第23話 誉の在り方
「うわびっくりしたぁ~~!」
大量の砂煙が伴う衝撃を、ウメノが防いだ。ロクの顔の横から伸ばされた小さな手が、即座に結界を展開したのだ。
半円を取る不可視の壁に沿い、流れていく粉塵。徐々に明瞭になっていく視界。その真ん中に立つ女を前に、ロクは静かに怒りをあらわにした。
「あ、マルカじゃん!」
「耳元で声を上げるな」
目の前のマルカは、一つにまとめていた髪を下ろしていた。確かにあったはずの、獣人の証である羊のツノは見当たらない。
長く、緩やかに波打つ長い髪の隙間から、マルカが薄茶色の瞳を光らせる。その背後には、黒い蛇が鎌首をもたげるようにこちらを見下ろしていた。
「ヴィヌスの信徒だ、ロク。唆す蛇を操ってる」
「初めて見た信徒が同僚とは、全く悲しいものだな」
「なんの冗談よ」
「は?」
嘲笑するような声が飛んでくる。ロクの前で、マルカはゆっくりと顔を上げた。長い髪を揺らすように首を傾ける。細い指先で己の唇の柔らかさを確かめるように触れると、真っ直ぐにロクの姿を視線で射抜いた。
「私、あんたのこと同僚だなんて一度も思ったことないわ。調子乗らないでよ鬼」
「なんだ、気を使うなって? ちょうど俺も面倒くさくなってきたところだ」
治安の悪い声を出す。普段は寡黙なロクが、苛立ちを滲ませている。
腰に巻きつけていた紐を外す。そんな、ロクの妙な行動にぽかんとしていれば、紐は素早くウメノの体を固定した。
「ウッソでしょ」
「お前にまで気を配れない」
「だからってこれは赤ちゃんと同じあつか」
い、と最後まで口にする時間は与えてはくれなかった。
マルカを囲うように、環状の風が足元に展開されたのだ。
それは辺りの砂を巻き込むようにして範囲を広げると、マルカの手の動きに合わせるように竜巻となって二人へと襲いかかる。
「やる気はあるのか」
「だから煽っちゃダメなんだってば」
指を弾くだけで、ロクは土壁を出現させた。マルカによって放たれた攻撃を防ぐと、土壁は破裂するように崩れた。
振り上げたロクの足が、砕けた礫のひとつを弾き飛ばす。
「女性に向かって随分な態度じゃない」
「魔物を侍らす女を慈しめと?」
「ああ、扱いが慣れてない童貞ってことね」
馬鹿にするように笑うマルカを通り過ぎ、蹴り飛ばした瓦礫の一つが、勢いよく大蛇の腹に突き刺さった。
「なにか言ったか」
「ロク、キレてるのわかり易すぎだから」
大蛇の血で体を汚したマルカが、目を丸くして立ち竦む。
ウメノの呆れた声を受け止めたロクの瞳は、闇夜に浮かぶ赤い月のように変化していた。
「鬼化? 女相手に本気?」
「対等に扱わねば失礼だろう。お前がその気なら俺はしっかり戦うつもりだ」
「……、別に死ぬのなんて怖くないもの」
ロクの冷たい瞳に息を呑む。マルカの背後では、大蛇が鱗の隙間を怪しく光らせる。
蛇の腹模様が、文字を描くようにして変化する。古代文字が浮かび上がった途端、ウメノは目を見開いた。
「アモン!!」
「なっ、あっつ……!!」
ウメノの叫び声とともに、赤い瞳から飛び出すように炎が吹き上がった。アモンはロクの髪をわずかに焦がすと、瞬く間に人の姿を取る。
「燃やし尽くせ!」
「致し方なし」
木兎のネメスを纏う魔神が、大蛇へと火炎を放った。長い体を拘束するかのように炎が巻き付くと、腹に浮かび上がった文字を消失させる。
悲鳴を上げるマルカの姿を気にも留めず、大蛇は鱗をはじくようにして熱にもがいた。
「ドルミラ!!」
「ぅわ、よ、よけて、ロクっ」
「おまえなにをっ、」
マルカによってドルミラと呼ばれた大蛇が、体に炎を纏ったまま襲いかかってきた。大きな口を開けて二人を一飲みにしようとするドルミラを、ロクは飛び退るようにして避ける。
「さっきのなんだ!」
「うむ、あれはヴィヌスの信徒が使う古代文字だなあ」
「本当に死ぬ覚悟あるんだ。ああやだ、あれは命を魔物に捧げる契約呪文だよ」
ウメノの言葉に、ロクは眉間に皺を寄せた。魔物に命を捧げる呪文は知っている、しかしそれは禁術だったはずだ。自らの命と引き換えに、魔物の力を最大限に引き出す。
契約がなされれば、魔物はその時まで大人しく術者の言うことを聞く。だからマルカはドルミラを召喚できたのだ。
ロクは理解するなり、ゆっくりと全身へ魔力を行き渡らせる。
「つまり、裏切りの罪を償わずに死のうとしたのか」
「まあ、足止めだろうね。ねえロク、すっごい嫌な予感してるんだけど一応確認していいかな」
「死んで神の元にいくのが誉なら、絶対に生かしてとらえてやる」
「ねえ人の話聞いてる?」
引き攣り笑みを浮かべたウメノは、助けを求めるようにアモンへと目を向ける。しかし、それは無常にも拒否をされた。
「嫌だ。だって我は汚れたくないし」
「裏切りも、」
裏切り者、を言い終える前に、ウメノは遠心力で引っ張られるように移動をした。ロクがマルカへ向かってまっすぐに駆けたのだ。それも、恐ろしいほどの脚力で。
景色が横に伸びるかのような錯覚の一瞬、ロクはマルカの目の前まで一息に距離を詰めた。マルカの長い髪が、ロクの頬を撫でるように流れる。目を見開いた瞳にロクの顔が映り込んだその時。マルカの胸ぐらは乱暴に鷲掴まれた。
悲鳴を漏らす余裕はなかった。ロクを正面にしていたはずだ。それが、いつの間にかウメノの丸くなった目とマルカの視線がバチリと重なっていた。
気がつけば地べたから足は離れ、無重力のようにマルカの体は空を泳ぐ。
三人の体を大蛇の影が飲み込んだのも束の間だ。ロクが風を裂くように大蛇へと腕を伸ばす。ぶつ、と鈍い音が生々しく聴覚を刺激したかと思うと、生暖かい飛沫と共に肉の間を通り抜けた。
「っキャアアアア‼︎」
「ウェエエええ‼︎」
マルカとウメノの悲鳴が重なった。辺りはまるで桶をひっくり返すように、真っ赤な血肉が雨のように降り注いだ。
ドルミラの体が、裂けるようにゆっくりと倒れる。その先でウメノを背負い、マルカを引きずるロクの左手には、ドルミラの骨の一部だろうものがしっかりと握りしめられていた。
「くそ、頭を落とさねば骨は抜けないか」
「う、うぉえ、ぇえっ」
「さっいあくだよ‼︎ 僕背負ったまま魔物の体突き破るやついる⁉︎」
「いるなここに。やはり鬼族は脳筋だなあ」
呑気なアモンの声だけは他人事だ。この惨状に吐瀉するのは、魔物の主人であったマルカのみだ。
ロクはドルミラの血肉で汚れた体を煩わしそうに手で払うと、濡れた濃紺の髪をかきあげるように手で流す。骨に引きずられるように伸びた血飛沫が、背後の地べたを汚していた。
ウメノの抗議らしい、小さな手でポカリと頭を叩かれるのも気にもせず。魔物だったものはゆっくりと解ける様に魔素へと変わり、大気中に消えていった。
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