九歳 冬


 九歳 冬




「ひどい・・・・・・」


 あずさはミロクを握り締めて呟いた。


 山に薄く雪が積もり始めていた。まだ冬本番ではないが。山の気候は時に常識はずれた。祖母は山の神様は気まぐれなんだよ。と言っていた。ひらひらと雪が舞い落ちる山道。「いつ、本格的な雪がきてもおかしくない。今年の猟は、これで最後かもしれないね」そう祖母が言ったそんな日だ。


 一匹の牝鹿が罠にはまっていた。


 前足を二枚の半円形のプレートで挟まれている。プレートには鋼鉄製の鋭い歯が無数にあって、鹿の前足の食い込んでいた。まるで鋼鉄の化け物に噛みつかれたようだ。鹿は相当暴れたのだろう。辺りの白い雪には血が飛び散り、力つきたのか鹿はぐったりと身体を落としていた。


「トラバサミだよ」


 隣の祖母が憎々しげに言った。


「見ての通り残酷だからね。多くの地域で使用が禁止されてる。うちだってそうだ」


 祖母は辺りを見回した。


「この山奥だったら気づかれないと思ったんだろうね。猟師の中にはそういうやつもいるさ」


 祖母はあずさに視線を送った。


 ぽいっと弾丸をあずさに放る。あずさは慌ててキャッチした。


「あずさ。楽にしてやりな」


 あずさは手慣れた動作で銃身を折り、弾を込めた。銃身を戻すと鹿に向けて構える。


 鹿と目が合った。


 震えていた。


 痛みのためか、寒さのためか。恐怖のためか。


 痛かっただろうなあ。怖かっただろうなあ。


 寒いよね。辛いよね。家に帰りたいよね。


 山を歩いていたらこんなのを踏んじゃって。動けなくなって。痛いのを我慢しながら必死に暴れて。それでも外れなくて。誰にも助けてもらえなくて。


 最後は私に殺されるんだ。


 あずさの目から一粒の涙がこぼれ落ちた。


 あずさは、銃口を下げた。


「・・・・・・いやだ」


 祖母は「あずさ」とだけ言った。


「いつも言ってるだろ。目をそらしちゃいけないんだ。誰かがやらなくちゃならないんだよ」


 わかってる。わかってる。


「いやだ」


「あずさ。目をそらしちゃ・・・・・・」


 わかってる。わかってる。わかってる。


「いやだいやだいやだいやだいやだ!」


 もういやだ!


 あずさはミロクの銃身を折り、弾丸を取り出して地面に放った。空になったミロクを地面に叩き付ける。


「あずさ!」


 あずさは泣いた。手袋をはめた両手で、顔を何度も拭いながら唸るような泣き声を漏らした。


 あずさは肉を食べる。牛も豚も鳥も。鹿も。時には猪や蛇だって。それはどう言いつくろったって殺すと言うことだ。生きることは殺す事だ。それはもうあずさにはわかっていた。


 でも、だからって。


 あずさはぼやけた視界で牝鹿を見つめた。


 こんなかわいそうな鹿を殺すのが、平気なわけないじゃないか。こんな残酷な罠で、面白半分のように捕らえられた鹿を。


 殺したいわけ、ないじゃないか。


 泣きじゃくるあずさを祖母はじっと見つめていた。何を思ったのかはわからない。やがて祖母はゆっくり頷くと、あずさの肩に手を置いた。


「あずさ。コテツを見ていておくれ。雪と獲物で興奮してる。リードを木に巻き付けるんだ」


 そう言ってあずさに猟犬コテツのリードを渡した。


 あずさはしゃくり上げながら頷いた。コテツを引っ張り、言われたとおり、近くの木の幹にリードを巻き付ける。


 見ると、別にコテツは興奮している様子は無かった。鹿の前なので多少緊張はしているが、されるがまま大人しくあずさに従う。きっと祖母があずさの気をそらそうとしてくれたのだろう。


 祖母はその様子を確認すると、ウィンチェスターに弾を込めた。銃の右側面にある開口部から一発一発押し込む。一発。二発。


 祖母がとどめを刺すのだろう。祖母は銃を構えて鹿に近づいた。持ち手のレバーをガチャリと動かし、一発目の弾を薬室に送り込む。


「おばあちゃん。ごめんなさい」


 その背中に、あずさは呟いた。


 祖母が振り向き、ふっと笑った。


 その時だった。


 うずくまっていた牝鹿が突如立ち上がった。そのまま祖母にお尻を向けたかと思うと、恐ろしい勢いで足を繰り出した。目にもとまらぬスピードで後ろ足が祖母を蹴ったのだ。


 パキッ


 小枝が折れるような音がして、祖母の左手があらぬ方向に曲がった。祖母が後ろに倒れ込む。反動で引き金を引いてしまったのか、ウィンチェスターが銃声を鳴らした。その弾は近くの木に当たって木片が弾けた。


「おばあちゃん!」


 祖母はうなり声を上げながら地面で悶絶する。


 ベチッ


 いやな音がした。振り向くと、牝鹿がこちらを向いていた。とっさに鹿の前足を見る。肉がえぐれ、骨がむき出しになり、蹄が削り落ちていた。無理やりトラバサミを外したのか。


 そんな足で、それでも鹿は立っていた。


 逃げるつもりはない。その立ち姿からあずさはそれを悟った。逃げ切れないとそう判断したのか、鹿の中の野性の何かが目覚めたのか、あずさにはわからなかったが、一つだけ読み取れた感情があった。


 殺意。


 鹿はあずさを殺すつもりだった。敵として。


 突っ込んでくる。


 コテツが吠えた。あずさを守ろうと鹿に突進しようとする。しかし、リードが首を締め付けて一定以上前に出る事ができない。あずさがリードを木に結んだから。


 あずさはとっさに地面を走った。先ほど自分が地面の捨てたミロクに飛びつく。上下二連式散弾銃。しかし、地面に放った弾丸が見つからない。


 鹿がうなり声を上げた。来る。


 ようやく見つけた弾丸を握りしめてあずさが振り返ったのと、鹿が飛び上がったのはほぼ同時だった。


「あずさ!」


 その背後に祖母が立ち上がっていた。


 右手にはウィンチェスターライフル。しかし、撃てないことがあずさにはわかった。


 次の弾を薬室に送れないのだ。両手を使わなければレバーアクションが出来ない。右手でレバーを開く際は左手で支えなければならないのだから。そして祖母の左腕は折れていた。片手では、無理だ。


 しかし、それを祖母はやった。


 右手に持った銃を前方に振り出し、反動を利用して銃全体をくるりと一回転させた。その際、レバーに右手をかけておくことで、回転の勢いでガチャリとレバーが開かれ、一発目の薬莢が飛び出し、次弾が装弾される。


 飛びかかってくる鹿。背後で美しく一回転するライフル。


 その光景の全てが、幼いあずさの脳裏に焼き付いた。


 ダアン!


 鳴り響く銃声とともに、正確に心臓を撃ち抜かれた鹿があずさの目前で横倒れになった。ずざざざざあと白い霧をまきおこしながら、あずさのすぐ隣にその身体がすべってくる。


 鹿の黒い宝石のような目と、あずさの目が一瞬、見つめ合った。


 はあっと鹿が最後の吐息を漏らし、その瞳が光を失った。




「おばあちゃん。おばあちゃん!」


 祖母がその場に崩れ落ちた。あずさは這うようにして祖母の元に行き、べそをかきながらその顔をのぞき込む。


「あずさ。怪我はないかい」


 あずさは頷く。祖母の皺だらけの顔にあずさのこぼした涙がポタポタと落ちた。


「泣くんじゃないよ。あずさ」


 あずさの頬を祖母の右手が撫でた。


「あずさ。今日のことを忘れるんじゃないよ」


 祖母はそう言って微笑んだ。あずさは口をへの字に曲げた。


「・・・・・・私がとどめを、刺さなかったから、おばあちゃんが怪我したこと?」


 祖母は一瞬きょとんとして、すぐに豪快に笑った。


「そんなもん、関係あるか。ばあちゃんが油断してたから怪我をした。それだけさ」


 祖母はあずさの頭をがしがしと撫でた。


「鹿だよ。あの牝鹿の方だ」


 鹿? あずさは首を傾げた。


「あの鹿がどうしたの?」


「見事だったろう。あずさとの最後の狩りで、こんないいものを見せてあげれるとは。鹿が、山が、見せてくださるとは思わなかった。もう、思い残すことはないね」


 祖母はそう言って微笑んだ。これまでに見たことがないほど、穏やかな笑顔だった。


 あずさは祖母の言いたいことがよくわからなかった。


 あずさは駄々をこねたから祖母は怪我をしたし、かわいそうな鹿は結局死んでしまったし、散々だ。それに、なんで「最後」なんて言うんだろう。今年は確かに怪我をしてしまったし、雪も降り始めてしまったから無理かもしれないけれど、来年も再来年もあるではないか。


「あずさ」


 祖母は微笑みを湛えたままに言った。


「結局、本物を見せてあげれなかったけどね。いい木なんだよ。梓は」


 祖母は空を見上げた。まるでそこにそびえ立つ梓の木が見えるとでも言うように。


「梓の木はね、粘り強いんだよ。折ろうとしてもなかなか折れない。そんな木だ。お前もそんな人間になりな」


 やっぱりよくわからない。今日のおばあちゃんは変だ。


 あずさはそう思いながらも頷いた。祖母はまた笑ってあずさの頭をがしがしとやった。


 それが、あずさの見た最後の祖母の笑顔となった。




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