第12話 ランニング

 学校から帰宅後、一枚の紙をメイドに手渡す。その内容を見たメイドの顔は不思議そうに、それでいて呆れているかのようだ。眉間によっていくシワが全てを物語る。その状況から逃げるように視線を外す。


「体力測定の結果ですよね? ……この判定は何ですか?」


「上から四つ目のD判定です。さすが私です」


 ふざけた調子で言うとメイドの視線がより冷める。メイドがこれから言う事は全て予想がつく。『いいですか、運動と言うのはとても重要なことです』から始まるに違いない。


「いいですか、運動と言うのはとても重要なことです。お嬢様の――」


 予想が思った以上に当たり、思わず笑いを吹き出す。その姿をメイドは何も言わずに座った目で見続ける。お嬢様のほとぼりが冷めるまでその冷たい視線は続き、静かになった所で口を開ける。


「運動しているとおっしゃいましたよね!? もう私と運動しなくても管理出来るとおっしゃいましたよね!?」


 静かに溜め続けたものがドバっと吹き出す。吹き出た感情は止まることを知らずにつらつらと出続け紗夜を圧倒する。それに対抗しようと紗夜も口を開く。


「メイドが教えるのは『不埒な男、脳天直下チョップ』とか日常で使わないものばかり――」


 使わないと言いきろうとしたがふと蘇る記憶に言葉が詰まる。今年に入ってから何度陽菜に使用したか。


「と、とにかく! メイドは教えるが下手くそなんです!」


 メイドとの運動を止めた原因をハッキリと伝えられ、その内容に衝撃を受け固まるメイド。完璧なプロメイドの名がへし折れた瞬間だった。


「と、とにかく……これは旦那様にご報告しなければなりません」


 その言葉を聞き固まる紗夜。また朝のランニングが始まってしまうと焦りに焦る。プリントを持ち部屋を出ようとするメイドにしがみつき、全身全霊をかけ止めに入る。そこにトキメキなど無い。ただ走りたくないという信念が彼女を突き動かす。


「待ってください……!!」


 必死にメイドを抑えるも抵抗は虚しく、ズルズルと扉の前まで進まれてしまう。

 外に出られてはダメだ。他のメイドに結果を渡され、お父様まで届けられてしまう。ここで何としても押さえなければならない。しかしそれは叶わず、無慈悲にも開いた扉から応援を呼ぶメイド。


「どうしたっすか?」


「良いところに来たわ。朱里あかり 、これを旦那様の下へ……」


 眼の色と同じ赤みがかった茶色い長い髪を三つ編みにしたメイド。日焼けした褐色肌とその口調から元気なイメージを与える。基本的にお父様についているメイドだが父は家を空ける事が多く、よく廊下を暇そうにほっつき歩いている。


 渡された紙に目を通すと声を上げながら笑う。


「こりゃ酷いっすね! 旦那様に見せたくないのも分かるっすよ」


 と、言いながらルンルンでお父様の部屋に向かっていく。もう追いつけない事を悟りメイドを掴む手を緩める。ランニングが始まってしまう絶望感で脱力が止まらない。メイドに倒れ込むように身体を任せる。


 しっかりとその身体をメイドは受け止める。立たせることは不可能と瞬時に判断し、柔らかな太ももを枕代わりとしゆっくりと寝かせていく。現実を見たくないのか閉じた目はどれ程呼びかけても開かない。口角の上がった口元は全てを諦めたようにも見える。


「お嬢様、起きてください。掃除をしているとはいえここで寝るのは汚いですよ」


 一瞬目を開けるも不貞腐れた態度は続きすぐに目を閉じてしまう。ゆっくりと腰と脚に手を入れ、持ち上げる。けれど反応は無く、だらーんとした腕がぶら下がる。

 軽い溜息を吐き、ベッドまで運ぶ。恥ずかしさを感じているのか移動するにつれて顔が強張っていく。


「お嬢様。ベッドに付きましたよ」


 耳元で凛々しく言った言葉に分かりやすく顔を逸らしながらニヤ付く。お嬢様が元気なことを確認し、慎重にベッドに寝かせる。薄く開いた目に気付くとすぐに閉じてしまう。寝ようとするお嬢様の邪魔にならないようにと耳元で囁く。


「明日からですので今日はゆっくりお休みください」


 顔を背けられるどころか、百八十度回転してうつ伏せになってしまった。着替えてから寝て欲しいが今のお嬢様には何を言っても聞こえないだろう。


「許可が下りたっす~行くっすよお嬢様~」


 勢いよく扉が開かれ朱里が入室するも、ものすごい眼光で睨まれ退室する。もう一度部屋が静かになった直後に扉をノックする音が響く。先程とは打って変わり静かな入室。ノックの間隔、扉の開け方、その全てがメイドの名に相応しい所作。


「お嬢様、旦那様より指示を承りました。今後の運動能力向上は私が務めさせていただきます」


 あまり突然の入室に思わず体を起こしたお嬢様も目を丸くして様子を窺う。小さな舌打ちがメイドから聞こえ、その表情を窺うと苦悩の表情を浮かべている。その表情に気付いても朱里は笑顔を絶やさない。それどころかさらににこやかになったようにも見える。


「お嬢様の担当メイドは私です。運動に関しても私が面倒を見ます。貴方には預けられません」


 旦那様の指示があったと言われているにもかかわらず一歩も引こうとしないメイド。その目は子を守る親のような鋭い視線で睨みつける。


「これは旦那様の指示です。さぁ、お嬢様。朝早く起きて走るより今走った方が楽じゃないですか?」


「そうね。朝起きるのは嫌いだわ」


 メイドに何かを訴えるような視線を送られるも、その意味には気づけない。そのままこれから走る事が決定し、運動ウェアに着替える事になった。


「メイド? 何かあったの?」


「今日だけです。これだけは乗り切ってください」


 意味が分からないまま支度が完了し、玄関先で身体を伸ばしておく。少し遅れて朱里が姿を現す。


「行くっすよお嬢様」


「お嬢様、ご武運を……」


 玄関の扉が閉まり、メイドの姿が見えなくなる。腕時計をセットし始める朱里さんを見て困惑する。メイドはそんな事をしていなかった。段々と嫌な予感が沸々と湧き上がる。


「とりあえず、五キロを二十五分目指して走るっすか。ここから中央公園までが五キロっすかね」


 ランニングで聞いた事もない単語が飛び出してくる。困惑のあまり聞き返すも同じ言葉が返って来る。そしてメイドの態度がよく分かった。


「えっと、そんなに明確に決めるのですか? それに、北公園ではなく中央公園までですか?」


「決めないんすか? だからあんな結果になっちゃうんすよ」


 腕時計の小さな音が聞こえ、その合図と同時に走り始める朱里さんの後を数歩遅れて追いかける。持久走で最後の一週に差し掛かかり、調子に乗ったぐらいの速さ、最初から全力で走らなければ追いつけない。


「ちょっと速くないですか!?」


 五キロ走るというのにこの速さでは後に倒れてしまう。信号の少ないコースを選んでいるのかちょっとした階段なども挟みより一層体力を奪われる。メイド走る時のゴール地点を過ぎ去り、ランニング中に見た事の無い景色を見る。


「大丈夫っすか? 今ちょうど半分過ぎっすよ」


 大丈夫でない事を伝えたいが、ここで言葉を発せば確実に呼吸が崩れてしまうだろう。


「はぁ……っ、はぁ……っ、っあぁ……、っぐ……」


 困った表情を浮かべる朱里あかりさんは足を止めゆっくりと歩き出す。その地点まではたった数歩だが足が重く、時間がかかる。初めて追いつき膝に手を当て呼吸を整える。狂った息はそう簡単に治らずに荒い呼吸が響く。


「これくらいで何喘いだ声出しているんすか~体力ないっすね~」


 身体中から発せられる熱が服を蒸らし、湧き上がる汗が身体中を濡らす。水分不足のせいか頭がぼんやりとする。


「まだ北公園を通り抜ける手前っす。一度休憩するっすよ」

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