復讐は死んだあの日から始まった

紫苑

プロローグ

「ねぇ、何でまだ生きてんの?」


 そう言われた時、その言葉の意味を正しく理解することが出来なかった。


「えっと……ごめん、どういう意味かな……?」


 相手の言葉を素直に受け取ることが出来ず、自分が思っていた以上に時間を費やした。


 けれど、相手からしたら直ぐに理解出来ない私にも、思わず聞き返してしまう私にも、腹が立って仕様がないのだ。


「本気で言ってんの? とっとと氏ねって意味だよ!」


 大きな舌打ちと共に吐き出されたその言葉はとても残酷で、私の心を壊すのには十分すぎた。


 この出来事は、私がまだ中学一年生だった時に起きた。大人になるには幼すぎる頃にそんなことを言われ、私は酷く困惑した。何故そんなことを言われなければならないのか。考えても分からないその問いに、答えてくれる者は一人としていなかった。


 理由が分からぬまま、私はそれに抵抗した。抵抗して抵抗して抵抗した。何度もそれをされている内に、私の中でひとつの答えが出た。最悪な答えが。


 ストンと何かが胸の中に落ちる音がした。気付いてしまった。理解してしまった。


 ――ああ、これがいじめなんだ。


 それがいじめだと理解してから、私は抵抗することをやめた。暫くすると、身体はいじめに慣れてしまい、痛みを感じなくなっていた。それでも、心だけがどうしても慣れてくれなくて、ずっとずっと痛みを感じていた。


 見えない場所への暴力に加え、精神的にもそのいじめは狡猾だった。


 クラスメイト全員から無視され、物は隠され壊され、教科書やノート、クリアファイルは切り刻まれ、ゴミ箱に捨てられた。


 私は成績が良い方ではなかった。周りからは、見せかけの女と言われていた。見た目だけ……頭が良いように見える。だから見せかけの女。


 板書しても、意味が無い。覚えられないしそもそも捨てられる。書くだけ時間の無駄。


 けれど、教師はそれに気付かないふりをして、何も書かない私を怒る。憂鬱な毎日を過ごしていた。捨てられる度にゴミ箱を漁り、その姿を撮影され、脅しの材料とされる。いじめられる私を囲って、クラスメイトが笑う。いつしかそんな異常な空間が、私の中で当たり前になっていた。


 放課後になると、必ず呼び出しを受けた。殴る蹴るのストレス発散の的にするために。


 行かなければいい。きっと、この話を聞いたら一度は思うだろう。私もそう思った。だから、一度だけ行かなかった時がある。


 次の日、教室に私の席はなかった。まさに、お前の席ねぇから状態で、クラスメイトはクスクスと笑っていた。


 人というものは、限界が超えると壊れるらしい。


「私なんかにそんな変な労力使ってご苦労様です」


 語尾に笑うマークが付きそうだと思えるほど、小馬鹿にしたように言葉を零していた。


 どうなるか分かっていた。分かっていたのに、抑えることが出来なかった。


 その日、私は早退した。手首の骨を折る重症で、病院へ行かなければならなかったから。


 早退し合流した母に嘘を言うのには心が傷んだ。それでも、自分がいじめられていることを、母に伝えたくなかった。きっと、要らないプライドが邪魔をしたんだと思う。


 ――助けて。


 そのたった四文字が、私の口から出てこない。本来ならば親に相談するのが一番なのだろうが、親子関係が上手くいっていなかったこともあり、助けてもらいたくなかった。


 そればかりか、手首を折っているというのに、部活をサボるな! と私に怒った。


 私は水泳部に所属していた。


 けれど、手首の骨が折れている以前の問題で、私の身体には無数の傷跡が残っている。水着姿になるなんてこと、私には出来なかった。いっそのことアピールしてしまえば良かったのだろうが、当時中学一年生だった私にその勇気は出なかった。


 ちょうどその頃、私に反抗期というものが来ていた。いじめと反抗期への影響からか、部活動に参加しない私に対し、学校側は何度も家に電話をかけ母を叱った。ちゃんと部活に行かせろと。このままだと退部になるから娘を説得しろと。頭を悩ませた母は、反抗期真っ只中の私に高い声を出して叱った。それが私を余計に苛立たせ、口論が始まる。


 誰の声も聞きたくない。顔も見たくない。全てが嫌になっていた時、学校より先に母が折れ、退部を許可してくれた。それから、母は私に何か言うのをやめた。


「澪、学校にはちゃんと行きなさい」


 ただそれだけ……それだけを伝えてきた。私を心配する言葉など……掛けては来なかった。


 栗花落澪つゆりみお。それが私の名前だ。けれど、私のことを名前で呼んでくれる人は、家族以外にいなかった。


 それから二年の月日が流れ、私は中学三年生になった。友だちなんて居ない。状況は、中学一年生の頃から変わらない。クラスメイトが少し変わったということしか。


「ねぇ、お母さん」


 気付けば母のことを呼んでいた。私に期待をしなくなった母。それでも母親だからか、私の声に反応する。


「どうしたの」


「あのさ……」


 どうしてそのタイミングだったのかは分からない。けれどきっと、限界を迎えていたのだと思う。肉体的にも精神的にも。


「私……いじめられてるんだ」


 今まで、プライドが邪魔をしていて話せなかった。期待することを諦めた母親に、相談なんてしたくなかった。それでも、もう……無理だった。誰かに打ち明けなければ、私が私ではなくなってしまう。本当に……この世界から消えてしまう……そんな気がした。


 だから話した……


 けれど――


『あなたにも原因があったんじゃないの』


 全ての話を聞き終えた母が吐き出したその言葉は、酷く残酷なもので、私は自分の耳を疑った。狼狽することしかできなかった。


 何も言えずにいる私のことを、母は哀れむような目で見ていた。母は小さく溜息を零した。びくん、と不本意に身体が揺れる。自分の身体なのに、どうしてなのか分からない。私は酷く困惑していた。


 母親は哀れな子どもに言葉を投げかける。


『あなたはあなたよ。どう生きるかはあなた次第。休みたいなら休めばいい。辞めたいのなら、辞めて少し休憩しよう』


 じゃあ――

 私が口を開きかけたその時――


『けれど......それで後悔をするのはあなたよ?』


 私の目は点になった。心の底から意味が分からないと思った。何故、私が後悔することになるのか。自分を地獄に落とした所から抜け出せる。それで後悔などするはずないでは無いか。


 そんな私の感情を、母は自分の考えで一掃した。


『今の場所から逃げたとして、相手は反省なんかしないだろうし、寧ろ付け上がる。あなたは逃げて楽になれるかもしれない。けれど、それじゃあ相手の思う壺じゃない。あなたはそれでいいの?』


 ――逃げる。


 その言葉が、私の心にチクリと突き刺さる。


 今の場所にいたら、心が壊れてしまう。その場所から離れることを、逃げというのか?


 母には、私が現実から目を背けているだけの哀れな娘に見えているのか。


 分からない……何ひとつとして。


 二年間……いじめに我慢して、耐えてきた。それでも、もう限界だから話した。私が私でなくなってしまうから。それでも結局……お母さんは私の味方にはなってくれないんだね……


「そっか……ならもういいよ」


 私は家を飛び出した。私を呼ぶ母の声が聞こえたが、私は振り返らなかった。


 私は走った。走って走って走りまくった。頭が痛かった。頭の中はぐちゃぐちゃで、何も考えたくなかった。


「…………っ!!」


 母の言葉が私の頭の中で谺する。いじめられるのは、私が原因。いじめられる原因を作った私が悪い。


 そっか。あなたも教師たちと同じで、加害者のことを庇うんだね。血の繋がりがある両親でこれなのだ。もう、誰に期待しても無駄なんだ。助けなんてない。わたしは卒業までずっと、この地獄の中で生活しなければならない。


 私は足を止め肩で息をする。呼吸を整えることもままならぬばかりか、自然と涙が零れた。制御することの出来ない感情を溢れさせながら、私はこの世界に絶望して呟いた。


「ああ……地獄そのものだ」

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