第23話

 すぐにクッキーが運ばれて、甘い味が口内に広がる——ことはなかった。


 私の口に入ってきたのは、クッキーじゃなくてもっと柔らかくて、温かいもの。それは間違いなく、風菜の舌だった。彼女は当然のように私にキスをして、そのまま舌を絡ませてくる。


 いきなりすぎるって思うのに、抵抗できない自分が嫌だった。

 風菜が今どんな気持ちなのかはわからないけれど、キスしてもらえるのは嬉しい。なんてことを思ってしまうのは、どうかしているだろう。


「……ふ、ぅ。何、してるんですか。ばか風菜」

「何って、キスだけど?」

「だけど? じゃないですよ! いきなりしないでください! びっくりするじゃないですか! もういいですから、クッキー食べさせてくださいよ」

「別にふうな、クッキー食べさせてあげるとは言ってないんだけどね。口開けて、としか言ってないし」

「そういうの、いいですから。……ほら、早くしてください」

「はーい」


 風菜はクッキーを摘んで、私の口許に運んでくる。

 クッキーは相変わらず美味しかった。お弁当に入っていた料理と同じで、味が私好みである。


 わざわざ私に合わせてくれているのか、それとも風菜の好みが元々私と似ているのか。わからないが、どっちにしても嬉しいのは確かだ。


「美味しいです」

「ならよかった。ふうなにも食べさせて」

「風菜は今日誕生日じゃないですよね? わがまま言っちゃダメです」

「ぶーぶー。いいじゃん、食べさせ合うくらい。ケチだよ、りんね」

「しょうがないですね……」


 今日の主役は私なのだが、まあいいだろう。

 私はクッキーを摘んで、彼女の口許に持っていった。


 そして、すぐに手を引いた。

 風菜はくすくす笑った。


「今、私の指ごといこうとしましたね」

「ありゃ、バレちゃった。りんねの指が美味しそうだから、つい」

「ついじゃないですよ、もー。もう絶対食べさせてあげませんからね」

「残念」


 変ないたずらはやめてほしい。以前ならともかく、今の私には劇物すぎると言いますか。……ちょっと噛まれてみたかったとか、思ってないけど。


 だめだ。

 風菜が好きだと気づいてからというもの、私は平静を完全に失っている。


 そもそも私のこの好きは、どんな好きなんだろう。キスしたりハグしたり、そういうことはしたいって思うけれど、それ以上のことがしたいかはよくわからない。ただ、彼女の隣にずっといられたらどれだけ幸せだろうって思うだけで。


 私はそっと、彼女の肩にもたれかかった。

 あったかい。こういうちょっとした触れ合いを、幸せって思ってしまう。

 それもどうなんだろう。いいのかな、こんな調子で。


「風菜は、もしなんにでもなれるとしたらどんな大人になりたいですか?」


 私はそう言って、クッキーを口に運んだ。

 ずっと昔から、変わらない味。それに安心するけれど、本当にずっと変わっていないのかはわからない。もしかしたら、変わらないって思っているだけで、本当は変わっているのかもしれない。

 クッキーも、私たちの関係も。


「んー……ふうなは楽しく生きられればそれでいいかな。好きなところに行って、好きなことして、好きな人と付き合って。それが一番幸せ」

「付き合う……」


 その言葉に他意がないのはわかっている。

 私の胸が勝手に反応して、痛んでいるだけで。


「じゃあ、どんな人と付き合いたいんですか?」

「どんな……一緒にいて楽しい人? りんねみたいな!」

「……そ、ですか」


 そこで私の名前を出すのはやめてほしい。

 反則にも程があるから。


 胸が痛くなったり、嬉しくなったり。私の心と体は風菜の言葉に過剰反応してしまっている。このままじゃ体がもたないって思うのに、一緒にいたいって気持ちもあって。どうして人の心はこんなに矛盾しているんだろう。


「りんねは? りんねはふうなと一緒にいて、楽しい?」

「楽しくないです、全然」

「ぶー。いつも楽しそうにしてるのに」


 これまではそうだったかもしれないけど。最近は疲れることの方が多い気がする。


「風菜」

「なあに?」

「キスしてもいいですか?」

「いきなりだね。……いいけど」


 彼女は私の方に顔を向ける。私は少し身を乗り出して、彼女にキスをした。何度も舌を入れてキスをするとおかしくなってしまいそうだったから、触れさせるだけにする。でも、そんなキスでも幸せになるから、変だと思う。


 一回キスすると、もっとしたくなる。

 二回、三回、四回って、唇をくっつけるのが止められなくなってしまう。


 いつもみたいにくすくす笑って、やりすぎって止めてくれればいいのに。風菜は止めてくれない。止めてくれないから、私も止まれない。こんなに何度も何度もキスをしてしまうのは、風菜のせいだ。


 風菜が、ちゃんと私の手綱を握らないから。

 ……なんて。


「今ので十三回目」

「数える余裕があるなら、止めてくださいよ」

「止めてほしいの? もっとしたいって顔してるのに」

「キリがないじゃないですか、ばか」

「ばかでいいよ。……もっとして?」

「ばか風菜」


 キスをする。

 顔を離す。


 見つめ合う。

 そしてまた、キスをする。


 何度も巻き戻して同じ場面を見ているみたいな、繰り返しのキス。触れ合う度に胸の内にある感情は高まって、膨らんで、弾けてしまいそうになる。だけどこんな気持ちになっているのは私だけで、風菜はきっと、同じ気持ちなんかじゃなくて。

 いつも通りの風菜の顔を見ていられなくて、私は俯いた。


「なんでキスしたんですか、風菜」

「……? 今キスしてきたの、りんねじゃん」

「そうじゃなくて、初めてキスした時のことです。あの日、どうして風菜は私にキスをしてきたんですか」


 それは、ずっと聞きたかったけど聞けなかったことだ。答えを知ってしまったら、これまでの私でいられなくなるような気がして怖かった。でももう、すでに私はこれまでの私ではいられなくなっている。だから聞いても問題ない、はず。


 笑い声が頭上から降ってくる。

 私は顔を上げた。


「秘密」

「……む。なんですかそれ」

「じゃあ聞くけど、りんねはどうしてキスしてきたの?」

「それは……」


 好きだから、なんて言えるわけない。

 だって、この関係を壊したくないから。生まれた時からずっと一緒に、二人で楽しく過ごしてきたのに。今更私が変わってしまったら、風菜もきっと困るはずで。いつか風菜が本気を出すその日まで、この関係を続けられたらそれでいい。


 それに、私はまだこの好きの正体がわかっていないのだ。

 付き合いたい? そういうことがしたい? それとも、本当の家族になりたい?


 どれも正解な気がするし、不正解な気もする。

 結局こんな状態じゃ、どう気持ちを伝えればいいのかもわからない。だから何も言えなくなってしまう。


 自分の心の曖昧さと、関係を変化させる怖さ。それが蔓みたいに、私の心に巻き付いて締め付けてきていた。


「ふうなはね。ずーっとこうして、りんねと一緒にいられたらそれでいい。別に、本気になんてなれなくたって」

「……私は、風菜に本気になってほしいです」


 風菜は目を細めて、私の隣に置かれたウサギのぬいぐるみを手に取った。そして、耳についたリボンを解いてから、私の髪に触れてくる。


 長い指先が、器用に私の髪に赤いリボンを結んでいく。

 その感触に、胸がぎゅっと締め付けられる。痛いけど、甘い。よくわからない感覚だった。


「……ふふ。やっぱり、よく似合ってる。りんねって、昔から赤が似合うよね」


 彼女はふわりと笑う。

 その笑みを見ていると、私の心臓は弾けそうになってしまう。


 好き。好きだ。もうどうしようもないってくらいに、風菜のことが好き。


「リボン、お揃いの買ってよかった。……これからは毎日、ふうながりんねの髪、結んであげる」

「ふう、な」

「だから、りんね。毎日ふうなのお家に、来て」


 彼女は私の髪を指で梳かしながら言う。

 痛い。甘い。痛い。

 私は胸をぎゅっと押さえて、言った。


「……はい」


 今の私は、そう口にするだけで精一杯だった。

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