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「三島先輩・・・・・・」


「大丈夫だ。黙ってろあずさ」


 三島はあずさの肩をはだけさせ、包帯をゆっくりと外していった。あずさの肩甲骨の側に開いた穴から血がドクドクと流れ出る。


「三島先輩・・・・・・先輩。先輩」


「大丈夫だって。言わなくていい」


 あずさは三島のチェック柄のシャツを掴んだ。自分の口がへの時に曲がるのがわかる。涙が頬を伝うのがわかる。


「三島先輩・・・・・・ごめんなさい」


 あずさは謝った。三島の胸に頭を押しつけるようにして、嗚咽しながら謝罪の言葉を繰り返した。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


「謝るな。お前は悪くないよ」


「だって。だって、先輩・・・・・・先輩は私のせいで・・・・・・」


 あの事件で、あの、ファミレスで高校一年生の神城あずさが他校の二年生、三ツ矢葉月の左目を潰したあの事件で、二年生の三島明は高校を退学になった。


 他校の生徒と殴り合いのケンカをし、その結果、他校の女子生徒が片目を失明する重症を負った。あの日の出来事を一文で表わすとそうなった。そうならざるを終えなかった。


 幸運だったことの一つは、あのファミレスに居合わせていたあずさの学校とも関係の葉月の学校とも関係の無い学生の一人が、騒動の一部始終をスマホで録画していたことだ。そのおかげで、大人たちはことのあらましを極めて客観的に分析することが出来た。


 個人戦で負けた葉月が悔しさのあまり後輩に絡み、挑発する。それに言い返したあずさを葉月の彼氏が押し倒す。後輩が暴力を振るわれたことに激高した三島が周りの男子生徒と殴り合いを始める。身の危険を感じたあずさが偶然手に持っていた弓を振り回し、それが不運にも近くにいた葉月の目に接触し、失明に至る。


 誰かが決定的に悪い訳では無い。挑発を始めたのは葉月だし、先に暴力をふるったのは葉月の彼氏で、それを殴ってしまったのが三島で、わざとではないにしても前途多望な少女の片目を潰したのがあずさだ。誰かを決定的に断じられる事件ではない。事故であった。不幸で、不運で、ただやるせないだけの。


 三島は暴力事件を起したとして、退学処分となった。どうしようもなかった。その代わりと言うように、あずさは数ヶ月の停学処分で許されることとなった。ある意味、三島があずさの分まで罪を背負ってくれたと言っても間違いではないだろう。


 葉月と葉月の彼氏と、三島を痛めつけた部員たちにどのような処分が下ったのかはあずさは知らない。それどころでは無かった。


 刑事事件とはならなかったものの、神城あずさには三ツ矢葉月へ賠償金を払う責務が課せられた。別に裁判を行ったわけではなく、示談のようなものだった。あずさは明らかにわざとではなかったし、葉月自身の非も大いにあった訳なので、葉月のご両親の要求も法外なものでは決してなかった。むしろ、相手の片目を失明させたと考えると、破格の額であったと言ってもいい。


 だが、それでも、あずさに支払えるはずがなかった。


 支払い義務はあずさの名義上の親、あずさを毛嫌いする義理の家族に課せられた。


 地獄だった。


 あずさは葉月にではなく、義理の家族に対して一生分の土下座をさせられた。髪を掴まれ、鼓膜が破れるほどの大声で怒鳴りつけられた。


 賠償金を支払った彼らはその日のうちにあずさの数少ない持ち物の全てを二束三文で売り払った。必死にバイト代で工面して買った中古の矢も、香織に譲ってもらった袴と道着も、三島と香織にもらった弓も、全部ただみたいな値段で売り払われてしまった。そして残り賠償金はあずさが一生かけて返済する約束を書面まで書かされて取り付けられた。彼らは貧しいわけではなく、むしろ裕福な家だったので、そこまでする必要は全くなかっただろうし、なんなら支払った賠償金など彼らにとってはさほどの額ではなかったはずだが、そんなことは関係なかったのだろう。彼らはあずさのことが嫌いだったのだ。それだけだ。


 不運だったことは、事件の一部始終の動画がSNSで拡散されたことだ。弓道界のアイドルを打ち負かした新人がその日のうちにアイドルの片目を潰したのだ。それはもう話題を集めた。動画は好きなように編集され、ねじ曲げられ、ばらまかれた。コメント欄には数多の有象無象が、弓道に何の興味も無い人間までもが、好き勝手な意見や感想を140字に詰め込んで嬉々として投稿した。


 あずさの名義上の親の実の娘、彼らの中学2年生の愛娘が、クラスでそのことでいじめられたと泣いて帰ってきた日には、激怒した父親にあずさは今思い出しても引くほどに服の下を殴りつけられ、ぼろ雑巾のようになるまで蹴りつけられた。


 中学生の娘が小学校まで使っていた子ども用のスマホは、あずさの目の前で踏み潰されたので、あずさは三島や香織と連絡を取ることも出来なかった。二人もあずさに会いに来ることはなかった。きっと彼らもそれどころではなかっただろうし、仮に出会えたとしても二人と正常な会話が出来る精神状態ではあずさはなかった。


 あずさは自分を責めた。


 なんであのとき、自分は言い返したんだろう。


 なんであのとき、自分はやり返そうなんて思ったんだろう。


 いつも通り、へらへら笑って、謝って、その場をやり過ごせばよかったのに。


 そうすれば、そうしておけば、また、三人で・・・・・・


 あずさがやり返そうなんて思ったから、三島は退学になった。世間知らずだし、空気の読めない人ではあったけど、勉学ではとても優秀な人だったらしい。ご両親もさぞ期待を寄せていただろう。それが、高校中退だなんて。人生を閉ざされてしまうなんて。


 香織先輩だって、衣装を左右する大学受験の一番大詰めの時だったのだ。そんな時に、恋人がこんなことになって、影響を受けないはずがない。


 なんなら葉月だって。三ツ矢葉月だって。ぽっと出の後輩に地位を奪われて、口惜しさのあまり突っかかってきただけだ。家が裕福で、端から見れば恵まれた人だったけれども、でも、きっと、弓道界のアイドルと言われるようになるまでには血の滲むような努力があったはずだ。だからなおさら悔しくてならなかったはずだ。嫌味の一つも言いたくなったはずだ。彼女もただの高校2年生だったのだから。目を潰されるほどのことではなかったはずなのだ。




 全部、わたしのせいだ。




 ちょっと得意なことが見つかって。ちょっと先輩たちにやさしくしてもらって。ちょっと努力した気になって。調子に乗って。自分も輝けるんじゃないかなんて勘違いして。


 私が、全部、みんなを、無茶苦茶にしたんだ。




「ごめんなさい。ごべんなさいいいい」


 あずさは三島の胸に抱きついた。三島と別れて、6年の月日が経過していた。その間、ひたすら胸中で繰り返し、そのまま一度も言えなかった言葉をあずさは泣きじゃくりながら繰り返した。


「私のせいで。わだしのせいでええええ」


 高校中退の三島がどんな人生を送ったのかはわからない。ネット上にはあずさと三島の関係についての下卑た憶測ももっともらしく巻き散らかされていた。あずさと同様、素性を詮索されれば過去の事件のことはいくらでも出てきてしまう。まともな就職は難しかっただろう。


 起業し、失敗し、失踪した。そう聞いた。そして、「今から死にます」と書いた登山カード。


 全部、全部、全部、私のせいだ。


「違う。お前のせいじゃない」


 三島はただ、静かにそう言った。あずさを抱きしめる訳でもなく、四宮のように頭を撫でるわけでもなく、かといって、突き放す訳でもなかった。ただ、言った。


「あずさのせいじゃない」


 あずさは三島の胸に額をこすりつけるようにぶんぶんと首を横に振った。


「でも、でも」


「あずさは、あの日、戦ったんだ」


 あずさはぴたりと動きを止めた。恐る恐る顔を上げる。


 三島は微笑んだ。あずさの知らないすっかり大人の顔つきになった笑みだった。


 6年、経ったのだ。


「あの日、あずさは三ツ矢とか言う女に俺らが贈った弓を馬鹿にされた。いつもはあんだけコケにされてもにらみ返すことすらしなかったお前が初めて怒った。びびったよ、俺は。嬉しかったよ、俺は。なんだ。こいつ、戦えるんじゃんってそう思った」


 あずさは三島の胸から少しだけ離れて、三島の顔を見つめた。三島はどこか懐かしそうな顔であずさの背後あたりを見ていた。


「そのあと、俺が袋だたきにされてるときに、お前は弓を振り回した。俺を助けようとしたんだろ。ありがとうな」


 あずさは下唇を噛んだ。その結果・・・。


 三島はあずさの考えを読んだかのように続けた。


「その結果、起こったことが正しかったかはわからない。あずさと、それから俺の戦い方がそもそも正しかったのかもわからない。勝敗がついたかなんてこともわかるわけがない。でもな」


 三島はあずさの両肩を握った。怪我を気遣ってくれたのだろう。とても優しい仕草だった。


 でも力強かった。


「お前は戦った。そのことだけは間違ってなかった。絶対にそうだ」


 三島は頷いた。あずさの目を見つめながら。


「自分の存在を、誰かの尊厳を守るための戦いが間違っているはずがない。やり方を反省することはあるだろう。結果として、現状が悪化することもあるかもしれない。でもな、戦わなければよかったなんてことは絶対にないんだ」


 三島の目には何の迷いも無かった。まっすぐな瞳だった。あずさが正論モードと小馬鹿にしていたあの目。正しいことを正しいと信じて正しいと言える目。


「あずさ」


 三島はゆっくりと、あずさを引き寄せた。


 そして言った。言ってくれた。あの高校の日々。弓道場で何度も言ってくれた、どんなものよりあずさをつなぎ止めてくれた言葉を。ありきたりで、何の変哲も無い一言を。


「よく、がんばったな」


 あずさの口から再び嗚咽が漏れた。目にたまった涙がぼろぼろとこぼれ落ち、三島のシャツに染み込んでいく。 


 あずさは泣きじゃくった。まるで父を見つけた迷子の子どものように。母に掴まる赤ん坊のように。


 あずさは三島に抱きつき、声を上げて泣き続けた。








 三島は多くを語らなかった。


 あれからどんな人生をおくったのか。


 なぜ事業が失敗したのか。


 三島は語らなかったし、あずさも聞かなかった。


 ただ、一つだけ。


「三島先輩。なんで死のうとしたんですか」


 あずさは肩の傷を包帯で押さえながらそう聞いた。「登山カードを見ました」とも付け加えて。


「・・・・・・借金がえらい額になっちゃってな」


 あずさは三島の指示でステンレスの水筒に富士の水を入れ、焚き火の上で湧かしていた。ステンレスの水筒は三島の手持ちのリュックから出てきたものだ。


「俺、常に金欠だったんだけど、なんでか生命保険にだけは昔から入ってたんだ。まあ、両親が契約してくれてたんだよ。なにがあるかわからないからってな。どちらかというと怪我とか病気のときのサポートが手厚いタイプのやつだったんだけど。まあ、死んだときはそれなりの額が妻に支払われるわけよ」


「・・・・・・自殺でも、お金は出るんですか」


「自殺免責期間ってやつが数年あってな。それが過ぎれば大体は支払われる。そして俺の場合、その期間はとっくに過ぎてた」


 三島は自嘲するような笑みを浮かべた。


 きっとそれが、三島の選んだ戦い方だったのだろう。


 命を賭してでも、残された妻に少しでも金を残す。そういう戦い。


 戦うこと自体は間違っていない。でも。


「・・・・・・戦い方を、間違ってますね」


 パチリと焚き火が火の粉を上げた。


「そう、だったのかもな」


 三島は静かにそう呟いた。


「先輩は、奥さんと一緒に戦うべきだったと思います」


 自分のことを棚に上げて何を言ってるんだと我ながら思いながら、あずさはそう言った。


 きっと他に方法はあったはずだ。きっと、辛いものだろうけど。もしかしたら、命を絶つよりずっとしんどいものだったかもしれないけれど。


「そう、だったんだろうな」


 ステンレスの水筒の中の水が沸騰した。その熱湯の中に、あずさは三島の折りたたみナイフの刃を入れた。


「そのナイフも、首を吊る用の紐を切るために持ってきたんだ。森の目立つところで首を吊れば、すぐに登山客にでも見つけてもらえて、妻に保険金が下りるはずだった」


 だが、そうはいかなかった。


「サイコ野郎どもに追いかけ回されて、このざまだ。目的はわからないが、あいつらに殺される訳にはいかない。奴らに殺されて死体を埋められでもしたら、俺は自殺者じゃなくて失踪者になってしまう。そうなれば、保険金は下りない」


 三島は「だから、ここで死ぬわけにはいかないんだ」とそう言った。


 あずさは彼の手足を見た。血の滲んだ左腕と右の太もも。どう見てもあずさより重症だ。


「本当に?」


 あずさは気がつくと呟いていた。


「本当にただそれだけの理由で、今まで生き残ってきたんですか。こんなところで。一人で」


 ただ、お金のためだけに?


 三島は答えなかった。


 あずさは無言で、煮沸消毒が済んだナイフを取り出す。


「あずさ。包帯をどけろ」


 あずさは包帯を傷口から離し、ナイフの代わりに熱湯に落とし入れる。


「いいか。鎖骨の上に弾が一発、残ってる。それをお前は今からえぐり出さなきゃ行けない」


「・・・・・・先輩。やってくれませんか?」


「ダメだ。俺じゃ痛みとかがわからないし、そもそもこれはあずさ自身がやるのに意味があるんだ」


 痛みの話はともかく、自分自身でしなければならないと言うのはいまいちよくわからなかった。よくわからないこだわり。三島らしいといえば三島らしい。それにいつも付き合わされるのがあずさだ。


 あずさは木の枝をハンカチでくるんだものを口にくわえた。


 右手にナイフを持ち、左手でコンパクトを掲げて傷口を見る。三島があずさの後ろに回り込み、その両手に自分の両手を添えた。


「がんばれ。あずさ」


 あずさは枝を咥えた口で深呼吸をする。心臓がバクバクと音を立てていた。


 くそう。なんで私がこんな目に。


 あずさは傷口に一気に刃を突き立てた。ただでさえダラダラ流れていた血が吹き出る。


 痛い。


 想像した鋭い痛みでは無かった。まるで感覚が麻痺して鈍くなっているようだった。激痛は一定以上になるとリミットを超えて逆に痛覚が無くなるのかと思った。


 だが、痛くないわけでは到底なかった。


「もっと奥だ。差し込め」


 簡単に言うなよこの野郎。


 あずさは犬の様なうなり声を上げながら、ぐりぐりとナイフの刃で傷口をえぐった。


 痛い痛い痛い痛い。


「うううううう」


 激痛で涙が目にたまり、表面張力を超えて流れ落ちる。コンパクトの鏡なんて見れたものではなかった。ただがむしゃらに刃を動かす。手を離したかった。やめたかった。だが、ここで手を止めたら一生、再開はできない。その確信があった。


「もっと奥だ。もっと・・・・・・そこだ!」


 カチリとナイフの先端が何か固い物に当たった。


 これだ。


 あずさはその物体をえぐり出すためにナイフをずっと自らの肉に押し込んだ。


「うううううううううううう・・・・・・ああ!」


 微かな手応えを信じて抜きとった先端に奇跡的に引っかかった金属片が血しぶきとともに地面に転がった。


「取れた! 取れたぞあずさ!」


 あずさはがくりとくずれ落ちる。


 金属片を見る。まるで綿棒の先ほどしかない小さな鉄の塊だった。こんなに小さかったのか。


 枝を口から吐き出そうとするあずさに三島は「まだだ!」と叫んだ。


 あずさは背後の三島を涙目で睨み付けながら、枝を咥え直した。


 沸騰する水筒の湯から木の枝を使って包帯を取り出す。そしてそれは焚き火の側の岩の上に置いた。すぐに冷えるだろう。


 あずさは右手に布を巻いた。三島のシャツの裾を切り取ったものだ。何重にも巻いて、即興のミトンを作る。


 あずさは水筒を掴んだ。中身を捨てる。


 そして、長時間熱せられた水筒の底を裏返して見る。ステンレスが青黒く変色している。大きく息を吸う。


 あずさは息を止めると同時に、その極限まで熱せられた水筒の底を左肩の傷口に押し当てた。


「うううううぐうう!」


 じゅーと肉を焼くような音が耳に張り付いた。実際、肉を焼いているのだ。あずさの嗅覚が生きていれば焼き肉の香りがしたに違いない。


「まだだ。もう少し押しつけろ」


 三島はあずさの右手に添えた手に力を入れた。あずさは振り返り、三島の目を見てふるふると首を横に振った。咥えた枝に巻かれたハンカチから唾液がしたたり、顎で涙と混ざり合った。限界だ。


「よし。いいぞ。離せ」


 あずさは水筒を放り投げて三島の胸に倒れ込んだ。咥えていた枝とハンカチを吐き出し、わんわんと泣く。


 その頭を三島が「がんばった。がんばったな」と撫でる。


 二度と森なんか来るものか。二度と山なんかに登るものか。そう思った。




 三島に手伝ってもらいながら、あずさは冷やした包帯を肩に巻き直した。焼灼止血法により、傷口は強制的に塞がった。とはいえ、あくまで応急措置だ。もって数日。それまでに病院でしかるべき処置をしないと。つまり、私は数日以内にこの森を脱しなければいけない。


 あずさは三島の膝の上で呆然と石室の天井を眺めた。そして、おもむろに呟いた。


「三島先輩」


「ん?」


 あずさは言った。ゆっくり、言葉を切るようにして。


「一緒に、森を、出ましょう」


 三島は数瞬黙った。


「あずさ。俺は」


「一緒に、行くん、です」


 一緒に行きましょう。先輩。


「そして、奥さんの、ところに、戻りましょう」


 あの三島先輩が死を選択肢に入れ、それを選んだぐらいだ。相当現状は厳しいのだろう。でも。それでもだ。


 知り合いが一方的に送りつけてきたメッセージを思い出す。


『奥さん、必死に探し回ってるらしいよ』


「先輩は、奥さんの所に、帰って、謝らなくちゃいけません」


 あずさはすうっと息を吸った。三島の決意を否定するつもりはない。大して知りもしない家庭の事情に首を突っ込んでいいと思っているわけでもない。


 だが、自分が言わなければいけないと思った。


 きっと他に誰も言えないから。


 ずっと逃げ続けてきた。ずっと、下を向いて、自分の人生から逃げ続けてきた。そんな自分が言わなければいけないと思った。そのことに気づかせてくれた先輩に、自分こそが言わなければいけないと思った。


「逃げてごめんなさいって。奥さんに謝るんです」


 三島が息を飲んだ。


 そして、今度こそ、奥さんと一緒に戦うんです。支え合いながら。同じ方向を見ながら。その相手がなになのか、あずさにはわからないけれど。


 それが本当の戦いだと思うから。


 三島の頬をつーと一筋の涙が伝った。


「そうだな」


 しかしそれは一瞬で、すぐに三島は頬を拭ってしまった。


「そうかもしれないな」


 そうですとも。


 きっとね。


「では、私と一緒に協力して、森を出ましょう。先輩」


 6年ぶりの先輩後輩コンビだ。


「あずさ。でも、俺は・・・・・・」


 まだ四の五の言うのか。うじうじと。男らしくないなあ。


 あずさは大仰なため息をつくとポケットをまさぐった。


 一枚のコインを取り出し、自慢げに見せつける。銀のコインが焚き火の光で金色に光った。


「お前、まだそれ持って・・・・・・」


「表が出たら、一緒にここを脱出します。そして奥さんの所に戻ってください」


「ちょっと待て。それは」と狼狽する三島を無視してあずさは続けた。


「裏が出たら、どうぞ好きなだけここに籠もり続けてください。いいですね。ではいきますよ。せーの!」


 あずさはコインを親指の爪の上にのせ、パチンと弾いた。コインはヒュンヒュンと小気味のいい音を立てて天井ギリギリまで打ち上がり、回転しながら落下してきた。あずさの腹部のカッターシャツの生地の上にポンと落下する。


 あずさはそれを見もせずに、上を向いたままにやりと笑った。


「ね? 表でしょ」


 三島は呆然としていたが、やがて、ふっと困ったように笑った。


「ああ。表だ」


 あずさは三島の膝の上でふーと息を吐いた。


「先輩」


「おう」


「一緒に行きますよ。一緒に脱出して、二人で戻るんです」


 三島はあずさの顔をのぞき込みながら「ああ」と頷いた。


「約束です」


「わかった。約束だ」


 そう言った三島は泣きわらいのような表情を浮かべていた。


 どうしたんだろう。


 あずさは少しいぶかしんだが、そこで急激な睡魔に襲われた。


「先輩。すいません。ちょっと・・・・・・寝ます」


「ああ。そうしろ」


 あずさはまぶたを閉じた。すうっと水に沈むように意識が遠のいていく。


「あずさ」


 三島の声が遠くに聞こえる。


「がんばれ」


 


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