくれたことも嬉しかった。
「結構よかったよ。やっぱり英語は苦手だから、疑問に思ったことをすぐに聞けると理解が早いな」
そう言いながら、私の両手に持った袋を取り上げる。
「茜君、心配しなくたって私はもう元気なんだからこのくらい大丈夫だよ? ほら、こんなに筋肉もついたんだから」
空いた腕で力こぶを作ってアピールしてみたけど、分厚いコートのせいで見た目には何も見せつけられなかった。
退院してか一週間に一回病院へ通っているけど、どこにも異常は見つからない。これからは通院の頻度を減らしてもいいってお墨付きももらえた。
「そういう事じゃなくて。重そうだから持つのは普通のことだろ」
なんてこともなさげに言う。君のそういうところだよ。ほらまた、心に幸せが積もった。
私は荷物の片方を強引に奪い取った。
「嬉しいけど、今日は半分こしようよ。そうしたらさ」
空いたほうの手を握る。
「手を繋いで帰れるでしょ?」
「……そうだな」
横顔を見ると、マフラーから覗く耳が赤くなっていた。
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