十六歳 春


 十六歳 春


 スパンと白い的に吸い込まれていく矢に、高校一年生のあずさは息を飲んだ。

弓道場の奥にある丸い的のちょうどど真ん中に一本の矢が突き刺さっている。あの矢はつい一瞬前まで二十メートル以上離れたところにあったのに。そう考えるとあずさは思わず拍手をしそうになった。でも、道場の後ろに並んでいる部員が表情一つ変えないのを見て、ああ、そういうものではないのかと慌てて手を引っ込めた。

 弓道部の部活見学には、あずさも含めて十数人の高校一年生が集まっていた。フェンスがてらに植えられた垣根越しに弓道場を見学する。単身でのぞきに来たあずさと違い、他の生徒は友人と連れたってきている子が多いらしく、「すごい当たった」「結構離れてるよね? 二十メートルぐらい?」「やっぱ道着かっこいいな」とそんなことを小声でささやき合っていた。

 一発目を見事に的に命中させた男の先輩は、ゆったりとした動作で後ろに下がっていった。その落ち着いた動作、そしてピンと伸びた背筋が直線的な道着のシルエットと相まってあずさにはこの上なく美しく映った。

 次の先輩が出てきた。女の先輩だった。すり足で出てきて、弓を構える。足を肩幅に広げ、弓の弦に矢をつがえ、額の少し上辺りまで両手を挙げるとゆっくりと弦を引っ張り構えた。その姿勢で数秒止まったかと思うと、カシャンという音ともに矢が弓を離れた。あっと思う間もなく、矢は道場の奥に飛んでいった。先ほどよりも少しだけ鈍い音で到達した矢は、的の数センチ下の壁に突き刺さっていた。

「あ、はずれた」「やっぱむずかしいんだ」

 同級生がまたこそこそと感想を友人と共有する。それを耳で拾いながらもあずさは弓道場から目を離せずにいた。

 かっこいい。

 部員達は交代しながら次々と矢を放った。横並びになって数人で同時に撃つこともあった。その姿をあずさはじっと眺めた。それに比べ、他の見学者は5分もたつとあからさまに退屈し始めたようだった。「やっぱ地味だね」「礼儀作法とか厳しいんだろうな」そんな会話が途切れ途切れ聞こえていたが、いつしか何も聞こえなくなった。

あずさが気づいた時には、あれだけいた見学者はあずさ一人になっていた。

 今はどの部活も見学期間で好きに覗いて良いことになっている。この高校はクラブがたくさんある。一つのクラブを長く見続けようとは皆、思わないのだろう。

 だが、あずさは自分だけになっても飽きることなく弓道場を見つめた。弓につがえられた矢が瞬間移動のように飛んでいく。速すぎて頭を振って目で追うことも出来ない。いつまででも見続けられると思った。

 いつしか西日が赤くなり、部員達が片付けを始めた。

もう矢は飛ばないのかと寂しく感じながらあずさもようやく弓道場に背を向けた。

「ねえ。君」

 横から急に声をかけられて、あずさの肩は跳ね上がった。

 慌てて振り返ると、道着を着た男子生徒が立っていた。その顔を見て、あ、1発目に的に命中させていた人だ、とあずさはすぐにわかった。緊張するあずさに彼はにっこりと笑いかける。

「弓道部、入るの?」

「え、あ・・・・・・」

 期待のまなざしを向けられ、あずさは口ごもった。

 今は全部活の見学期間で、来週からは体験期間に入る。新入生にとって自分の高校3年間を彩る部活動を決める大事な期間だ。それは同時に全てのクラブにとって新入部員を集める重要なタイミングでもある。そりゃあたった一人で日が暮れるまで活動を見つめ続ける生徒がいれば期待もするだろう。でも・・・・・・

 男子生徒の白の道着と黒の袴を見つめる。

 何円ぐらいするんだろう。

 あずさは祖母が亡くなって以降、遠縁の親戚の家に引き取られていた。正直、居心地はよくない。彼らはあずさのために出費をすることをあからさまに嫌がっている。高校入学の際には「食費と学費以外は一銭も出さないからね」と面と向かって言われてしまった。あずさ自身、遊ぶ金が欲しいとは思っていないが、だとしても四月は何かと物入りだ。明日はバイトの面接に行く予定だった。

 そうだ。道着だけじゃない。弓と矢だって買わなきゃいけないんだ。

 弓矢の相場の値段をあずさは知らなかったが、数千円ではないことぐらいは流石に想像がついた。

「えっと・・・・・・」

 どう言おうか。

 長時間道場の前に居座って、期待させて、それで入部する気も無いただの冷やかしだとわかったら、この青年は怒るかも知れない。素直にお金がないのだと伝えるべきなのだろうか。そうすればきっとわかってはもらえる。でも確実に落胆はさせてしまうだろう。

「ねえ、名前、なんて言うの?」

 あずさが逡巡している間に、会話が進んでしまった。

「あ、神城です・・・・・・」

「え、かっこいい!」

「そ、そうでしょうか・・・・・・」

 正直、戦国武将にでもいそうなこの名字はあんまり好きではなかった。

「下の名前は?」

 随分距離を詰めてくる。あずさは戸惑いながら、応えた。

「あ、あずさです」

 道着の青年はぽかんと口を開けたかと思うと、次の瞬間、ウルトラマンを見た少年のような笑顔になった。

「入部決定だ!」

 彼はそう叫ぶとあずさの手首をがしりと掴んだ。「え?」と目を丸くしたあずさが現状を把握するよりも先に彼はあずさの腕を引っ張って弓道場の入り口に向かってずんずん歩いて行った。

「え? ちょ」

「みんなあ! 新入部員だよ!」

 弓道場で帰り支度をしていた部員達は入り口で叫んだ彼の言葉に大いに反応した。

「え? まじで?」「あ、今日、ずっと見てた子じゃない?」「やったあ! 初めての後輩だあ!」

 みんな表情を輝かせてあずさの周りに集まってくる。あずさは自分の顔が引きつるのを感じた。どうしよう。もう冷やかしでしたなんて言える空気じゃない。

「ちょっと! 三島!」

 期待のまなざしに囲まれて泣きそうな気持ちでおろおろしているあずさを見て、一人の女子部員が声を上げた。

「え? なに? 香織先輩」

 あずさを引っ張ってきた男子部員は三島。彼に声を張った女子部員は香織と言うらしい。三島より先輩ということは三島は2年生、香織は3年生か。

「この子、嫌がってるんじゃないの?」

 その一声で場が一気に落ち着いた。香織先輩は相当発言力があるらしい。部長だろうか。

 香織はあずさにゆっくり近寄ってきた。そこで三島があずさの手首を握っているのに気が付き、彼女は舌打ちすると三島の手をビシリとはたいた。

 手を離して「いたい!」と叫ぶ三島をガン無視して、香織は「ごめんね。あいつバカなの」とあずさの手をさすった。

「大丈夫? 困ってる?」

「あ、あの・・・・・・」

 あずさはゴクリと生唾を飲んだ。もう、このチャンスに言ってしまうしかないと思った。だからあずさは正直に言った。

「私、その、入部は出来ないんです。ごめんなさい」

 しんと場が静まった。

 誰もあずさを責めたりはしなかった。しかし、すうっと周りの部員が落胆したのは痛いほど伝わってきた。あずさはいたたまれない気持ちになった。

 もう帰ろう。また見に来たいと思っていたけれど、もう金輪際、弓道場には近づかないようにしよう。そうしよう。

「そんな! だめだ!」

 三島が急に叫んだ。あずさも部員たちも驚いて三島を見る。

「だってこの子、あずさちゃんっていうんだぜ!」

 あずさは意味がわからなかった。見ると他の部員達も「何言ってんだこいつ」って顔をしている。

 唯一、香織先輩だけは「なるほどね」とため息をついた。

「三島は梓弓のことを言ってるのね」

「あずさゆみ?」

 そうオウム返ししたあずさに香織先輩は丁寧に説明してくれた。

「梓っていう材木は、丈夫でほどよく弾力があるから、昔は弓の材料にされてたの。特に神事などで使われるための弓。梓弓。まあ、神具ね。梓巫女っていう巫女様が使ってたらしいわ」

「そういうこと! もう、弓道やるための名前じゃん!」

 つまり、弓に由縁がある名前をしているから、弓道をするべきだという理論か。

 なんと乱暴な。

「ほんとごめんね。あいつ偏った知識ばっかり持ってるくせに、根がバカなの」

 周りの部員達もあきれた様子でやれやれと道場に戻り始めた。あずさは包囲が解かれた気がしてほっとした。私も帰ろう。

 しかし、帰れなかった。今度は香織先輩が撫でていたあずさの手首をやさしく掴んでいたからだ。

「え、あの・・・・・・」

「ねえ。あずさちゃん」

 香織先輩はにっこり微笑んだ。

「あなた、今日の活動、ずうっと見てたでしょ。弓道部がある高校はそう多くないから、物珍しさで見学に来る子は毎年多い。でも、あんなに真剣に見てくれる子なんて滅多にいない。私も三島じゃないけど、すごくうれしかったの」

 香織先輩は膝を曲げて体勢を下げると、目線を落としてあずさの目を見上げた。

「何か入部出来ない理由があるの?」

 あずさはきゅっと下唇を噛んだ。

 自分だって、部活に入りたい。高校生らしい青春を送りたい。でも、自分の置かれている環境がそうはさせてくれないのだ。他の子達は当然のようにもっているものをあずさは与えられない。

「お、お金が、ないんです。弓も、矢も、道着も買えません・・・・・・」

 香織先輩の目が驚きで見開かれた。予想外の言葉だったに違いない。

 そこで、香織先輩の背後に立っていた三島がすかさず声を上げた。今度は彼が「何言ってんだこいつ」という顔をして。

「そんなの、親に買ってもらったらいいじゃん。みんなそうだぜ」

 その言葉に、あずさは自分の身がこわばるのを感じた。

 みんなそうだぜ。

 そのみんなの初期設定が私にはない。

 香織先輩はあずさの手を離し、さっと立ち上がった。くるりと後ろを向く。そして、間髪入れずに三島の頭のてっぺんに思いっきり手を振り下ろした。それもグーで。

 ゴンといい音がした。

「いってえ!」

 香織先輩はまたくるりとあずさに向き直った。今度は両手であずさの手を握る。

「大丈夫よ。あずさちゃん。弓も矢も、部の備品があるわ。ちょっと古いけど」

「え」と驚くあずさに、香織先輩は続ける。

「道着は、私のお古でよければあげるわ。道場には過去の先輩達のお古がいくつもあるから、ゆがけや胸当てもなんとかなるはず」

 そうか。そんな手があるのか。

「で、でも、私、バイトもしなくちゃだし」

「うちはこう見えて結構おおらかなクラブでね。学習塾に行くために週二で休む子だっているのよ。余裕余裕」

 あずさの肩からすうっと力が抜けた。

「どう? あずさちゃん」

 香織先輩が微笑む。その後ろで三島も頭を押さえながら叫ぶ。

「やろうぜ! 弓道!」

 気が付いたら、あずさは頷いていた。

 次の瞬間には香織先輩はボクシングの勝者のようにあずさの手を高く掲げて叫んだ。

「新入部員ゲットお!」

 瞬く間に、あずさは再び歓声を上げる部員達に取り囲まれた。

 


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