虎狩①

 うだるような夏の、真夜中のことである。森の中ではときおり鳥のはばたく音がどこからともなく響き、空気は熱されてゆらめいている。昼間動いていた獣たちはその身を寝床に横たえ、明日の力をたくわえようとしていた。あたりの空気はじっとりとした水分を含んでおり、動かなくとも重苦しい熱帯の暑さを感じさせる。辺りは静かだったが、暑さ自身が熱を持って夜を振動させていた。


 そんな森の中を一匹の獣が横切っていった。その獣が踏み、体を当てて通る草や木の音は一様にその獣の体躯の大きいこととしなやかなことを示していた。その眼は闇夜にらんらんと光っている。静かで、それでいながら燃えるような意思を感じさせる瞳である。獣は確かな足取りで一歩一歩と進んでいく。時おり、この獣の足どりを察した鳥があわてて飛び立つ音がした。獣はそんなことには一向かまわず進む。口から漏れる吐息は獣の野生を示していた。獣の通った道の草はなぎ倒され、その行程をはっきり示した。そして、あるところで獣は歩みを止めた。


 そこは清冽な水がこんこんと湧き出る泉のようで、その獣はそこへ水を呑みに来たのであった。しばらく泉のほとりに佇んでくんくんと鼻面を水面に近付けたあと、最初は控えめに、やがて大胆に獣は水を呑みはじめた。ぴちゃぴちゃと水を舐める音と泉のさざなみの音があたりに響く。全く獣は無心になって水を味わっているようだった。


 水呑みの後も、しばらくの間獣はそこに佇んでいた。喉の渇きを癒した充足を心ゆくまで感じるように、じっとして動かなかった。月光の青白い光は獣と泉を照らし、一種神秘的な様相がそこにはあらわれていた。


 そんな獣を、遠くの茂みからじっと見つめているひとつの影があった。それはいつからそこにいたものだろうか。おそらく、獣が移動をしている最中からこっそり足跡をつけてきたものであろう。そして獣が水呑みをしている間じゅう、かなりの距離を取ったところから息を殺して一部始終を見ていたに違いなかった。


 影は相手に自分の存在を悟られないように細心の注意を払いながらも、その獣の持つ美しさに心を奪われていた。そのしなやかな肢体!堂々とした偉容には孤独が鍛え上げた魂が透けて見えるようであった。そして影の心を何よりも引き付けたのは、獣の毛並みだった。黄と黒と白が混じったその美しい毛皮は野生の中にあっても埋もれることのない美をたたえていた。月光の下ではそれがよく見えた。同時に喉を潤して満足そうに座る獣の端正な顔も見えた。


 しばらくの時が経った。獣はようやくその泉を離れる気になったらしく、そろそろとその巨体を動かして、どこかの茂みの中へと姿を隠していった。別の茂みから獣を見ていた影は、いましがた目撃した月光に照らされる獣の荘厳さに打たれたかのように、また不用意に音を立てて獣の木を惹かないようにするためか、石のように動かなかった。

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