第3話 思い出の交換
「聞いてほしい?」
高輪叶人は少しだけ視線を彷徨わせる。
「そうだな、知りたいことはいくらでもある。何故俺を刺したのか。みんな俺に聞くけれど、そんなこと知らないよ。刺したやつに聞いてくれって思う。だろ?」
その言葉は、高輪叶人に刺される心当たりがないことを示していた。きっとおそらく、それが最も投げかけられた問いなのだろう。けれども高輪叶人は自分で自分を刺したわけじゃない。だから刺した理由なんてわからない。
「ねえ、三蓼さん。三蓼さんはなんで俺は刺されたんだと思う?」
高輪叶人の瞳が煙草から再び俺に移る。顔が振り向くと同時に白くたなびく煙の軌道も変化した。そうして心臓の鼓動が高鳴るのを感じる。不意にあの空が思い浮かぶ。
ああ、何故ついてきてしまったんだろう。好奇心? それとも。
空というものは手に入るものなのだろうか。それは世界をどこまでも繋げている。目を閉じればあの日の空が鮮やかに目の奥に浮かぶ。それは何も変わらなかった。
「怨恨とか、恋愛とか言われてますね」
「誰かに恨まれる覚えはない。ここのところ誰かと付き合ったこともないんだ」
「空が明るかったから?」
「空? それなら太陽のせいかもしれないな。昔の映画にそんなのがある」
太陽。あの空に太陽はあっただろうか。空一面が等しく暗かった。目眩がするように。だからきっと、太陽はなかった。そんなはずはないのに。ああ。そうか。高輪叶人の瞳はあのときの灰色の空と同じ色だ。だから嘘はつきたくなかった。あの空の色は俺の中の大切な何かを塗り替えた。後戻りができないほどに。
高輪叶人は新しい煙草を取り出して指に挟む。屋上ではいつも2本だった。いつもより随分多い。高輪叶人は刺された動機が気になっているんだろうか。当然といえば当然だ。
高輪叶人は煙草を一旦灰皿に置き、ポケットから一旦出したライターを仕舞う。
「三蓼さん、火、頂戴?」
「火?」
「そう」
「ライターをお持ちでは?」
「うん。最近紙煙草を吸う人って本当に少なくてね。だから久しぶりにこういうのやってみたくて。もうやる機会がないかもしれないし」
高輪叶人は唇に煙草を挟み、俺に顔を近づける。その先端が俺の煙草の先にふれ、ジジと小さな音がしてスモーキーな香りが漂った。高輪叶人の瞳がじっと俺を見つめている。俺はまるで磔にでもなったかのように微動だにせず見守った。そうして高輪叶人は2度ほど瞬きをして、俺の目の前に白い煙の残滓だけ残して遠ざかる。
「ごめん、突然だったよね。気を悪くしないで」
高輪叶人はわずかに微笑み、けれども目は離されなかった。新たな煙が吐き出され、それを負うように手元のハイボールに目を移す。氷は最早その上の方にわずかに浮いているくらいだ。
「いえ、俺もこんなふうに火をつけたのは初めてなので」
「そう? そっか。そういや三蓼さんは俺より若いよな。もともと不良とかじゃないなら、吸い始めてそんなに経ってない?」
高輪叶人は院生2年だったはずだ。それでも俺とは4つほどしか離れていないだろう。
「まぁ、そうですね」
「実は俺さ、煙草吸うのやめようか悩んでるんだ」
その言葉に酷く動揺した。俺にとって高輪叶人のイメージは屋上で煙草を吸う姿だからだ。
「それは、どうして?」
「刺されてから味覚が無くなってね。匂いは感じるんだけど舌で味を感じないからさ、妙にぼけちゃって片手落ちな感じなんだよ」
高輪叶人はそう呟いて唇から煙草を離して舌を出す。
「煙草が唯一の趣味みたいなものだったんだ。もともと食べものには興味がなかったから味がわからないのは構わないんだけど、煙草まで味がわかんなくなるとは思わなかった」
「それは……ご愁傷さまです」
「ねぇ、それってどういうつもりで言ってる?」
その少し攻撃的な言葉に思わずびくりと顔を上げて振り向けば、高輪叶人は薄っすらとほほえみ、再び白い煙を吐き出した。バーの内側に煙が広がっていく。
「気に触ったならすみません」
慌てて言葉が口をついた。けれども何か変なことを言っただろうか。
「ああ、俺は別に怒ってるわけじゃない。三蓼さんにも、俺を刺した人にも」
犯人にも? それはおかしなことだ。高輪叶人は刺されて、そして様々なものを失った。けれどもよく考えれば高輪叶人の様子はかつてと変わらず、どこか泰然としているように見えた。そしてそれはとても眩しく映り、安堵だか不満だか評し難い気分が心を占める。
「強いんですね」
「そんなことはないんだよ。ただ、単純にどうしてそう思ったのか気になっただけ。でもやめようと思うと代わりに何して良いのかわかんなくてさ」
「代わり、ですか?」
「そう、口が寂しいっていうか、手が寂しいっていうかね。そうだな、それが俺を刺した人が俺から奪おうとしているものかもしれないね」
そう呟いて高輪叶人は口元で煙草を支えていた指を外してふらふらと動かした。
そんなはずはないだろう。高輪叶人の障害は時間の経過による出血過多によってもたらされたものだと聞いた。つまり高輪叶人はその傷害によって死亡した可能性はそもそも高く、それゆえ犯人は殺人未遂として捜索されている。障害についても今の結果は偶然で、足や聴覚の麻痺になる可能性も同等に存在したはずだ。
「ねぇ、三蓼さんは俺が刺されたときのことを知りたくない?」
思わず体が固まった。すべての時間が止まったように感じられた。けれども高輪叶人の唇から流れた白い煙によって、その瞳が全く動いていないだけだと気がついた。
「それは聞いていいことなんですか? それこそたくさん聞かれて辟易していることでは?」
「そうだね。でも三蓼さんは特別だから」
高輪叶人はそう呟いて、返事も待たずに口を開く。
事件の日、高輪叶人は家に帰る途中だっだ。
夕方の午後4時頃、もともと人の少ない高架下の暗がりで背中を刺された。そうして犯人は逃走した。その時間は未だ高架下の自動点灯式の電灯は点っておらず、不幸なことに高輪叶人が倒れたのは影になる場所だった。発見されたのは刺突されてからしばらく時間がたってから、電灯が灯った後だった。
「冬のアスファルトってすごく冷たいんだよ。例えばそのグラスの氷。氷に触ったときみたいに顔と手がくっついて動かせなくなった。まあそれは血が流れすぎて体が動かなくなったって話だけど。右腕を下にして倒れたから右腕が動かなくなったんだと思ったけど、それは違うみたいだね」
「そう、なんですか」
「それで血は流れる瞬間だけ暖かくてさ、でもその分体がどんどん冷えてく。血が出てる背中じゃなくて何故だか手足の先から。それでだんだん何がなんだかわからなくなってさ。まるで世界が逆さまになるような感じだったよ」
まるで映画の感想でも話すような、他人事のような淡々とした言葉に俺は酷く混乱した。それは想像していた以上に生々しい、刺されてからのその後だ。
「警察にはそれだけしか言わなかった」
「それだけ?」
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