給金

 その日もミハイル・ペトローヴィチ氏は浮かない顔をしながら事務仕事に取り組んでいた。いくらやっても終わらない、単調な作業の連続に彼はほとほと嫌気が差していた。しかし、この仕事をこなさない限り彼は毎月の三十ルーブリの給金が貰えず、ひいては家で腹をすかせて待っている彼より十歳年下のかみさんと、まだ生まれて十ヶ月しか経っていない赤子を養うことなどとても出来はしないのだった。


 彼は一コペイカたりとも無駄に遣うことのできない身の上だった。そのことが彼をやるせない気分にさせていた。金が遣いたい。なにもずっとでなくてもいい。二、三度だけ、後のことは気にせずに金を遣ってみたい。彼の心はそんなささやかな願いで占められていた。


 若い時分、自分がまだ独身で、少ないながらも金を意のままに遣えていた頃には、まだしも生活に張りがあったようにミハイル・ペトローヴィチ氏には思われた。


 その頃の彼が、金のやりくりが上手な訳でも、遣い切れぬほどの給金を貰っていた訳でもないことは今と同じである。しかし、自分で稼いだ金を自分で好きに遣ってもよいという自由があった。それは全き自由だった。


 自由に責任が伴うことは無論である。彼はそのため、月の三分の一で金を遣い果たし、残る三分の二をわびしい最低限の生活で済ませることもしばしばだった。しかし往時のミハイル・ペトローヴィチ氏は幸福だった。


 たえざる空腹も、店先の心をくすぐる様々な品物への憧れも、みな給金を手にしたときに感じる幸福と同等の価値を持っているように感じた。いや、どうにかすると、その窮乏、その満たされない心は、実際に幸福を手にした時よりも大きな幸福を彼に与えていた。何となればその時彼は夢見ることが出来たからだ。その美味、その贅沢が、彼には素晴らしいもののように思えた。ところが実際給金を手にして彼が腹を満たすと、食べる最中の時間は短く、度を過ぎた満腹は彼を苦しめた。また、限られた給金は彼に想像通りの贅沢を許しはしなかった。要するに現実の満たされた幸福は不幸を多分に含んでいたので、ペトローヴィチ氏には不幸の中の想像の幸福の方がよっぽど性に合っていたのである。


 そんな彼が、なぜ今のような生かさず殺さずの状態に落ち込むようになったのか。それは全く彼の落度としか言いようがない。彼はまやかしの安定に目をくらまされたのである。


 役所に勤めたのがそもそもの誤りで、彼はそこで次第に魂をすり減らしていった。そこでは変化が好まれない。何をするにつけても伝統という名の旧習が仕事を覆っていて、少しでもそこから外れた行動をすることは、すなわち大変な悪徳をしでかしたということを意味していた。


 そんな環境に身をさらされて、ミハイル・ペトローヴィチ氏はだんだん物を考えない人間になっていった。目先の安定が、彼の関心事の多くを占めていった。

 そうして彼が、自身を役所勤めに順応させて数年経った頃である。ペトローヴィチ氏は役所の上司から縁談を持ちかけられた。


 聞くと、その上司は遠縁の娘の世話を長年しており、その娘が年頃になったので、誰か適当な人を探しているとのことであった。彼はその話を受けた。

 これが、第二の誤りだった。


 結婚生活は彼にささやかな安心を与えた。しかしそれは同時に、彼の中にまだかろうじて残っていた野生を失わせることになてしまった。


 役所勤めは彼にとって微弱な毒だった。そうして結婚生活もまた、彼にとっては身を弱らせる毒となった。彼はこの二種類の心地良い毒ですっかり眠り込んでいた。そして彼自身は、自分が眠り込んでいるという事実に全く気付かないでいた。


 しかしそんな彼でも、時折目を覚ますようなときがある。それは街中で希望にあふれる若者を見かけた時であったり、自分の過去に書き留めた日記を読み返した時などさまざまである。そんなとき、彼は自分の人生を別な方向に引っ張ろうとする力を感じる。そうしてその力こそ、自分が求める本然のものだというような気がしてくるのである。


 だがそう思うのも長くは続かない。彼はあまりにも生活というものに侵されてきた。そのことが彼を、こうした本然の力から抵抗もなく引き離していった。そんなとき、一瞬ミハイル・ペトローヴィチ氏は自分の中からその力が去っていったのを感じる。彼は少し寂しそうな顔をする。しかし日常の諸々の業務へと、また彼は向かわざるをえないのだ。


 明日も、彼は退屈な仕事をこなすだろう。そして自分が既に死んでいることに気付かないまま、いや、気付かないふりをしたまま、いつか肉体の死を迎えるに違いない。


 給金はいつまで経っても彼の自由にはならず、ミハイル・ペトローヴィチ氏の頭上には消えることのない曇天が果てしなく続いていた。

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