第26話 壊れかけの作り物

 リノリウムの廊下を走っていると、向こう側からガラスの割れる音が響いた。

 また魔物が現れたのか?


 警戒しながら魔成獣の水槽が並んでいるゾーンまでやって来た。

 マモリが言った通りミナセはそこにいた。

 奴の前方には破壊された水槽が鎮座している。


 水槽からは水――培養液か?――がすべて漏れており、ミナセの体と床を濡らしていた。


 床の上には子犬の出来損ないみたいな魔成獣が体を横たえている。

 ぶよぶよしたピンクの体には毛がまばらにしか生えていない。

 よく見るとゆっくりと体が動いていた。かろうじて生きているようだ。


 ミナセは次の水槽の前に移動し、ガラスの表面に両手をついた。

 水槽の水は沸騰したみたいに激しい音を立てる。

 ガラスにひびが入った。


「おい」


 ボクの声が耳に届いていないようにミナセは動かない。

 ガラスは巨大な破壊音を響かせて壊れた。

 水が溢れ出す。

 中に入っていた魔成獣は、水の流れになす術もなく床にこぼれ落ちた。


「お前、何やってる!」


 また別の水槽の前に移動しようとしていたミナセの肩を掴んだ。

 奴はそこでやっとボクの存在を認識したみたいに一瞥した。

 瞳は濃いブルーをしている。ミヤに操られて奇行に走っているわけではないらしい。


「この子たちを逃がしてやっているんだよ」


 ミナセは無表情に答えた。

 こういう綺麗な造形をした人間の真顔はゾッとする迫力がある。


「誰かに作られて、狭い世界で生きるしかないなんて可哀想だから」


 奴は水槽に視線を移した。


「……僕も同じなの?」


 こちらに顔を向けずにミナセは問いかけた。


「みんなも僕も、この世界も……姫野さんも、全部作り物だったの?」


 回答に躊躇ったが、今さら嘘をついても仕方がない。「そうだ」と、短く答える。


「信じない」


 冷たく響くその声は震えていた。


「だって君はずっと僕らを騙していたんだろ?……今さらどう信じろって言うんだよ」


 ボクは上手い言い訳が思いつかず濡れた床を眺めた。

 こんな展開は原作にないし「正解」の選択肢などわからない。


 真実なんて話すべきじゃなかった。


「……ボクのことが信じられないのは仕方がない。だけどミヤを止めないと魔物は現れ続けるし、お前だって困るだろう。協力してくれ」

「その話もどこまで本当なのか。……もう、何を信じたらいいのかわからないよ」


 何かヒントをくれよ、と、マモリにアイコンタクトを送った。


【彼は頭が悪い人ではないわ。まだ貴方の話を心が受け入れられないだけ。時間が経てば冷静さを取り戻すはずよ】


 今はそっとしておいた方がよさそうだ。


「部屋に戻っている。お前も落ち着いたら来い」


 ミナセは何も答えなかった。


「水槽を破壊するのはもうやめろよ」


 ボクは来た道を戻ろうと踵を返した。


「待って!」


 ミナセが叫んだ。

 服の裾を捕まれ、振り返る。


「ひとりにしないで」


 さっきまでの無表情とは打って変わって、ミナセは取り乱した表情をしていた。

 親に置いて行かれた子どもみたいな切実さを訴えかけている。


「お願い……側にいて……」

「ボクのこと怒っているんじゃないのか?」

「……わかんない」

「自分のことだろ」

「だってわかんないもん、怒らないで」


 そう言って今度はいきなり泣き出した。

 様子がおかしい。


【……思った以上にまずい精神状態ね】


「もっとちゃんと説明しろよ」と、マモリに視線を送る。


【ストレスが過剰にかかり過ぎて幼児退行しているみたい】


 なんだって?!

 いや、子どもみたいに泣きじゃくる奴の姿を見ていると、精神年齢が著しく下がっているとしか思えなかった。


 どうすればいいんだよこんなの。


【精神が回復するまで休ませるしかないわ。貴方も疲れているみたいだし、ひとまず部屋に戻って休みましょう】


 ミナセが泣き止むまで待ってから仮眠室に連れて行き、シャワー室へ押し込んだ。

 髪の毛も服もずぶ濡れだしこのまま放っておいたら風邪をひく。


 ボクは倉庫に向かった。

「置いてかないでよ」と不安な顔でミナセに言われたが、必ず戻って来ると約束したらなんとか納得した。

 子犬の出来損ないみたいな魔成獣が一緒だったのも効いたのだろう。

 水槽から出された他の魔成獣はどこかに逃げて行ったが、弱っていたそいつだけは倒れたままだった。

 ミナセは「可哀想だから連れて行く」と言って聞かなかった。


 倉庫は想像以上に広かった。

 教室で使う机や椅子の予備や、パーテーションなども仕舞ってある。


 今必要なのは食料と着替えだな。


 棚を順番に見ていたボクは、ある一角に来た時にぎょっとした。

 水や食料が床に散乱していたからだ。


「ミナセの仕業か?」


 倉庫に来た時から奴の精神は既におかしくなっていたのだろう。


 ボクは水と食料を拾い集めた。

 これを入れる袋が欲しい。


 使えるものを求めて棚を物色していると、マギア・アカデミーの制服の予備が見つかった。

 学生鞄もある。

 ちょうどいい。ボクは鞄に水と食料を詰め込んだ。

 制服もありがたく借りよう。


 もう少し色々と物色したかったが、ミナセを放置してまた奇行に走られても困る。

 一旦仮眠室に戻るか。


 仮眠室をノックし、「入るぞ」と言って扉を開いた。

 ソファーの横にミナセが立っていた。

 その姿に驚き、思わず扉を勢いよく閉めた。


 髪の毛も体もびちゃびちゃのまま、何も身に付けずにぼんやりとどこかを見つめていた。

 あれじゃ幼児退行というより廃人に片足をつっ込んでいるじゃないか。


 ボクは扉を背にしてマモリを呼び出した。


【何かしら】

「……お前、ちょっと外で待ってろ」

【わたしも部屋に入りたいわ】

「……今は駄目だ」

【どうしてよ】

「部屋に……その、ネズミがいたんだよ。駆除したら呼ぶから待っててくれ」


 マモリは不快そうに眉を寄せ、「わかったわ」と言って姿を消した。


 ボクは再び扉を開き、仮眠室に足を踏み入れる。


「……濡れたままでいたらシャワー浴びた意味ないだろ」


 シャワー室からバスタオルを取って来てミナセに投げつけた。

 奴は無反応で、タオルはぱさりと床に落ちた。

 ミナセの足にまとわりついていた子犬の魔成獣は、玩具と勘違いしたのかバスタオルにじゃれついた。

 魔成獣はかなり元気になっている。ミナセが回復してやったのだろう。


 面倒くさかったが、ボクはバスタオルを拾い上げてミナセの頭に被せた。


「ちゃんと拭けよ。あとこれを着ろ」


 倉庫で見つけた制服のカッターシャツをソファーの背に置く。


 ミナセは呆けたまま指示に従った。

 だけどシャツのボタンに手間取り、二、三個留めたところで諦めていた。

 元々は三人の中で唯一きっちりと制服を着ている奴だったのに、見る影もない。


 ホムラは制服のボタンをいくつか開けて着崩しているし、ダイチにいたってはブレザーの下にピンクのパーカーを着ていた。

 今さらだがマギア・アカデミーの校則は一体どうなっているんだ。


「お腹空いた。お菓子が食べたいなぁ」


 ミナセはソファーに体を投げ出し、飛び乗って来た子犬の魔成獣を腹の上で撫でながら言った。

 喋ったと思ったらのん気な発言しやがって。


 子犬は片目だけ白く濁り、片耳だけ小さいというアンバランスな見てくれをしている。

 剥き出しの歯は生え揃っていないし、ほとんど毛がないピンクの体は深海魚みたいでグロテスクだ。


「これも着ろ」


 制服のブレザーとズボンをソファーの背にかける。


 ミナセはボクの言葉を無視して子犬の魔成獣と戯れている。

 顔を舐められて無邪気に笑っていた。


 まったく……世話の焼ける奴だ。


 男の着替えなんて手伝いたくなかったが(女の子の着替えを手伝うのはかなり問題だけど)、マモリをいつまでも外で待たせていたら後で文句を言われそうだ。


 ボクはソファーの端に立ってミナセを見下ろした。


「君も僕と遊びたいの? いいよ、おいで」

「……じっとしてろよ」


 差し出された手を払いのけてソファーに膝立ちになり、シャツのボタンを留めて行く。


【内藤宗護さん】


 マモリの声がし、ボクは扉の方を見た。

 そこに彼女は立っていた。


【なかなか呼びに来ないから心配になって来たのだけれど……何をしているの?】


 ボクと、ボクの膝の間で寝そべるミナセの姿を交互に見た後で、マモリは不快そうに眉を寄せる。


「いや、これは……」

【内藤宗護さん。わたしの体で一体何をしようとしているの?】

「……介護だよ」


 ミナセを着替えさせて食事を与え、ベッドで眠らせるとようやくひと息つけた。


「……あいつ、あそこまでショックを受けるなんて」


 ボクはソファーで保存食を齧りながらティーパックの紅茶を啜った。

 味は悪くないがミヤのところで飲んだのとは比べ物にならない。


「お前は自分がゲームのキャラだってわかっても平気なんだな」


 そもそも、どうしてマモリはそれを知っているんだ?


【わたしは現実プレイヤーとゲームを繋げる役割だから、元から知っていたのよ】


 姫野マモリはロード画面やヘルプ画面、クリア得点のスチル鑑賞画面などにも登場する。

 そう言った場面では「メタ発言」もするキャラクターだ。

 だからなのか?


【王侍ミナセ達はプレイの度に記憶をリセットされる。毎回、新鮮な気持ちで主人公に向き合うためにね】

「ホムラは記憶が一部残っていたようだが」

【真堂ヒカルが記憶を残していたことが原因かもしれないわ。狩人ホムラは彼のフラグになっているから、プログラム上の関係が深いのよ】


 そういうことだったのか。


「今後のことを考えないとな」

【休息するのが先よ】

「こうしている間にも陽彩ちゃんがミヤに何をされているのかわからないんだぞ」

【彼女は川合井陽彩さんに乱暴したりはしないでしょう。焦っては駄目よ】


 焦ったせいでミナセの精神を壊したのだから同じ失敗はしないに限る。


【王侍ミナセが戦えるようになるまで待つ必要があるわ】

「いつ回復するかわかったもんじゃない。ボク一人でどうにかできないか?」


 マモリは首を横に振った。


【咲衣ダイチと狩人ホムラは単体でも勝てる見込みが薄い相手なのに、一緒にいるの】


 マジかよ。


【二対二でもこちらが不利よ。貴方一人では殺されに行くようなものだわ】

「なんでダイチとホムラが揃ってるんだよ。あいつらそんなに仲良くないだろ」


 ベッドの四方を囲うカーテンが開かれた。

 ミナセが起きて来たのだ。


「ダイチと狩人君の話をしてた?」

「お前は寝てろ」

「二人は僕のお友達だよ。でも今は操られてて可哀想なんだ……。早く助けに行かなきゃ」


 こんな風になっても二人のことはわかるのか。


「二人を助ける方法はある。だけどお前が戦えないと無理だ」

「できるよ」

「万全の状態でもボクとお前じゃあの二人に勝てるかわからない。特にホムラは強いんだろ?」


 ボクはミナセが作った水の牢獄をかき消すホムラの姿を思い出した。

 普通に考えたら火は水に弱い。だいたいのゲームでもそう設定されている。

 あいつに弱点を打ち破るだけのパワーがあるってことだろう。


「狩人君はすごく強いよ。だけどお水のいっぱいあるところなら負けないかも」


 ミナセの言葉にマモリが反応した。


【有利なフィールドで戦うのね。それなら勝算もあるわ】


 マモリはボクを見て説明した。


【水のマギア使いは水辺ではより強くなるわ。マギアを使うのに水を召喚する必要もなくなるし、扱える水量が増えるからね。逆に火のマギア使いには不利よ】


 それぞれ地形強化バフ弱体化デバフがかかるってわけだな。


「ねぇ、海に行こうよ」


 ミナセがボクの服の裾を引っ張った。


「明日連れて行ってやるから今日は寝ろ」

「うん!」


 次の日。ボク達は海にやって来た。

 そこで見たのは、バグ画面のようなカラフルなノイズに浸食された水平線だった。


【シナリオを書き替えようなんて無茶をしたから……。この世界はもう駄目よ】


 ボクは息を飲んで見つめ続けた。

 間もなく壊れゆく世界を。

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