遠くて近い(BL)

Tempp @ぷかぷか

第1話 名詞の交換

「あの、さ。この後少し時間ないかな」

「え?」

 目の前の綺麗な男が所在なさげに口を開いた。

 少しだけ目元が赤い。少しだけ酔っ払っている。ストライプ柄のシャツに紺の上下とそれっぽく装ってはいるけれど、少し長めの艷やかな髪と彫刻のように整った華奢げな顔貌はこの名刺が飛び交う雑然としたパーティ、もといこの賀詞交換会には酷く場違いだった。

 けれどもそれももうすぐ終わりで、お開きになるタイミングだ。締めの挨拶が始まったのにあわせてその場を離れ、なぜだかまっすぐに俺のところまで歩いてきた。

 畑違いなこの場所に高輪叶人たかなわかなとが現れるとはちっとも思っていなかった。俺に声をかける理由もない。ないはずだ。

 この後?

 その言葉に酷く動揺していた。そして高輪叶人はわずかに首を振った。

「ごめん。不躾だったよね。忘れてほしい」

「嫌というわけでは」

 踵を返そうとする姿に思わず言葉を接いだ。

「自分も少し飲みたいので」

 酒は供されている。けれどもこの会は俺にとって就活の一環のようなものだから、軽々に飲めなかったのは事実だ。企業が新年会を主催するこの時期、大学が産学連携する会社を回っていた。この通信機器の会社は俺にとって数ある中の1つで、たまたま時間が空いていた。それだけの場所だった。

 つまり俺と高輪叶人がここで会うのは偶然に偶然が重なった結果だ。多分この機会を逃せばもう話すことはない。二度と。そう思ったから。


「よかった」

 ホッとしたようなこの微笑みを、これほど間近で向けられる機会があるとも思っていなかった。酷く心臓が波打つ。それがきっと、表情に少し出たのだろうか。その眉が柔らかく弓形を形作る。

「奢りだから安心して」

「別に奢らなくても」

「君、神津大の学生でしょ? 俺は数学の高輪。一応院生だからさ。ええと」

「2年の三蓼みしなです。高輪さんのことは知ってます」

「……そっか。有名だもんね」

 そう言って高輪叶人は期待でも外れたかのような、そして困ったように微笑んだ。目の下に浮いた陰からは、少し疲れているようにみえた。

 高輪叶人は有名だ。数学科の俊才で、金融機関に引っ張りだこと聞く。そして半年前に帰宅途中に刺されて生死の境を彷徨い、そして一命をとりとめた。動機は様々に憶測されたが犯人は捕まっていない。

 高輪叶人はもともと飲み会に出てくる機会も少ない人間だったためか、先程までも周りに人だかりができていた。きっと事件のことを聞かれていたのだろう。

「大丈夫なんですか? お酒」

「ああ、少しだけならね。怪我してからなんだかすっかり弱くなった」

 そう呟いて高輪叶人は肩をすくめた。

 昼過ぎに始まった講演会に続く新年会が終わったのは丁度夕方で、ビルを出れば未だ残光が世界を薄っすらと照らしている。ざわざわと人であふれる通りを抜けて更に細い路地を歩むうちに次第に世界は次第に明度を落とし、落ち着きを取り戻していく。

 ちょうど日が落ちるのと同時にたどり着いたのは、薄闇に隠れるようにひっそり佇む小さなバーだった。店内に入れば暖かく柔らかいジャズが流れ、漸く外が寒かったことに気がつく。見渡せば客は誰もおらず、ダークブラウンの艷やかなバーカウンターの奥にはたくさんの瓶が静かに並び、淡い照明を照り返していた。

若本わかもとさん、少し早かったかな」

 グレーのチェスターコートを掛けながら高輪叶人がカウンターの内側に呼びかければ、初老の男が目を細める。

「少々早いですが結構ですよ。新年ですから」

「ありがとう。ラムを凄く薄く。三蓼さんは?」

「ハイボールで。ここはよく来るんですか?」

「うん。そうだね、もう5年くらいかな」

 そうして会話が途切れた。


 俺と高輪叶人の間には共通の話題はおそらく1つしかない。

 同じ神津大学理学部に所属してはいるものの、未だ2年の俺は一般教養をウロウロしているだけで数学科に進むつもりもない。高輪叶人は基本的に研究室から出てこない。だから本当に接点がない、はずだ。

「煙草、吸っていいよね?」

 気がつけば高輪叶人の前には小さな黒曜石の灰皿が置かれていて、煙草と同じように細長い指がライターを掴んでいた。けれどもその煙草を挟む左手は、妙にフラフラとおぼつかない。なんだか目眩がした。いつかのように。

「ええ、どうぞ」

「三蓼さんもどうぞ」

 高輪叶人が意味ありげな様子で俺をじっと見て、はにかんだ。薄明かりに照らされた高輪叶人は人間離れして綺麗に見える。ポケットの煙草ケースから1本取り出して火をつけた。

「まさかそれで俺を誘ったんですか?」

「そう。あの場所で電子でない煙草を吸ってたのは三蓼さんだけだったから。最近紙タバコはますます立場が弱いよね。それに……そういえば俺を見ようともしなかったからかな」

「見ようとも?」

「うん。正直辟易してる。三蓼さんは今更聞かないよね? あのこと」

 高輪叶人は少しだけオドオドと、上目遣いで俺を見る。微妙な陰影はその仕草を随分幼く見せる。こんなに表情が変わる人だとは思っていなかった。酔っているせいもあるかもしれない。

 その言葉が指しているのは、刺されたことについて、だろう。それが俺と高輪叶人の唯一の、共通する話題だ。けれども俺はその話題に触れようとは思わなかった。第一高輪叶人自身が望んでいなさそうだったからだ。

「聞きませんが、他に話題がありません」

「……話題。それもそうか。えっと、三蓼さんは産学連携に興味が?」

 その無理やりひねり出したような話題こそ、興味の無さを示す申し訳程度のものだ。

「就活半分です。興味ある分野で参加できるものは実績作りに積極的に」

「そっか。俺はもともと院に進むつもりだったから」

 そうしてやっぱり、話題は途切れた。

 数学の話をふられても俺は理解ができない。俺の習った基礎知識なんて高輪叶人にとっては基礎の基礎で、話題にすらならないだろう。

 高輪叶人のグラスの氷がカラリと音を立てる。多分この小さな酒宴の目的は、あんまりな新年会の口直しだ。それほど高輪叶人の周りには人が集まっていた。多分、ここに長居する雰囲気でもない。

 俺は何でついて来たんだろう。目の前のハイボールもその表面に汗をかいている。なんとなく、手を取る気にならない。飲んでしまえば、きっと嫌なことを聞いてしまいそうだ。

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