常日頃に思うこと

天冥 蒼

犬の殺処分を止めようという広告を見て

 私の住んでいる街の駅に、こんな広告があった。

「日本では毎年〜匹のワンちゃんが殺処分されています。可哀想な命を無くすためにあなたもなにか始めてみませんか?」

 私はこの広告を見て、「何故、可哀想と書いてあるのだろう」と思った。きっと、今この独白を見ている方は「頭おかしいんじゃねーの」

と思ったかもしれない。私も、父親にこのことを話したら深く失望されたので、多分、正常な思考ではないのだろう。

 さて、何故、私がこんな考えに至ったのか、それは、この「可哀想」という言葉が人間自身のエゴでしかないと思ったからだ。

 少し考えてみてほしい。夏、厄介な害虫がよく湧いてくる。蚊、ゴキブリ、カメムシ・・・

様々な害虫がいる。そして、その害虫達を我々人間はどうしてるだろうか。

 蚊は潰され、ゴキブリはスプレーをかけられ、カメムシは…どうしてたっけ。まぁ、いずれにせよ、殺したり追い出したりしてるはずだ。そこに、可哀想という感情はあるか。正直言って私には無い。

 どれだけ小さな命を奪えど何も感じない。しかし、犬や猫になるとどうだ。人間達は、やれ「可哀想だ」「非人道的だ」と、口々に言うようになる。害虫達や犬や猫も放置していたら人間の生活に害を及ぼす。それなのに上記の様なことを言い出す。

 私は、犬や猫が、人間の庇護欲を掻き立てる存在だからこのようなことを人間は言うんじゃないかと思った。

 庇護欲とは、共感ということができるからこそ、湧く欲望だと私は考えている。つまり、相手はどのようなことをしたらどのように感じるのかを想像さえできてしまえば、その欲望は自然と湧いてくる。ということは、裏を返せば共感できないものにはこの庇護欲は湧いてこないということだ。

 このように考えると、人間とは、共感できるかできないかで命の価値を決める、残酷な生き物なんだなと思えてくる。

 そのくせして、このような人間の残酷な面について話してみると、「そんなふうに考える息子に育ってしまったこと、父親として悲しいよ」とか言ってしまえる人間は、心底、理解に苦しむ。


以上、犬の殺処分抗議広告から父親との喧嘩の愚痴でした^^

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る