1 美女と妖精の出会い

 アパートの自室に入って、テーブルにバッグとオルゴールを置くと、花梨は深くかぶっていたキャスケット帽を脱いだ。次いで掛けていたサングラスを外し、口を覆っていた大きなマスクも取る。すっかり本来の姿になった花梨は、鏡で自分を眺め、深い溜息をついた。


 鏡には、この世の者とは思えないような美貌の女性が写っていた。長い黒髪は艶やかに輝き、大きくうるんだ瞳は肌に影を落とす長い睫毛に縁取られて、自ずと存在を主張している。その主張に負けない整った鼻筋と色気のある唇。それらすべてが、万人を魅了する美しさを備えていた。


 だが、ここにはその美しいかんばせを見る者はおらず、花梨は気を取り直して無造作に黒髪を結い直し、改めてユニットバスで手を洗った。部屋に戻ってきてから、再び色の濃いサングラスを掛けた。

 やはり、部屋に誰もいないとはいえ、サングラスを掛けてしまう。それは、彼女の癖のようなものだった。


 それから、雑貨店でもらった金色の包装紙を丁寧に開ける。やがて落ち着いた色合いの、品のよいオルゴールが現れた。このオルゴール自体は美品であったが、どことなく風格が感じられる。製造年が古いのか、商品自体にそれなりの年輪があるようだった。


「やっぱり可愛い、な」


 呟きながら、蓋に彫りこまれた妖精を指でたどる。曲に合わせて今にも踊り出しそう、と思いを巡らせつつ、ねじを巻いて蓋を開いた。


 雑貨店で聴いたときと同じ華やかな音色が部屋を包み込む。うっとり目を閉じ、そして次に開けたときには──。


「こんにちは、お姉さん!」


 茶褐色の緩く波打つ髪に、大きな空色の瞳の見知らぬ美少年が、オルゴールを持ってにこにこと挨拶をしてきた。


 ♦ ♦ ♦


「よ、妖精ですって……?」

「うん、妖精だよ! セシルって呼んでね」


 自称・妖精のやたら元気な少年に対し、花梨は当然戸惑いを隠せない。アパートの部屋に帰ってきたときは他人の気配はなく、ドアの鍵は閉めたはずで、窓も開けていなかった。つまり完全な密室で、この少年は煙のように出現したことになる。


「ええと、あなた……どこから入ってきたの?」

「オルゴールの中から。僕はオルゴールの妖精なんだ」


 少年は無邪気な笑顔を見せた。その表情は少年特有のあどけないものだった。


 花梨はすっかり混乱してしまった。状況整理に努めるが、やはり今何が起こっているのか把握できない。

 それも道理であることだった。アパートの密室にいつの間にか少年が現れ、自分のことを「妖精だ」と名乗っているのだから。


 この少年はどうしたらいいだろう。だが、花梨がどう頭を捻っても、答えなど出るはずもない。ただ、目の前に不審な少年が座っているのは事実である。


 彼女の頭の中に「警察を呼ぼう」との考えも浮かんでくる。しかし、その案は敢えて棄却した。

 少年の姿かたちがオルゴールに彫ってある妖精そのもののようにも見えて、通報するのが躊躇われたからだ。


 花梨が訝しげな視線を少年に向けると、彼はにっこり微笑んだ。人の好さそうな可愛らしい笑顔と、楽しそうな色を浮かべた瞳に、うっかり見入ってしまう。


「僕のことを疑うなら、オーナーに確認してよ」

「オーナー……。雑貨屋さんの、オーナーさん?」

「そうそう。包装紙に電話番号書いてあるから」


 仕方なく、花梨は少年の言うことに従うことにした。言われるまま包装紙を確認して、スマホを操作する。少年が愛らしく笑いかけてくると、なぜだかそうするのが一番正しいように感じたからだ。

 数回の呼び出し音ののち、そんなに待つことなく、聞き覚えのある声が聞こえてきた。


『毎度ありがとうございます。雑貨店「星の家」です』


 包装紙には店名──「星の家」とも書かれていたから、間違いはないだろう。電話に出たのは、恐らくあの金髪のオーナーのはずである。


「もしもし、あの、さっきオルゴールをいただいた者ですが……」

『ああ、先ほどのお嬢さん。どうなさいました?』

「えっと……」


 なんと訊いていいものやら、詰まりながら少年のことを問う。電話の向こうで、オーナーは小さく苦笑しているようだった。


『そうですか、見立て通りセシルが現れましたか』

「見立て通り……? どういうことです?」

『本人が言いませんでしたか? オルゴールの妖精だと。気に入った人物の前に姿を現すことがあるんですよ。悪戯っ子のようにね』

「はあ……」


 花梨は曖昧な相槌を打つことしかできなかった。実際に妖精がいるなど、狐にでも化かされている気分である。


『お嬢さんの前には現れると思っていましたよ。私の見立て通りですね』


 オーナーは妖精のことを、さも当たり前のことのように話す。そして自称・妖精の少年が目の前に存在している以上、荒唐無稽な作り話と断じることもできなかった。完全な密室に少年が現れたのである。何かしらの理由で、花梨が納得せざるを得ないという、そんな現状だった。


「なんで……なんでオーナーさんは、妖精は私の前に現れると思ったんですか?」

『それは秘密です。でも手のかからない、聞き分けのいい子ですよ。よかったら話し相手になってあげてください』


 オーナーがそう口にすると、電話は切れてしまった。しばし呆然としたのち、どうしようかと花梨は思い悩む。雑貨店のオーナーの言葉を信じるならば、害のある存在ではないらしい。花梨は自称・妖精の少年ともう少し話すことにした。


「オーナーさんと話をしたけど……。あなた、本当に妖精、なのね?」

「そうだよ。でも、あなたとかって。他人行儀だなあ」


 少年は口を尖らせて不満を漏らした。


「えっと……セシル、って言ってたっけ」

「そうそう」


 一転、人懐こく笑う様子からは、邪気は感じられない。それに、彼の服装。上下ともに翡翠色鮮やかな衣服。シャツにもズボンにも、至るところに柔らかそうな羽飾りが付いている。これが人間の衣服だといえば違和感があるが、妖精の服だとすれば合点がいく。まるで、ファンタジーの本に出てくる妖精の衣装そのものだからである。


「お姉さんの名前は?」


 セシルに訊かれて、まだ名乗っていなかったことに気づいた。うっかりしていたのは、彼の様子を観察していたからだった。


「私は水落花梨。花梨って呼んでくれても構わないから」

「わかった。カリンって呼ぶよ」


 自分で言い出したことながら、見るからに年下のセシルに呼び捨てにされることは少々気恥ずかしかった。そういえば、彼は何歳なのだろう。


「セシルはいくつ?」

「僕の歳? う~ん、そうだなあ。オルゴールの製造年が十五年前だから、十五歳なのかな?」

「十五歳なの。もう少し下かと思ったけれど」


 花梨の目には、セシルは十二、三歳に映った。見かけによらないのは、妖精であるからだろうか。花梨自身年齢不詳に見られるのだが、最近二十二歳になったばかりなので、セシルとは七歳差ということになる。


「カリンはここに一人で住んでいるの?」

「うん、そうよ。実家は田舎にあって……今、通っている施設とは遠いから」

「通っている施設?」


 質問を重ねられ、花梨は返答に迷う。自身のことを話すのは、たとえ相手が妖精であっても、いささか抵抗があった。


「久しぶりに外の世界に出たからかな? なんだか喉が渇いてきちゃったよ」


 セシルがそう口にする。事情をどう答えていいか考え込んでいた花梨は、話題が変わり、幾分ほっとした。


「あ。それじゃ、飲み物を作ってくるね。紅茶でいいかな?」

「うん、カリンに任せるよ」


 それを聞いて花梨は立ち上がり、キッチンに行ってお湯を沸かし始めた。

 ややして、お湯が沸く。ティーポットに、英国王室御用達の茶葉を入れ、そこに少し冷ましたお湯を注いだ。ティーポットの中で、茶葉がくるくる舞っている。


 紅茶といえば、洋菓子である。買い置きしていたケーキが二つ冷蔵庫の中にあったのを思い出して、花梨はそれを取り出し、お盆の上に置いた。

 まずはケーキを部屋に持っていき、その後で二つのカップとティーポットを持ってきた。


「はい、どうぞ」


 花梨はセシルの前に紅茶を差し出す。セシルは招かれざる客ではあるのだが、それでもおもてなしの心は人として重要であり、何より彼女自身、誰かにお茶をご馳走したかった。

 こうして誰かとしゃべり、自慢の紅茶を淹れてみたかった。

 花梨は料理とお茶を淹れるのが得意だった。両親にもよくお茶を振る舞ったものである。しかし、中学生のときに起きたあの事件以来、彼女は塞ぎ込み、客どころか、両親にもお茶を淹れることはなくなっていた。


「どうかな、セシル? お口に合う?」

「うわっ! これ、美味しい。美味しいよ、カリン!」


 セシルは目を丸くしてから、はしゃいで喜んだ。

 こうしたわかりやすい言動をするところなどは、いかにも少年らしく、花梨の目には好ましく写った。


「ねえ、セシル。あなたはどこで産まれたの?」

「スイス。スイスの職人さんが、僕のお父さんみたいな人なんだ」

「へえ。じゃあ、オルゴールはスイスで作られたんだね」

「そうだよー」


 セシルは生い立ちを話しつつ、右手でティーカップを傾けた。彼がカップを置くと、中身は空になっていたので、花梨はティーポットからおかわりの紅茶を注ぐ。


「あ、どうもありがとう」

「いいえ、どういたしまして」


 花梨は美味しそうに飲んでもらったことが嬉しく、軽く口の端を上げた。


「ねえ、カリン。あのさ」

「どうしたの、セシル?」

「なんで部屋の中で色の濃い眼鏡なんかしているの? おかしいよ、ソレ」


 指摘され、花梨は身体を強ばらせた。

 見ず知らずの少年──いや、妖精がいるのに、サングラスを外すのは躊躇われてしまう。


「どうして色眼鏡なんかで顔を隠しているのさ?」

「ええ、と……それはその……」


 花梨はしどろもどろになり、困惑する。彼は単純に疑問を述べただけであり、平静そのものだった。そこに悪意というものは一切見当たらない。ただ、あどけないながらも整った顔がそこにあるだけである。


(この子の前だけなら、素顔になってもいいような気がする……)

 花梨はそのように思った。この妖精になら、素顔の自分を見せてもいいように思えた。


 幾分か迷った後、花梨は思い切ってサングラスを外した。自分の容姿に大いにコンプレックスのある彼女には、とても勇気のいる行動だった。

 黒目がちの大きな瞳を瞬かせ、上目遣いでセシルの反応を窺うが、彼は特に何か重要なことが起こった風でもなく、ただ頷いていた。


「やっぱり、部屋の中では色眼鏡なんか取っちゃったほうがいいんだよ。そのほうが見えやすいでしょ?」


 セシルは満足したように、花梨に同意を求めてきた。


 花梨は、その台詞にほっと胸を撫で下ろした。自分の顔がコンプレックスであるあまり、特にそれを指摘されなかったことは、ひどく安堵する気持ちをもたらしていた。


(妖精だからかな、私の顔なんかに興味がないみたい……)

 花梨はセシルを見つめた末に、恐る恐る自らの顔を指し示してみた。


「ちょっとだけ訊きたいんだけど。セシル、私の顔をどう思う?」

「え、顔? ん~と、ごめん。人間の顔の善し悪しには詳しくないんだ」


 花梨の思った通り、妖精は人間の外見にさほど頓着しないようだった。


「そう、よかった。あのね……」


 セシルの感想に安心し、花梨は今までの自分の身の上を素直に語ることにした。


 なぜだかそうしたくなったのだ。この妖精は花梨のコンプレックスである美貌の顔のことに関心がないようだし、何よりも純粋な瞳で見つめ返してくる。

 それは風がなく、凪いでいるときの湖面のようだった。空色に吸い込まれそうになってしまう錯覚に陥る。透明度が高く、一点の曇りもない。生まれたての赤子のように感じられる瞳だった。


 このような純真で、美しい目をした人──いや、妖精が悪しき感情を持っているはずはないだろうと花梨は確信した。

 その上で、彼女は空を切り取った色の瞳の妖精に、自分の境遇を明かすことにした。苦しい胸の内に募る、辛い過去の経験を誰かに聞いて欲しかったのだ。泥のように詰まった心情を吐露したかったのである。


 そうして、花梨は己の身に起きた陰惨な出来事を、目の前にいる少年に向かって話し始めた。

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