第23話 先生が教えてあげましょう

 波瑠が立ち止まったのは、一部がガラス張りになった、楕円形の大きな建物だった。

「ここで青春っぽいことをしたいんだ」

 そう言って波瑠は建物の中へと入って行く。後に続くと、広い空間の中に本棚がずらりと並んでいた。

「ここって図書館?」

 小声で波瑠に尋ねる。

「正解。それでね、目的は二階にあるの」


 波瑠は階段を上っていく。二階の本棚の間を抜けていくと、ガラス張りになったいくつかの小部屋が並んでいた。それぞれの部屋には長机と、壁にはホワイトボードが用意されている。

 利用者はまばらで、一人でパソコン作業をしている人や、ホワイトボードで会議をしている人達がいた。波瑠は一番奥の空いた部屋に入る。


「ここはフリースペースになっていてね、会議とか勉強とか自由に使えるの」

 そう言って椅子に着く。俺も向かいに座った。


「放課後に一緒に勉強するのってちょっと憧れだったんだよね。『ここ教えてー!』とか言って、分からないところ教えあって勉強するのって、一人でやるより絶対楽しいよね。茜君は高校の勉強してる?」

「しないな」

「そっか。やってみると結構面白いんだよ。例えば生物だと、私達の体はたくさんの細胞が集まってできてるんだけど、その細胞の中にはいろんな役割をする細胞内小器官っていうのがあってね。その中でもミトコンドリアっていうのが、エネルギーを作り出す役割をしてるんだ。エネルギーを取り出す過程が分かると、私達の体ではこんなに難しいことをやってるのかって感心しちゃった」

「そうだな。あとは、ミトコンドリアにはDNAがあって、それは母親由来のものしか遺伝子しないとかな」


 俺の言葉に波瑠は目を丸くした。


「え、そうなの!? というか、茜君よくそんなこと知ってたね」

「まあ、最近ちょっと読んで……」

 圭が持ってきた本はいつもジャンルがばらばらで、この前ちょうど生物学系の新書を読んだばっかりだった。


「せっかく私が茜君に教えようと思ってたのに、悔しいなぁ」

「これはたまたまだよ。勉強してる波瑠の方がよっぽどすごい」

「勉強してるのは高校受験の時の癖っていうか、何となくやめられなくてね。まあ結局高校には通えなかったんだけど。実際、新しいことを知って面白いなぁとは思ってるんだよ。それに、妹にも教えてあげられるし」

「妹がいるのか?」

「うん。3つ年下でね、明るくて可愛くて人付き合いも得意なんだよ」

「それなら姉に似たのかもな」

「……そう、かな」

 波瑠は顔を逸らして、少し笑ったように見えた。


「でも、やっぱり茜君に負けてばっかりは悔しい!」

「別に勝ち負けじゃないし、負けてばっかりってほどじゃ……」

「桜の時! あの時も茜君だけ花びらを掴んで、私は出来なかったから」


 桜並木を歩く波瑠の後ろ姿が頭に浮かぶ。あの日の出会いから全てが始まったんだ。


「じゃあ数学は? 『虚数』っていうのを最近勉強したんだけど、茜君知ってる?」

「いや、知らないな」

「よし! それなら波瑠先生が教えてあげましょう」


 そう言って波瑠は機嫌がよさそうに立ち上がった。そして置いてあったホワイトボードマーカーを手に取る。


「虚数単位iっていうのがあってね、i×iはマイナス1になるんだ。でも同じ数を掛け算したら、答えはマイナス1になんてならないはずだよね。つまり、そんな数は現実に存在しないの」

 波瑠はホワイトボードに筆記体のiを書いた。

「じゃあどうして虚数なんてものが必要なのか。それは虚数を使うことで計算できる範囲が広がるからなんだ」


 それから波瑠は虚数を使った計算をホワイトボードが一杯になるまで書いて説明してくれたけど、予備知識が足りない俺の頭ではついていけなかった。ただ、上機嫌で数式を書いていく波瑠が可愛くて、ずっと見ていられた。

 区切りがついたのか、波瑠はマーカーにキャップを付けた。そして俺と目を合わせる。


「アイは想像上のものだとしても、その存在が私達の世界を広げるって何だか神秘的じゃない?」


 そう言って微笑む波瑠とその言葉が頭に残った。


 波瑠へ向けたこの感情は愛と呼べるものかまだ分からない。自分とは無縁だった恋愛感情なんてものは、想像上のものでしかない。でもこの感情のせいで、俺は苦手な繁華街を歩いて、制服のコスプレをして、一緒にいたいと思える人の側で笑っていられる。知らない世界を見ることが出来た。

 分からないのなら、分かるまでこの感情を握りしめていればいい。


「波瑠、色々教えてくれてありがとう」

「えへへ、どういたしまして。じゃあそろそろ帰る支度をしよっか」


 波瑠は俺に背を向けて、ホワイトボードに書いた数式を消し始めた。立ち上がって波瑠の後ろまで近づくと、忙しなく動くその手首を掴む。


「え?」

 波瑠は驚いたように振り向いた。


「ホワイトボードを掃除するのも、青春ごっこの相手役をするのも、全部俺がやるよ。波瑠のやりたいことは何でも俺が叶えるから、これからも側にいさせてくれないか」


 波瑠が優しい男を望むなら、全力で優しくする。波瑠を楽しませられるかは全く自信がないけど。今はこんなダサい事しか言えない。波瑠に本命の男がいるとしても、俺は側にいたい。


 波瑠は驚いた顔からふっと笑顔を見せて言った。

「私にとって茜君は特別な人だよ。私の方こそ、側にいさせてよ」

 この言葉がただの社交辞令だったとしても、今はそれでもいいと思えた。

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