(一)神の手
あれからすぐ、家を出た。
廃れた村。過疎化が特別進んでいることが一目瞭然のその村は、
天国を目指す、途方もない長い旅。情報もまだ何もなく、何からしたらいいのかすらわからない。そんな無謀な旅に、陽茉は全く迷いもせずについてきていた。
丞は元いた家に残り、帰ってくる場所をいつまでも守ると約束してくれた。それならば、陽茉は庵本人を守る役を買って出ようと、決意したのである。そこには、彼ら三人が家族として信頼しあっている、愛があった。
「随分、静かな村だね。どうしてこんなところに来たの?」
人の気配も全くしないその村は、既に滅んでいるかのように見える。庵は予想以上の過疎化だと少し驚いていたが、陽茉には、自信満々に答えて見せた。
「ここは、『天』ってやつを信仰している村なんだ」
宗教の在り方。宗教の観点から見た、天国という存在。そんなものですら、今の彼らにとっては重要な情報だった。それだけ天国という概念は曖昧なもので、庵にも理解し得ないものだった。
それでも天国という存在を確信しているのは、庵が、天使と思われる化物に会ったことがあるからだ。幾度となく夢に見る、幼少期のトラウマ。それがただの夢ではないと証明する喉の金色の糸は、陽茉も昔から知っているもので、彼女もまた、天国の存在を信じていた。
「教会があるはずだ。そこに、手がかりがあるはず」
「探してみよう」
陽茉は薄く笑いかけ、その不気味な村に恐れることなく、突き進んでいく。太陽に例えられるその女は勇敢で、少々の不安を抱えている庵を、無意識のうちに元気付けていた。
そのうち、彼女はすんなりと教会を見つけ出した。他の古びた建物に比べて、一際手入れがされているように見える、大きな建物だ。そこには今までになかった生活感があり、誰かがいるだろうと想像できた。
「きっとここだよ、庵」
「ああ」
一度目配せをして、教会の扉を数回ノックする。反応はない。
「鍵、かかってない」
そっと呟くと、庵は陽茉を背後にやり、代わって扉に手をかける。そしてゆっくりと開き、一歩一歩と静かに教会に足を踏み入れた。
静かな教会の中に、コツコツと、靴の音が鳴り響く。
教会にはたくさんの椅子があり、奥には大きな祭壇がある。祭壇には無数のキャンドルと、一つ、丁寧に磨かれた偶像が置かれてた。
「なんの像だろう?」
陽茉は偶像を手に取る。じっと眺め、形を確認する。大きな羽を畳んでいるそれは、おそらく、天使を模ったものなのだろうと一眼でわかった。
その時。
「触れるな」
低い声だ。庵の透き通った声とは全く異なる声が、陽茉の背後から聞こえる。
それからすぐ、陽茉の手元から偶像が消える。魔法だろうか、魔法のような、金色の手が、陽茉から偶像を奪ったのだ。
庵はすかさず陽茉を自らの足元に寄せる。
「誰だ」
利き手は拳銃に、もう片手は陽茉の身体に添え、男を睨みつける。
「此方の台詞だが。私の教会に足を踏み入れたのは、君達だろう」
男は深くフードを被り、前髪も長く、口元を包帯で覆っていて、ほぼほぼ顔がわからない容姿だった。肌は燻んでいて、常人の健康的な肌とは程遠い。しかし服装は神父のような清潔感のあるもので、庵には矛盾しているように見え、不気味に感じられた。
そんな男は低く笑うと、庵にそっと歩み寄っていく。
「お前がここの長だな」
「そうだとも」
庵の顔をじっと覗き込んだ男には瞳がなく、あるはずのそこは、黒く窪んでいた。その暗い穴で庵を凝視すると、男は嬉しそうに笑い出す。
「我等は
腐敗。その言葉が、庵には妙に引っかかった。彼の一言から少なくともわかるのは、おそらく彼は、庵が“天使に手を加えられた人間”であることに気付いているということだった。
「我が神にならないか、君。我が、聖職者に」
太い指で、庵の首を撫でる。反射的に手を叩いて退かすと、男はまた笑い出した。
庵の呼吸は乱れていた。天の使いとして期待されていると理解したからだ。天を嫌う彼にとって、これほどまでの屈辱はない。
脳が痺れそうになり瞳が揺れているのを、陽茉は、そっと手を握った。彼女は太陽だ。次第に庵の容態は良くなり、深呼吸をする。そして、そっと男に伝える。
「俺は、天なんて嫌いだ」
男をじっと睨みつけた庵は、陽茉の側にしゃがむと、耳打ちした。
「陽茉、彼奴は、俺と同じだ」
「同じ…?」
「彼奴も、天使に手を加えられた口だ」
そう言われて男の顔をよく見てみると、その前髪と包帯の隙間に、金色の糸が視認できた。顔に罰印をつけるように広く縫われたその傷は、庵の傷よりも新しいものに見える。
「彼奴は、天使が悪い奴なのをわかっていながら、信仰している」
心底嫌悪した様子で陽茉に告げると庵は立ち上がり、男に向き合った。平静を保つように拳を軽く握り、再び銃口を向ける。
男は庵にある種惚れ込んだかの様子で、じっと仕草を観察していた。信仰対象を見るかのように、にやにやと笑いながら、未だ、期待を孕んで。
「俺は、庵だ。お前の名前は何だ」
「庵…そうか。天から賜った名はないのか」
残念そうに言うと、彼は続ける。
「ジーザイル。…私は、ジーザイルだ。天使に名付けられた、大切な名だ。良い名だろう」
ジーザイル。天使に名付けられたというその名は、彼が、最近に天使に会ったことを表す重大な証拠だった。
庵はより一層軽蔑した目をするも、この好機を逃すことはないと、口角を吊り上げる。その笑みはまるで“悪魔”のようだと、陽茉は直感的に思った。そして恐怖を覚えた陽茉は、咄嗟に庵の拳銃を奪い取る。
「何すんだ」
庵はその強大な悪意を陽茉に向け、鋭く睨みつけた。それに動揺することのない勇敢な少女は、冷静に庵に向き合った。
「庵、聞いて。あの人、庵と戦う気ないよ」
その指先にはジーザイルがいた。確かに彼に、敵意はなかった。庵が聖職者として仲間に加わることを期待しているからだ。そのことがわかっていた陽茉は、銃を向けることは悪手であると考えていた。銃を向けるよりも、平和的に交渉する方がずっといいと、わかっていたのだ。
そんな陽茉の意図をすぐに理解すると、庵は普段通りの柔らかい表情になる。ひとつ息をつくと、陽茉の頭を撫でた。その手に感謝と罪悪感が篭っていることを、陽茉はよく知っている。
「ジーザイルと言ったな。話がしたい、情報が欲しいんだ」
庵は一歩ジーザイルに近付き、目を見て話をした。
「君の見た天使は、どのような人物だった?知っていることを答えてくれ」
少しの沈黙の後、ジーザイルは答える。
「君は、天に強い悪意を抱いているな。情報を得て、どうする気なのだろう」
ジーザイルの庵を見る目が、期待から疑念に大きく変わる。庵の目的を探るその言葉に対して、庵は回答として沈黙を選んだ。
「ほう…それならば、話す義理はない」
失望した彼は、その長い布を翻し、教会の奥へ向かう。このままでは情報が得られない。庵は思考をただ巡らせて、陽茉も焦っていた。
このままではいけない。
「このままではいけない、だろ?」
上だ。上から声がする。教会の高い天井。その上から声がした。声に三人が反応し、上を向いた頃には、その正体は既に、地面にいた。
「ぐッ…!?」
声の主は、ジーザイルにのしかかり、頭を押さえつけている。声をあげて笑う男の瞳は庵によく似たマゼンタだが、白目は黄色く染まっていた。奇妙なその男はジーザイルの金色の手の抵抗をもろともしない様子で、更に力をかける。
「苦しいか、苦しいよな」
「やめて!」
苦しそうなジーザイルを見て陽茉は、男に思い切りぶつかって叩き落とした。ジーザイルは一瞬解放されるが、すぐにまた後方からリボンが飛んできて、縛り上げられた。リボンの持ち主の肌の色は燻んだ紫で、口は裂けたかのように大きく、それもまた奇妙なものだった。
庵は一連の流れをただ眺めて、酷く困惑していた。自らの持っている知識で説明のつかない状況。その整理に努め、深呼吸をする。
「お前らは何だ?」
人でないそれらは、その声に反応して庵を一瞥する。男は埃を払って立ち上がると、紳士の如く深くお辞儀をして答えた。
「俺はキルディ。
ヴァレエラは声は発さないものの、彼女もまた、バレリーナのように優雅にお辞儀をして見せる。
悪魔。そう名乗った彼らは、やはり奇妙な容姿で、確かに人間ではないのだろうということが理解できた。天使がいれば、悪魔がいてもおかしくはない。庵はそう驚きもせず、キルディの様子を窺っていた。
「話を聞きたかったんだろ?コイツからさ」
「そうだけど…苦しそうだ。放してやってくれ」
そう言うと、二人はつまらなさそうに従う。ジーザイルは自由になるとすぐに悪魔達から距離をとり、警戒している様子だった。
「言っとくけど、和解は無理だと思うぞ」
キルディは冷めた様子で庵に告げる。
その言葉とほぼ同時に。
褐色の、キルディの頬から、勢いよく血が噴き出した。
金色の手である。キルディの言っていた通り和解の余地は一切ないようで、警戒していたその目には、明確な殺意が込められていた。
キルディと庵は舌打ちすると、同様に走って逃げ出した。
猛攻が続く。鋭い爪が彼らに襲いかかり、切り裂こうとして、金色の手が暴れ狂う。
「陽茉、話が違うじゃねえか」
各々回避に努め、一時的に死角に身を潜めると、庵は陽茉に文句を言った。ジーザイルには敵意がないと、陽茉が言ったのだ。不満を持つのも当然である。しかし陽茉は至って冷静で、自信をもって答える。
「違くないよ、庵。だって、庵には、一度も手を出してきてない」
呼吸が乱れながらも庵に説明した陽茉は、自分に付けられた傷を見せる。一方庵は、一滴も血を流していなかった。勿論回避能力の差もあるが、服に汚れすらついておらず、“狙われていない”だろうことが想像できた。
「庵には、敵意ないよ」
陽茉は再び、強調して言う。
「既に信仰対象にされてるようなもんじゃねえか」
不愉快そうに呟いた庵は、悪魔二人の様子を伺った。言っただろ、と言いたげなキルディは、ため息をついてからふっと笑った。
「戦う?帰る?どっちでもいいよ」
「…一緒に彼奴の相手をするって、言ってるのか?」
「勿論。事情は後で話すからさ」
キルディは笑うと立ち上がり、すぐにジーザイルに飛びかかった。それに合わせてヴァレエラも、リボンを伸ばして援護する。悪魔である彼らの身体能力には、無論普通の人間には敵わないものだが、ジーザイルは、二人相手であろうと構わずに対処して戦えていた。
庵は銃の状態を確認してから、陽茉に告げる。
「俺も行ってくる。お前はここで待ってろ、いいな」
天使に力を植え付けられた庵もまた、普通の人間よりは充分身体能力が長けていた。そんな中で陽茉だけは全く普通の人間で、まともに戦おうとすれば、死ぬ可能性すらあるのだ。
陽茉はこくりと頷くと、膝を抱えて陰に隠れた。
颯爽と駆け走る庵。その素早さは猫の如く、すぐに前線に参加すると、ジーザイルに迷いなく発砲する。その照準は非常に正確なものだったが、金色の手によって阻まれた。
悪魔の二人は互いを理解しきっている様子で、言葉を使わずに連携して戦っていた。キルディは機動力があり、囮になって翻弄する。そしてジーザイルが無防備になったところを、縛り上げようと仕掛けるのだ。しかしそれも、傷を負わせることはできても、致命傷には及ばなかった。
攻撃の嵐が飛び交っては止み、静かな中各々呼吸を整える。そんなことを数回繰り返し、彼らの体力は徐々に消耗されてきていた。
人数不利であっても拮抗状態に陥らせられるほどに、ジーザイルの、いや、天使の力というものは、とにかく強大だった。
そんな、暫くの攻防の末。
グシャ。
静かな戦場の中、グロテスクな音が響く。
骨が折れる音。肉が潰れる音。
低い、低い呻き声。鈍痛に耐える、腐り果てたゾンビのような声。
濃い血の臭い。赤黒い血が、段々と広がっていく。
ジーザイルは自らが隠れていた柱を倒されて、その下敷きになっていた。
「はあ…っは」
少女は、陽茉は呼吸を乱し、視線を揺らして、その場に力が抜けたように膝をついて脱力した。彼女が、柱を倒したのだろう。
「…陽茉、陽茉」
それを見て、庵はすぐに陽茉に近付く。同様にしゃがみこみ、陽茉の顔を伺いながら背中を撫でてやっていた。
陽茉の意識は混濁していた。自らの手で、他人を傷付けた。殺したかもしれない。今までの日常には有り得ない、取り返しのつかない体験に、目が回っていた。
「ぼくが、やるしかないって、そう思って」
言い訳をするように吐く。庵は、ただ背中を撫で続けていた。
そんな陽茉を見かねてキルディは、下敷きになっているジーザイルを助け、ヴァレエラのリボンで簡単に止血し、応急措置をした。それによってジーザイルの呼吸は少しだけ、落ち着いてくる。
「庵、情報がほしいんだろ」
キルディはそれだけ言うと、その場を離れる。話に加わる気はないらしい。
促された庵は、陽茉に軽くハグをして、背中をトントンと叩いて宥めてから、立ち上がった。陽茉は変わらず俯いて、体を震わせていた。それでも庵は、陽茉がこれだけ体を張ってくれたのだから、情報を得る必要があった。
「天使…天使について、教えてくれるか」
少し震えた声で、ジーザイルに問う。
「…天使は…私に力をくれた。目がたくさんあり…醜く、美しく。肌は爛れ…汚くて、腐っている」
ジーザイルは弱々しい声でゆっくりと話し始めた。瀕死の状態でも彼は、自らの信仰対象を話すことに、どこか喜びを覚えているように見えた。
「天使は、私の他にも力を授けたと言っていた。…まだ、天に還っていないかもしれない。私以外にも、天使を知っている人は何処かに、いや、意外にも、何処にでも…いるのかもしれない」
そう言うとごほごほと咳き込み、苦しそうに息をする。
キルディは瀕死のジーザイルを仕留めるか少し悩んだ様子で、じっと彼を見つめていた。それから、結局仕留めずに彼をそのまま置いて、そっと出口の方に歩き出した。
「もう充分だろ。着いてこい、拠点に入れてやる」
「随分…親切だな」
「事情を話すって言ったろ。ここじゃあ話せない」
歩き続けて背中を向けたまま、庵に向けて手招きする。
庵はずっと俯いてしまっている陽茉のことが気掛かりで、すぐに動けない様子だった。すると、ヴァレエラが静かに近付いてくる。
「…ヒマ。ヒマって、言ったわね。怖がらなくて、いいわ。貴女の行動は、正しい」
初めて口を開けた彼女の声は柔らかくて、途切れ途切れにゆっくり話す口調は独特であるものの、とても優しかった。陽茉はさっと顔を上げると、じっとヴァレエラを見つめる。
それから、にへ、と口角を少しだけ上げて、確かに笑って見せた。動揺が完全に落ち着いたわけではないようだったが、その笑顔には、普段の輝きが少しだけ取り戻されていた。
「ありがとう」
庵は安心した様子でヴァレエラに声を掛ける。彼女はまた喋らなくなり、ただ黙ってキルディの元へ続いた。
「陽茉、行こう」
手を差し伸べると、陽茉は力強く手を握って、共に悪魔達について行く。
そうして彼らは、キルディの言う“拠点”へ向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます