第6話 優しい約束

「カエレス様、おやめください」


 背後から鋭い声が飛んできた。カエレスの指先は、声に縛られるかのようにティティアの目の前で動きを止めた。


「おいハニ!」

「怯えが伝わりませんか。俺たち草食にも分け隔てなく接してくださる、カエレス様らしくありません」


 強いハニの口調に、カエレスは徐々に思考を取り戻す。微睡から覚める冴えた感覚が、全身の血液を入れ替えるかのように体を駆け巡った。

 無遠慮に伸ばした手を前に怯えるティティアに気がつくと、冷水を心臓に流し込まれたように息をつめる。

 鋭い獣の爪をしまいもせずに、触れようとしていたことに驚愕したのだ。カエレスの大きな手のひらは薄い肩を鷲掴まんとばかりに広げられていた。触れずともわかる、ティティアの表情は、カエレスの暴力を予測するようにこわばっていた。

 大きく見開かれた夕焼けの瞳が一心に見つめ返す。瞳の中のカエレスはただ、獣の本能を如実に表すように獰猛な顔をしていた。


「カエレス様、お戻りください。お嫁様は落ち着いてからご紹介します」


 警戒を言葉に乗せていたのは、ハニもまた同じであった。無意識のうちに膨らんでしまったカエレスの魔力が、部屋の空気に圧力をかけているようだった。

 指先を握り込むようにして、鋭い爪は収められた。番いを前にしての、意思の効かぬ衝動に抗うように一歩下がった時だった。


「……すまな」

「い、いいよ、俺は」


 震える声が、カエレスを引き留める。その手は寝具を握りしめたままである。


「だって俺、そのためにここにきたんだもん」

「ティティア様、でも」

「俺、オウサマと結婚するんでしょ? だから、大丈夫だよ……です」


 なれていない敬語で取り繕う。そんなティティアの姿を前に、カエレスはゆっくりと深呼吸をした。

 小さな手が、そっと持ち上がる。小さな左手がカエレスの指先に触れると、柔らかさを確かめるかのように、ゆっくりと握りしめられた。


「すまないって、さっき言おうとしてくれたから。いいですよ」

「………」

「でも無言は怖いから、何か話してほしいかも……なんて」


 ぎこちなく笑みを浮かべるティティアを前に、カエレスの背後ではハニが脱力したようにため息を吐いた。

 その場を支配していた空気がゆっくりと溶けていく。無言を貫いていたカエレスの瞳が柔らかなものに変化したのを感じ取ったのだろう。ティティアの怯えはなりをひそめ、窺うような視線を向けてくる。


「……初めましてティティア。私はアキレイアスの王様をしているカエレスだ」

「オウサマ、ってよぶ?」

「いいや、仲良くしてもらいたいからね。皆のように名前で読んでくれて構わない」

「じゃあ、カエレス?」

「ティティア様、敬称を」

「ロク、構わないよ」


 ティティアの呼び方に表情を固めたのはロクとニルだけであった。しかし緊張は杞憂に終わり、カエレスはいつみの穏やかさを静かに取り戻した。機嫌を表す狼の尾が、ゆったりと揺れる。

 周りにいない、随分と人懐っこい生き物を前に興味が湧いたのかもしれない。頬を染めて鼻の頭を掻くティティアの仕草は、獣人と同じだ。

 緊張がほぐれたのだろう様子を前に、カエレスは詫びるかのように床に膝をついて目線を合わせた。


「ここにきた以上は、もう人の国には返せない。君には私の子供を産んでもらうし、ずっとここで暮らしてもらう。悪いが、ここで生きる覚悟を決めてほしい」


 小さな手のひらを覆うように、握りしめる。ティティアへと向けた言葉に、配慮はなかった。それでも、拒まれても覆らない事実を、誤魔化すのも嫌だったのだ。

 想像していた否定は、飛んでこなかった。ティティアは形のいい唇をゆっくりと閉じると、カエレスの目を見つめ返してこくりと頷いた。


「カエレスの役に立てるならいいよ。でも、優しくして欲しいけど」

「優しくする。私と君は、今日から対等だ」

「たいとう……」

「同じ立場、という意味ですよティティア様」


 ロクの耳打ちに、安心したように表情を緩める。幼さの残る笑みに、思わず喉がぐるりと鳴った。

 これが私の番いか。カエレスは、ハニの想像の通りに驚いていた。それは小柄な体はもちろんだが、何よりも怯えられずに己を受け入れられたことが一番だった。

 カエレス以外にも、もちろん獣頭の王はいた。それでも、番いに出会った王は過去に一人しかおらず、それもすんなりとは受け入れられることはなかったという。

 己よりも体温の低い小さな手を両手で温めながら、カエレスはティティアから目を逸さなかった。体の何処かに眠るアテルニクスの本能が、離れがたく感じているのかもしれない。信心深いつもりはないくせに、都合よく解釈した己に少しだけばつが悪くなった。


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