17 上の空の瞳
今日の幾何学魔法の授業では、複雑な図形の読み取りを分析してその意図を解読するグループ課題が出された。近くの席に座った者同士で三、四人ずつの組に振り分けられ、ミリーも前の席に座っていた生徒二人と課題に取り組むことになった。
手元の用紙に描かれた図形を見て、周りの生徒たちはああでもないこうでもないと活発な意見を交わしている。
ミリーと机を囲む二人の生徒も図形の上に万年筆を走らせ、議論を交えつつ線と線が織りなす意味を解剖していた。
一方のミリーは図形に目もくれることなく頬杖をついて教室の扉ばかりを見つめている。万年筆を手に取る気もなさそうで、彼女にやる気がないことは一目瞭然だった。
いつもはそれなりの態度で授業に参加しているミリーには珍しく、目の前のことを疎かにしている。
ミリーの様子がおかしいことに気づいた同じグループの生徒二人は、顔を見合わせてから議論を止めて万年筆でミリーの手元の用紙をとんとん、と叩いた。
自分の注意を引こうとしているその動作が視界の隅に入ってきたミリーは、扉に固定していた視線を前にいる二人に移す。
万年筆で用紙に小さな点を描いたのは二人のうちの男子生徒の方だった。もう一人の女子生徒はアストリッドで、調子が悪そうなミリーを心配しているのか眉尻を下げている。
カッパー色の髪が特徴的なその男子生徒はミリーと目が合うと朗らかな笑みを広げた。
「ねぇ、ミリーはどう思う?」
彼に促され、ミリーはアストリッドと彼が導き出した図形の見解に目を落とす。彼が持つ用紙に書かれている結論をサラリと眺めたミリーは言葉少なに頷く。
「うん。いいんじゃないの」
正直なところちゃんと目を通したわけではなかった。課題として出された図形の細部まで頭に入っているわけではない。ただ、丁寧な筆跡で書かれた彼の解釈を見れば、とりわけ間違っているわけでもなさそうだと適当に判断したのだ。
「発表はお願いね」
授業の最後にグループごとに結論を発表することだけは覚えていた。ミリーは自分は無関係だとでも言わんばかりに二人にそう告げる。
用事は終わったと認識したのか彼女の視線は再び扉へ向かう。
「ミリーがそう言うなら、多分大丈夫だよね。これでいこう、クインシー」
アストリッドは関心のないミリーの薄い反応を押しのけるように用紙を掲げるクインシーに明るい口調で笑いかける。
「うん。そうしよう。結構早く終わっちゃったね」
「ふふふ。クインシーの頭の回転が速いからだよ」
「嬉しいけど、そんなことないって。アストリッドのひらめきのおかげ」
「まぁー、上手いこと言ってくれちゃって。間違ってたら恥ずかしいじゃない」
「それは俺も同じ。そうなったら、一緒に恥をかこう」
「あはは。私は別にいいけど、クインシーはいいの? 先生たち、銀賞あげたことを後悔しちゃうんじゃない?」
「君も監督生だろ? 似たようなもんだって」
ミリーが二人の見解に同意したことでほぼ課題は終わりとなってしまった。周りのグループはまだ課題に取り組んでいる。が、すっかり気が緩んだ二人は余った時間で雑談を始めた。
二人は仲が良いのか、和やかな雰囲気で次々にテンポよく会話を弾ませていく。
ミリーはそんな二人の声をぼんやりと耳に入れながら時間が過ぎるのを待つ。
教室の扉を穴が開くほど見つめる彼女はまるでご主人様の帰還を待っている忠犬のようだった。
「ショーケースの銀賞と監督生を同じにしないで。ふふ。っていうか、今思ったんだけど、金賞と銀賞の二人が納得する答えなんだから間違えてるはずないって」
アストリッドはくすくすと口元を抑えて笑い、クインシーが持つ用紙を奪う。
「発表は私がするね。二人に任せて私が何もやってないって思われたら嫌だし」
用紙に書かれた文字を追う彼女の瞳が機敏に動く。
「ありがとうアストリッド。でも、ショーケースの結果はこの課題に関係ないと思うけどな」
「いいのいいの。精神的にはかなーり心強いから。それよりもさ、よく惚れ薬の解毒剤を作ろうと思ったね。心を惑わす魔法を解くのは面倒なのに。私なら手を出そうと思わないからさ」
アストリッドは用紙を机に置き、感心した声でクインシーに訊ねる。
「面倒だからこそ、手軽になったらいいなと思ったんだ。自分が知らないうちに他人に操られるのは気分が悪いだろ。悪用する人だって少なくない。少しでも身を守る手段が増えればなって思って」
「おおー。立派立派。さっすがクインシー君、言うことが違うね」
「なんだよそれ」
アストリッドが温かい目を向けてきたので、クインシーは面白がっている彼女の表情にはにかみを返した。
「今年は銅賞まで薬に関する発表が占めてただろ? だから、審査員たちの興味と重なって運が良かっただけかも」
クインシーは明後日の方向をじっと見つめたままのミリーを横目で見やる。彼女もまた、皮膚炎の治癒に効果的な試薬を発表し金賞を得ていた。壇上で彼女が胸に金のバッジをつけた時、友人のモリーが自分事のように大歓喜して盛大な拍手をしていたことは記憶に新しい。クインシーは当時のことを思い出し、つい頬を緩める。
ミリーが表彰される直前、クインシーも銀のバッジを受け取った。その時の達成感の余韻は未だ彼の胸の奥にじんわりと滲んだままだ。
三年目のショーケースにしてようやく表彰の機会を得た自分とは違い、賞賛に慣れているミリーにしてみれば金賞など些細な過去の出来事の一つにすぎないのかもしれないが。
クインシーはミリーの不機嫌そうな顔を瞳に映し、あの日に見た彼女の微笑みを脳裏に浮かべて目元を弛ませる。
会場中を包み込む温かな拍手の中、彼女はバッジを受け取った時よりも何倍も嬉しそうな笑みを広げ、駆け寄ってきた恋人に両手を伸ばした。
今日の授業で彼女がいつもと様子が違う理由もなんとなく察しがついている。
クインシーは彼女の空っぽの右側を一瞥してからアストリッドへ視線を戻す。
アストリッドはクインシーの謙遜を窘め、惚れ薬の解毒剤に対する賛辞を述べ続けていた。彼女は指を折り曲げながら、クインシーが銀賞を獲ったいくつもの理由を一つ一つ挙げていく。クインシーは気恥ずかしさを感じつつも彼女の論賛に耳を傾け、あどけなく笑った。
「あ。でも、解毒剤を作ったってことは、効果を確かめるために惚れ薬も使ったってことだよね?」
不意に、アストリッドは指を折り曲げるのを止めて眉山を持ち上げる。
「うん。もちろん、俺は治験の資格がないから人では試してないけど──え? 何その顔」
疑問に答えたクインシーはアストリッドの訝し気な眼差しに気づいて不安そうに首を傾げる。
「クインシー、いいんだよ。別に、私には隠さなくたって。忘れそうになるけど、クインシーだって男の子だもんね。ちょっとハーレムってものに興味を持ったって、なんもおかしなことはないよ」
「え? アストリッド、何言ってるの」
アストリッドの口から飛び出た発言にクインシーの穏やかだった表情が凍りつく。
「ごめんごめん。私たちがクインシーのこと女友達みたいに扱うから、クインシーだって面白くなかったよね。ごめん。これからは気を付ける!」
「おいおいおいおい。一体何に気を付けるつもり? いいから。違うから。別に不満とかないから」
アストリッドが嘆きと反省を表明すると、クインシーは彼女の暴走を抑えようと彼女に見えるように両手を大きく横に振る。
「惚れ薬は、動物研究部の協力で、ぜんぶその動物たちに使っただけだから。それに──」
クインシーはアストリッドの誤解を解こうと必死で弁明を試みた。が、騒がしさが煩わしかったのか、ミリーの鋭い視線が二人を突き刺す。
「ごめん」
アストリッドとクインシーは声を合わせて静かに謝る。二人が静かになったのを確認し、ミリーの視線は剥がれていった。
「──えっと、惚れ薬は、あんまり量も作れなかったから実験回数はそんなに多くないんだ。人間に使えるほどの物じゃないよ」
ミリーの顔の向きが定位置に戻ったところでクインシーは囁くようにアストリッドに実情を伝える。
「そうなの? 素材があればクインシーなら作ること自体はそんなに難しくないでしょう?」
アストリッドが目を丸めて驚いた反応を見せる。
「確かに、作ることは問題なかった。でも、そもそもの材料があんまりなくて。学園からも借りられなかったんだ」
「え? でも、学園は実験のためにもたくさん素材を貯蔵してるよね? ショーケースのためだって許可があれば、使わせてもらえるんじゃないの?」
「そのはずなんだけど……どうも、惚れ薬に使う材料がなくなってたみたいで」
「ええ? 買い忘れ?」
「そうかもしれない。先生も、最近は忙しくてあまり在庫の管理が出来ていなかったから発注を忘れたのかもって言ってた。だから結局、素材は自分で確保したんだ。高かったけど、市場搬入の手伝いをしたことでちょっとだけ安くしてもらえたからさ」
「自分で買ったの? 偉すぎ。それあとで学園に請求できるんじゃない?」
「はははっ。大丈夫大丈夫。市場のバイト代で払えたから。他の皆も自分で調達しなきゃいけないものは自分でしてるんだしさ。同じことだよ」
「クインシー、あなた欲がなさすぎでしょ……」
クインシーの真っ直ぐな笑顔に目を細め、アストリッドは太陽光に晒された吸血鬼の如く萎びていった。
額に手の甲を添え、熱を測るような仕草を見せてふらつくアストリッド。クインシーは彼女の大袈裟な反応に思わず笑ってしまう。すると。
「ジュール‼」
ふざける二人をよそ目に、ずっと教室の扉を見つめていたミリーが勢いよく立ち上がる。クインシーとアストリッドは置物のように動かなかった彼女が突然息を吹き返したことに驚き、彼女の輝く瞳の先を振り返った。
「悪い、ミリー。魔道具部の活動が長引いて」
ミリーのキラキラの笑顔を正面から受けたのはジュールだった。彼は長身の身体を低くしながらあまり目立たないようにミリーの隣の席に座る。が、ミリーが彼の名を大声で叫んだので、すでに教室中の視線は遅れて教室に入ってきた彼に向けられていた。
「ヴィヴァル、もうすぐ授業も終わりですよ。課外活動に熱心なのもいいですが、本分である勉強の方も疎かにしないように」
「はい。すみませんでした」
女教師の呆れ半分の叱責にジュールは軽く頭を下げて悪気を誤魔化すかのように爽やかに微笑む。
「ジュール、もう来ないかと思った。私と同じ授業をサボるほど、魔道具部の活動は忙しいの?」
教室のざわめきが収まると、ミリーはジュールの肩にしなだれて悲しそうな瞳で彼を見上げた。机の下でミリーはジュールの手に自らの指を絡ませる。彼の指先は思いのほか熱を帯びていた。
「ほんとごめん。花冠の件でウィザワンの術義局は無能だって世論が強まったせいで、ダイルが見返してやるんだって前のめりになっててさ。俺も抜け出したかったけど、あいつが逃してくれないんだ」
「活動の調子はどうなの? ダイルたちの計画は順調? 犯人の痕跡を見つけ出す魔道具を開発しているんでしょう?」
ミリーは矢継ぎ早に質問を投げかける。ミリーの指がジュールを求めてから少しの間を空けて、彼の手が彼女の指先を握りしめた。
「順調とは言えないかもな。いい感じまで進んだんだけど、不具合が発生して。また事件が起きる前に少しは進歩するといいんだけどな」
「大変そう。ジュールは凄いわ。魔道具部の正規メンバーでもないのに、幼馴染のために精一杯協力してるんだもの。授業を見送るくらいにね」
ミリーはジュールの髪が乱れていることに気づき、そっと彼の髪を撫でつけた。
「でも。最近あまり一緒にいられなくて寂しい。せめて授業くらいは一緒にいられると思っていたのに」
ミリーがジュールの胸元に頭を預けると、ジュールはミリーの艶やかな髪にキスをする。
「ああ。俺も寂しいよ。今日はもう、魔道具部の活動にも行かないから」
「本当?」
「うん。レジーたちも抜きで、久しぶりに二人で出掛けよう」
「ふふふ。嬉しい。ようやくあなたを独り占めできるのね」
こうしてジュールに心身の全てを預けていると、彼の胸の鼓動が聞こえてくる。ミリーは彼の胸元に耳を寄せた。彼は急いでいたに違いない。その証拠にシャツは少し汗ばんでいるし、色香に溢れた泰然な表情とは裏腹に鼓動も早い。
一途に彼を待つ恋人に会うために、大急ぎで走ってきたのだろう。
ジュールの手が繊細なガラス細工に触れるようにミリーの髪を優しく撫でる。ここのところジュールと過ごす時間が減り、彼が考えていることが少し分かりにくくなっていた。同じことを何度も話したり、こちらの話をあまり聞いていないと思う瞬間も多々あった。多忙で疲れているせいかと思っていたが、こうして彼に触れているとそんな違和感はどうでもよくなってしまう。
二人は学園一の理想の恋人同士だという認識が生徒たちの間で薄れてしまうことを恐れていたがそんなことは杞憂かもしれない。
彼の心音に瞼を閉じミリーはそう信じて幸せそうに微笑んだ。
片や二人の様子を見守っていたアストリッドは、授業に来たばかりのジュールに課題と発表についてを説明をする。ジュールが彼女の話に意識を向けると、彼女の隣に座るクインシーが自らの制服の胸元をこっそり指差す。彼の仕草に違和感を覚え、ジュールの視線が軽くそちらを向く。
ジュールと目が合ったクインシーは、ミリーが目を閉じていることを視線で示し、そのまま胸元のボタンをちょんちょん、とつついてみせた。
ジュールは自分のシャツのボタンに視線を落とし、ハッと息を吸い込む。
「──どうかした?」
二人の視線だけのやり取りに気づいていないアストリッドがジュールの不自然な呼吸音に首を傾げると、ジュールは「なんでもない」と柔らかな笑みを浮かべた。
「そう? じゃあ続けるね」
アストリッドは不意打ちの彼の笑みに照れたように頬を赤く染め、用紙片手に話を進める。ミリーは瞼を閉じて彼に寄り添ったままだ。
ジュールが再び正面を一瞥すれば、重なり合った視線の先で、穏やかに垂れたクインシーの目元が妖美な三日月を描く。
ジュールは幾重にも折り重なった感情が閉じ込められた深い双眸から目を逸らし、険しい顔つきで用紙に描かれた幾何学模様を睨みつけた。
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