第12話 卒業式と前借りのキス

※「今日は卒業式だ。」を共通の書き始めとしたワンライで書いたものです。




 今日は卒業式だ。

 桜前線が最初に通過するここでは、三月一日なのに桜が五分咲きで、咲き誇る時を今か今かと待っている。

 薄ピンクの気配がそこかしこに溢れている学校内では、卒業生と在校生、そして教師が口々に感謝と別れの言葉を交わしていた。

 笑顔を、時には涙を浮かべるその姿はまさに青春そのもの。

 なんて美しく、眩しい光景だろう。


 私は窓枠越しに、その様子を眺めていた。

 担任を持つことのない養護教諭は、はしゃぎ過ぎた生徒が駆け込んでくるのを待つのが役目だ。

 応急処置に必要な道具は準備万端。

 

 とはいえ、品行方正な上流階級の子息、令嬢が通うハイランクの私立校で、そんな珍事は滅多にない。

 そんなことがあれば、後輩たちによって語り継がれることになり、末代までの恥だ。

 上流階級では失脚確実。

 リスキーなことをするお馬鹿な生徒は存在しない。

 よって、俺の今日の仕事は終わったも同然。

 あとは終業時間を待つのみだ。


 開け放たれた窓から離れ、歓声を聞きながら執務机に戻る。

 窓の外を眺める前には湯気を立てていた紅茶はシンと静まり返っていた。

 でも、それでいい。

 猫舌な私は、微温いくらいでちょうどいいのだ。


 華奢なハンドルを摘まみ、琥珀色の液体を流し込むと、仄かにチョコレートの味がした。

 甘くて、甘くて……そして、ほろ苦い。


 元々、甘いものは苦手だった。

 それが平気になりつつあるのは、この三年、私が常駐する保健室に通い詰めた彼のせいだ。

 いや、お陰だと言った方がいいのか。


 彼を形容するなら、光り輝く太陽。

 あるいは、ひまわり。


 入学時は百六十三センチと小柄だったのに、成長期とは恐ろしいもので、最後には百八十六センチまで伸びた。

 体格もそれに伴って、痩せ型から筋肉質へと変貌を遂げ、芝犬のような少年の面影は、シェパードのような凛々しさへと変わった。


 ツンツンとした黒色の短髪は伸びてマッシュヘアに。

 細く整った眉の下には、愛嬌と落ち着きが同居したアーモンド形の目。

 鼻筋はすっと通り、少し厚めの唇は緩く弧を描く。


 誰もが振り返る美貌。

 誰もが憧れる頭脳と身体能力。

 誰もが欲しがる、権力と金。


 すべてを兼ね備えた彼は、全校生徒の……いや、全国の上流階級の者たちから一挙一動を見られていた。


 その彼が息抜きの場所として選んだのが、なぜか私の城、保健室だった。

 

 私は鏡を見てみても、到底彼と釣り合う見た目はしていない。

 百七十五センチと平均的な身長に、養護教諭としてはどうなのかと言われそうなほど不健康な痩せ型。

 清潔感のある七三分けの黒髪。

 平行眉に垂れ目、少しぽちゃっとした鼻と薄い唇。

 パッとしないアラサーだ。


 どこでどう私に目をつけたのか。

 彼は毎日、昼休みの後半になるとやってきて、紅茶を一杯飲んで帰る。

 授業がある日は必ず来訪し、一日として欠かしたことはなかった。


 彼は楽しかったこと、嬉しかったことも悲しかったこと、悔しかったこともすべて私に話した。

 それを聞いて、聖人と崇められる彼も、ただの人間なのだと知った。

 

 彼のこんな姿を知っているのは何人いるだろうか。

 その優越感は心地よかった。


 彼が持ち込んだ紅茶はどれも仄かにチョコレートの味がするもので、彼に付き合って飲むうち、甘いものが苦手な私でも、紅茶だけは飲めるようになった。


 そんな密やかな逢瀬を繰り返し、それが間違っだと気付いた時、私はどうしようもなく消えたくなった。


「先生、俺は貴方が好きだよ」


 まだ青々しい愛の言葉。

 眩いそれは、私の胸を焦がした。


「それは錯覚です。忘れなさい」


 拒絶の痛みは凄まじく、その場に崩れ落ちそうになった。

 本当は抱き合いたい。

 けれど、彼と私には立場がある。

 この関係はいつか破綻する。

 だというのに。


「じゃあ、卒業式にまた言うね。それなら、錯覚じゃないでしょ」


 そう宣言され、途方に暮れた。

 卒業式まで一ヶ月。

 そんなの、勝利宣言じゃないか。

 


「先生。約束、果たしにきたよ」


 静かだった保健室に、低く甘やかな声が響く。

 振り返らなくても彼だとわかった。


「約束……」

「俺が先生を好きって話。錯覚でもなんでもない。うるさい奴らは黙らせた。知ってるでしょ」


 そう、彼は跡取りの座を弟に譲り渡した。

 それは人生を賭けた最初で最後の、最大の博打だ。


 そこまでされたら、反抗する気も起きない。


「ええ、私の負けです。私も、貴方が好きです」

「やっと、認めたね」


 仄かに香るムスクの香り。

 近づく唇。

 私は慌てて手を差し入れた。

 

「キスくらいいいでしょ」

「三月三十一日まで高校生です。ダメに決まっています」

「ケチだなぁ」


 すっと引き下がった体。

 ほっと手を下ろした瞬間、彼は再び私の顔に陰を落とす。

 

「なっ、え……!?」

「前借り。四月一日に返すよ」


 一体、何を返すつもりだろうか。

 若い子の考えることはよくわからないな。

 けれど、いつもは大人びた表情をする彼が、年相応に、無邪気に笑うのを見たら、怒る気にもなれない。


 彼との初めてのキスは、甘くて蕩けるチョコレートの味がした。

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