第30話 ゲート
地鳴りのような音がした。
さっきまで静寂に包まれていたこの家が揺れるようだったが、すぐにそれも止んだ。
「今の地震かな」
僕が呟くと、トマスは外を見ながら、違うなと呟いた。
「枝に積もった雪が落ちてない」
なるほど、外の風景は何一つ変わりがなかった。
「おかしいな、アガタはどうした?」
トマスは立ち上がり、そしてアガタ達がいるであろうキッチンに向かおうとした瞬間、背後にあった庭に面したガラス戸が派手な音をたてて砕け散り、居間の入り口のドアを突き破った何かが目のまえを猛スピードで飛んで行った。というより、どちらかというと、大きな何かに吸い込まれるような感じだった。
慌てて庭を見ると、さっきまで白く清らかな雪と静寂に包まれていた庭は、ものすごい風に吹かれたせいで激しく枝を揺らし、風に吹き飛ばされた雪がきらきらと舞っていた。
追いかけるようにすぐにアガタが居間に飛び込んできた。彼女は何故か頭に百合の花を差し込んだ金の鎖でできた花冠をのせていた。
「ニコライは?!」
アガタは叫んだ途端、トマスはすぐに気づいたようで、
「あいつ、さっきものすごい勢いで外に飛ばされてた」
アガタは唇を噛んでいる。
「門が開いたようです。ニコライはそこに呼ばれています」
「さっきの地鳴りはその音か」
僕にはさっぱりわからないが話は展開していく。
「助けにいかないと」
「アガタ、それ本気か?」
トマスが真意を量りかねるように尋ねると、アガタは迷うことなく頷いた。トマスはそんなアガタに少し驚いた顔をしたが、すぐにいいぜ、俺も手伝う、そう言うと僕たちは外に飛び出した。
***
「これは一体どういう状況なのかな」
函館山の山麓にそれはあった。青く晴れ渡った空の一角だけ赤黒くまがまがしい色をしている。近づくほど生暖かい風が様々な方向から吹いてきてうるさいほどだった。
「あの木って、切れない木だよね」
「あれな、強すぎて地獄まで繋がってる。普段はちゃんと管理されていて閉じているんだけどな。」
「何かあったのか?」
「教区長が死んだから、結界のバランスが崩れたのかな、たぶん」
「は?何その適当な答え!ピーターの後継者って、君なんだろう?何とかならないの?あれ、何かいろいろ吸い込んでないか?」
木の陰から様子を見ていると、人がたの影がどんどん吸い込まれているのが見えた。
「俺、まだ叙聖されてないから無理なんだ。まだただの使徒なんだよ」
と、言って頭を掻いた。
「で、ニコライはいるのか?」
風でとんでくる枯れ枝が顔にあたって痛かった。
「あそこにいます!」
アガタの声に、トマスが弾かれたように走り出した。
違う、走り出したのではなく、彼もまたその木の根元に口を開けている大きな空間に吸い寄せられてしまったのだ。
「トマス!」
アガタが叫び、木の枝を蹴って下りてきた。
次の瞬間、大きな影が僕の視界に落ちた。
それはアガタの背にある白く大きな翼の影だった。
***
「イザヤ、これをあなたに託します。」
そう言ってアガタは僕に例の懐中時計を握らせた。
「形見とかそういうことなの?」
風がうるさくて、お互い大声で叫ぶ。
すると彼女は、まさか、と口の端だけでいつものように笑い、
「時が来たら、この懐中時計を持って私の名前を呼んでください」
「時っていつ?!」
分かりますから、いいですね?そう言うと、僕の返事も待たずにトマスの元に走っていった。
取り残された僕は、やがて強まる風に立っていることができなくなり、地面に伏せた。こんなに熱い風が吹いているのに地面に積もった雪はそのままだった。
木の根元の手前で、トマスをすばやく捕まえたアガタは何やらトマスに伝えると、トマスをお腹のあたりに抱き込み、その翼で包んでしまった。
ここに吹き付ける風がだんだん強く熱くなってきている。さっきの空間もさらに大きくその闇を広げているのが見えた。僕よりもさらに木に近いところにいるアガタの翼は羽がその熱風に引きちぎられているようで、白い羽がどんどん闇に吸い込まれていく。
熱風が顔にも吹き付けて、目を開いていることさえ辛かった。耳には風が空を切る音だけではなく、怨嗟のような低い声が大音量で入ってきた。ニコライの姿は見えず、アガタもその闇に吸い込まれてしまいそうだった。
だが、やがてアガタが身体を包んでいた翼を緩めると、トマスの姿がなくなっていた。僕は呆然とアガタを目で追った。
次の瞬間、彼女は熱風をものともせず、躊躇なく大きな闇の中に飛び込んだ。
え、文脈から察するに、あの先は地獄じゃないのか?
そもそもトマスはどこに行った?
大体、何で僕はあの穴に吸い込まれないんだ?
それに、その時っていつなんだ!!
僕は雪の上で嫌な汗をかいていた。丸みをおびた懐中時計が妙に滑るので、金の鎖を手首に巻き付けた。
人の影のようなもの達がどんどん吸い込まれていくあの大きな闇を見守った。その時というぐらいだから、きっと何か合図みたいなものがくるのだろうか。地獄の業火って言ってたが、アガタは大丈夫なのだろうか。
風に吹き飛ばされないように、傍にあった木の根を掴みながら目を凝らしていた。こんな状況に人間を一人で置くなんてひどすぎる。こんな時に守ってくれる守護をつけてくれないなんて、教区長は何をしてるんだ。ああ、今教区長はいないんだった。
くそっと思わず悪態をついたその時、闇の中から一筋の光芒が見えた。もう、知らん、これが違ったら次のサインを待てばいいだけだ。1回しか呼ぶなとは言われていない。
「アガタ!!」
懐中時計を握り直し、出来る限りの大声で彼女の名前を呼んだ。
するとどうだろう。
まさかのアガタが闇の中から飛び出した。いや、正確には、闇の外に吸い出されたようだった、ニコライと一緒に。
よく目を凝らすと、天使と人が光る剣で串刺しになっている状態だ。ニコライの服は焼けてしまったのか半裸で身体のあちこちに熱傷があった。意識もなくアガタに抱かれてぐったりしている。アガタも顔や翼が血や煤で汚れ、羽も多く抜け落ちまばらだったが、こちらに気づくと、
「イザヤ、ありがとうございます」
そして、自分達を串刺しにしていた剣を力を込めて引き抜くと、次の瞬間、それは金の鎖に姿を変えた。アガタは胸元から懐中時計を出し、手際良くその鎖とつなぎ、
「悪いのですが、もうひと仕事お願いします。」
そう言ってニコライを担ぎ上げると、
「これから私の光芒をみた関係者がここにやってくるはずです。そうしたらあなたは、天使は堕天使と闇に吸い込まれてしまったと言ってください。面倒事は避けたいはずなので、それが一番穏便にすむでしょう。」
「これからどこに行くんだ?ニコライは怪我をしているし、トマスだって姿が見えない」
「質問は後にしてください。あとは頼みましたよ?」
そう言って、アガタはニコライを担いだままどこかへ消えてしまった。
再び一人になり、ふと違和感を覚えた。
闇から吹き付ける地獄からの熱風は未だに吹き荒れているのに、なぜあの二人は、特にニコライは、もう闇に吸い込まれなかったのだろう。
トマスを家族のように大事にしていたアガタが、なぜトマスが消えたことに全く動じていないのだろう?
何かがおかしい。
「おい」
考えに沈んでいて横に人が立ったことに気づかなかった。
アガタの言う関係者だろうか。ゆっくり見上げれば、これまた立派な白い翼をもった男が僕を見下ろしていた。美しいのに全く生気を感じない、恐らく触れたら蝋人形のように冷たいのではないかと想像させる人間味のまったくない造形物のようだった。唯一その羽が柔らかそうでこれが有機物であることの証にも見えた。
「お前、私の翼がみえているのだな」
「僕の頭の中を勝手に覗かないでもらえますか」
「お前の額にそう書いてあったのだ」
くそっ、やっぱりこいつらは人の考えていることが分かるんじゃないか!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます