第8話
レジカウンターの前にある椅子に座って、狐鳴山で出会った女性に貰ったハンカチを見ていた。
ハンカチはあの後洗濯して、綺麗にし、返せる状態にした。
「おい、真一」
背後から小山さんの声が聞こえる。けれど、そんな事どうでもいい。
現在、僕の脳内は麻痺している。どんなに思考を飛躍させて、様々な事を考えても、結局、終着点は彼女の事になってしまうのだ。
我ながらおかしいと思う。いや、おかしいからおかしいのだと気づくのだろう。
「おい、真一」
肩を叩かれた。
僕は振り向いた。
「何ですか?」
「何ですかじゃないだろ。何ずっとぼーっとしてるんだ」
「ぼーっとなんかしてませんよ」
「いや、明らかにぼーっとしてる。この前の依頼が終わってからずっとな」
「そんな事ないですよ」
「そんな事あるんだよ。仕事にならん。買出し行って来い」
「パシリですか?」
「違う。おつかいだ。文句言わんでコーヒー豆買って来い」
「チャチャですか。それなら、喜んで行って来ます」
「お、おう。お金持って来るから待っておけ」
「はい。了解しました」
小山さんは、レジカウンターから離れ、事務所に入って行った。
チャチャの駐輪スペースに自転車を停めて、店に向かう。なぜだか、普段より足取りが軽い。この前の依頼の疲れがとれたからだろうか。
僕は入り口のドアノブを掴み、引いて、店内に入る。
「こんちは」
「お、真ちゃん。いらっしゃい」
土門さんが笑顔で迎え入れてくれた。
「どうも」
「今日もいつものかい?」
「はい。いつもので」
「ちゃっと待ってなぁ。用意するから」
「分かりました」
僕は土門さんがコーヒー豆を用意するまでの間、店内を見る事にした。
店内に置かれている物を眺めていると、僕はつくづく土門さんのセンスが好きなのだと思う。
流行に流されず、自分の良いと思った物だけを置いている。
それを人は時代遅れだと言うかもしれない。けれど、それは違うと思う。時代の流れに流されない物こそが見えない所で時代を支えているのだと思うからだ。
「真ちゃん。用意出来たよ」
「ありがとうございます」
僕はレジカウンターへ小走りで向かった。
「ほれ」
土門さんは僕の前にコーヒー豆が入った紙袋を置いた。
「これでお願いします」
僕は財布から小山さんに渡された1万円札を取り出し、土門さんに手渡す。
土門さんはレジスターを操作する。
「はいよ」
僕は土門さんからお釣りの6千円とレシートを受け取り、両方を財布にしまった。
「あのーこれって何で高いか、もういい加減教えてくださいよ」
僕は紙袋から、コーヒー豆の入った袋を取り出し、土門さんに問いかけた。
「知りたい?」
土門さんは不敵な笑みを浮かべる。
「はい」
「本当に?」
「本当に」
「後悔しない?」
「後悔?そんなのしませんよ」
「じゃあ、もう一度聞くよ。絶対に後悔しない?」
しつこい。少し腹が立ってきた。
「絶対にしませんよ。だって、コーヒー豆ですよ。後悔する理由なんてないでしょ」
「それじゃ、仕方ない。教えてあげよう。そのコーヒー豆の名前はコピ・ルアク」
「コピ・ルアク」
「ジャコウネコの糞から採られる未消化のコーヒー豆を綺麗に洗浄して乾燥させたものなんだ」
「糞?うんこって事?」
「そう言う事」
「え、本当?」
「本当だよ」
「……何か後悔した」
とてつもなく残念な気持ちに襲われる。ただただ残念だ。
「だから言っただろ。後悔するって」
「……何か聞いてすいません……教えてもらいありがとうございます」
「テンションだだ下がりだね」
「そ、そんな事ないですよ」
そんな事ある。テンションはだだ下がりだ。
土門さんに気を遣われないように少し声量を上げて言った。
「仕方ない。テンションが上がる情報を教えてあげよう」
気を遣わせてしまった。
「彼女出勤してるよ」
「え?」
「この前、真ちゃんが見惚れていた彼女だよ」
「そ、そうですか」
「分かりやすいね。君は」
「何がです?」
「何もないよ」
「……あのー彼女の名前とか知ってます?」
「知ってるよ。取引先の子なんだから。大場亜子ちゃんだよ」
「……大場亜子さんか」
「惚れてんのかい」
「違いますよ。返したいものがあるだけです」
「へぇーそうかい」
土門さんは、にやにやしながら言った。
「何にやにやしてるんですか?」
「いや、別に」
「それじゃ、失礼しますね」
「おう。頑張れ若者よ」
「何も頑張りませんよ」
僕は逃げるように店から出た。
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