第7話 孤影

 車に戻ると、うたた寝していたカラスのヤトがむくっと起き上がる。


「待ちくたびれたよ」


 そう言って、嬉しそうに私の膝に飛び乗った。そんなヤトを、私は両手で優しく抱き寄せた。突然のことで、ヤトは体を少しビクつかせた。


「ごめんね。怪我したの、私をせいだったんだね」


 ヤトは少し黙った後、頬を私の顔にそっと寄せる。


「…気にしないでよ、凪。もう大分良くなったんだから」


 私は顔を上げてヤトを見て、微笑んだ。


「焔さん、ヤト。今日は助けてくれて、本当にありがとうございました」


 そう言って私は頭を下げる。焔とヤトは互いを見合ってこう言った。


「気にすることはない」


「そうそう、俺たちが勝手にやってることだから」


「それより、これから先のことを考えないとな」


「先って?」


「ミレニアの追手はこれからも来るだろう。君が安全に、この世界で過ごすための良い方法を考えないとな。まずは明日、改めてSPTの長官に報告をしに行く」


「長官?」


「そうだ。長官なら、君の事情を理解してくれるだろう」


 明日か、明日…。って、え?


「そういえば、今日私はどこに泊まれば…?」


「私の家だ」


 え?えええ???と、心でそう叫んだ瞬間、焔はすでに勢いよくアクセルを踏み、颯爽さっそうと車を走らせていた。


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「着いたぞ」


 私は車窓しゃそうから外を見る。周囲には、飲食店やカラオケなどが入っているビルがズラリと立ち並んでいる。どう見ても歓楽街だ。それに、ざっと見た感じ、人の家はない。


「あの…?」


「降りるぞ」


 焔は外へ出て、勢いよく車のドアを閉めた。私は戸惑いながらも、膝元にいたヤトをそっと抱きしめ、竹刀袋を持って外へ出る。酔っぱらった大人たちの楽しそうな声が周囲に響き渡っていた。本当に、この近くに家が…?


「凪、ヤトを渡してくれないか?」


 ヤトを見ると目を閉じている。どうやら疲れて眠ってしまったようだ。私はヤトを起こさないように、そっと焔に手渡す。焔はジャケットを羽織り、その中にヤトを隠した。


「行くぞ」


 そう言って歩き出す焔。私は小走りで焔の後ろを歩く。もう夜の9時近いが、通りは活気に満ちたままだ。


 そういえば今日は金曜日だ。金曜日ってお酒を飲みに行く人が多いんだっけ。通りすがりの酔っ払いを見て、私はお父さんのことを思い出した。


 警察官の父は、陽気な性格で友達が多い。終電を逃して酔っぱらいながらタクシーで帰ってきては、よくお母さんと喧嘩してたっけ。そんなやりとりが今はとてつもなく恋しい。


 お父さん、お母さん、真子、ひなた…。


 私が帰って来なくて、きっと心配しているだろうな。特にお母さんは心配性だから、夜も眠れないかもしれない。早く会いたい。早く…。


 その時、ある建物の前で焔の足が止まった。見上げると、そこには2階建ての黒い建物が。「クラブノクターン」という看板がかけられている。


「あの…。ここは?」


ぞくにいう『クラブ』だ」


 驚く私を尻目に焔は扉を開ける。


 中に入ると、大勢の大人たち。今まで経験したことがないような音楽の波。暗い空間を、怪しいライトがギラギラと照らしていた。馴染みのない光景を前に思わず足を止める。


 すると、焔が私の腕を掴み、こっちだ、という素振りをする。焔が向かった先はトイレ横の用具室だった。周囲を気にしながら、素早く中に入る。真っ暗だ。


 焔はすぐにスマホのライトで周囲を照らす。床にはバケツやモップが無造作むぞうさに置かれているが、焔が慣れた手つきでそれらをどかす。すると、床に扉が現れた。


「と、扉?」


「驚いたか?秘密基地みたいだろう」


 焔は、ジャケットのポケットから鍵を出し、扉を開ける。すると地下へと階段が続いているのが見えた。


「私が先に下りるから、君は扉を閉めて入ってくれ」


 そう言って、焔は階段を下りる。続けて私も階段へと足をかけ、扉を閉める。


「急になっているから気をつけろ」


「はい」


 焔のスマホの明かりを頼りに階段を下りていく。30秒後、扉が見えてきた。焔が扉を開け、中へと促す。


「どうぞ」


 私は軽く会釈をして入る。照明がパッと点けられ、部屋中を照らす。アンティーク調の家具に壁に飾られた絵画…。それにかなり広い。地下に、こんな素敵な部屋があったなんて。


「どうした?」


 焔が不思議そうに私を見る。私はハッとして焔を見る。


「いや、思った以上に広くて立派なおうちで、その…。ビックリしちゃって」


 はははっと、焔は軽く笑う。


「一応、SPTの幹部だからな。こういう形で住まわせてもらっている」


 焔はそう言いながら、ジャケットの中に隠したヤトをそっと抱きかかえ、ソファの上にある大きめの木製のカゴの中へ入れる。ヤトはあの大音量の中でも起きなかったようだ。


「今日はバタバタしたからな。ヤトも疲れたんだろう」


 焔はクローゼットを開けて、ジャケットを脱いだ。ちらっと見えるクローゼットの中には、シワもないスーツがピシッと数枚かけられている。


「君の部屋はこっちだ」


 そう促され、私は遠慮がちに歩く。部屋に入ると、大きな本棚と広々としたベッド。ホテルの一室のような空間に思わず私は息を呑んだ。


「テレビもない部屋だが…。良かったら使ってくれ」


 私は思わず本棚を眺めた。高さは3mくらいあるだろうか。びっしりと本が収められている。


「…図書館みたい」


 ふと後ろを振り返ると、焔の姿がなかった。あれ?もう行っちゃったのかな?私はゆっくりとベッドに近づき、竹刀袋を置いた。部屋の本棚に近づき、並べられた大量の本を見る。古代文学、美術史、歴史…。ジャンル問わずさまざまな本が並ぶ。ふと、私はある本の背表紙を見て、足を止めた。


人狼族じんろうぞくの生態…?」


 人狼族って…?まったく聞いたことがない名称に興味を惹かれた。私は、本を取ろうと手を伸ばす。


「凪?」


 突然、部屋の入口から声が聞こえて、私は体をビクつかせた。入口を見ると、焔がバスタオルを持って立っていた。


「す、すみません!勝手に色々触ってました!」


「それはいいんだが…。何か気になる本でもあったか?」


「あ、いや、こんなに本があるなんてビックリして、ただ見ていただけです」


「そうか」


 私は手をモジモジさせる。


「これ、良かったら使ってくれ。バスタオルと歯ブラシだ。それと、さっき本部で貰って来た着替えだ。サイズが合うかどうかはわからんが」


 私は目を見開き、焔から受け取る。


「すみません、わざわざ。ありがとうございます」


「台所や浴室も、好きに使ってくれて構わない」


 いたれりくせりで申し訳なくなる。きっと、色々と気を遣わせているんだろうな。


「でも、この部屋、本当は焔さんの部屋なんじゃ…?」


「私はソファで寝る。それに、まだ仕事が残っていてな。居間の隣の仕事部屋にいるから、何かあったら声をかけてくれ」


「あ、はい」


「じゃあ、また明日」


「は、はい!ありがとうございました!」


 そう勢いよく頭を下げると、焔は軽く笑って扉を閉めた。私はフーっと息を吐いて力なくベッドへ向かい、大の字に寝そべった。


 今日は本当に色々なことがあった。色々なことが…。


 焔は、おばあちゃんが私に磁場エネルギーの場所を伝えたと言っていたけど、本当に心当たりがまったくない。



「あからさまな暗号のような意味合いで残しているとは限らない。普段の何気ない言葉の中に、ヒントが隠されているかもしれない。繰り返し言っていた言葉はなかったか。じっくり考えて欲しい」



 焔の言葉を、私は思い出していた。普段の何気ない言葉。繰り返し言っていた言葉。何かあったっけ?何か…。


 考えながら、ふと頭に家族のことが浮かんだ。今朝、家族で囲った食卓が、とんでもなく昔のように思える。私の頭は「凪」と優しく呼ぶ家族のことでいっぱいになっていた。


 見つめる天井の明かりが、次第にぼやけていく。気がつくと、目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。

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