第2話 栴檀について

拝啓


 見る間に暑さが増し、まだ五月も半ばだというのに日照りを灼熱にも感じます。貴方がいつか、冬よりも夏の方が苦手だとおっしゃられていたのを思い出し、老婆心ながら筆を執った次第です。避暑されておりますでしょうか。若い頃の様に、節約だと言って冷房を使わず過ごされていると、熱中症になってしまいますから。どうかご無理はせず、お体をご自愛されてくださいませ。

 さて、この時期になりますと、おうち神社の境内から見上げた空を新緑と薄紫色に覆ってしまう程の栴檀せんだんの花々を、洋菓子に似た甘い香りと共に思い出すのです。都内でも公園等に足を運べば栴檀を見ることはできるのですが、やはり、楝神社の栴檀は格別です。

 今年こそ久方振りにあの栴檀の花々を拝みに行こう、と決意ばかりは固いのですが、娘の都合がどうなるか分からない為、未だ予定を組めず仕舞いであります。無論、連れて行こう等とは毛頭考えておりません。娘が家を空けている時に伺いたいのです。念の為。

 貴方のご体調を案じると、気が気でなくなります。本音を申しますと、栴檀よりも貴方の姿を伺いに、欲を言えばこれからの暑い季節を乗り越える為のお手伝いをさせて頂きたいのです。お子さんのこともございますので心配です。

 儚く美しい栴檀の色香が、貴方の励みになることを切に願っております。そして、この季節に、貴方の元へ伺えますことを。


敬具


日吉ひよしチョウジロウ



 母から渡された父の手紙には、封筒同様宛名が書かれていませんでした。ただ、送り先の住所が、あかねちゃんの教えてくれた『とんがらし』のものと同じだったので、居酒屋の女将さんにでも送りたかったのではないかと思いました。

 でも、文中に「娘」と記述されているということは、この時は既婚。しかも、娘が家を空けている時に伺いたい、とまで書いています。私にバレたくない……どう読んでも、これは古めかしい文章で書かれたラブレターでしょう。不倫愛の証拠でしょう。と、なると、受取拒否はもしや、女将さんの旦那さんにバレたのでは。じゃあダブル不倫じゃないか。 

 東京からみるみる遠ざかって行く新幹線の中で、あれだけ母を愛していたと思っていたのに……と奥歯を強く噛み締めながらも、内心、色めきだっていました。親の姿ではない親の隠された過去というのは、なぜこんなにも背徳的な興味をそそるのでしょう。

 私は母の介護施設への送迎を見送った後、その足で茜ちゃんと父の手紙を片手に茜ちゃんの示す『皮頭かわず村』へと向かいました。皮頭村は数年前に住民の減少により廃村し、市の一区画になっているようです。茜ちゃんは気を遣って、住所をかつての私にとって馴染みのある呼び方で皮頭村と書いてくれたのでしょう。

 父の不倫愛を色々と妄想しながら新幹線の流れる車窓を眺めること、2時間。到着した駅は、新幹線が通っているとは思えないほど簡素な造りをしていました。周りにはビジネスホテルとコンビニが1棟づつ、あとはこじんまりとした昭和の商店風の土産物屋さんがあるくらい。景色は360度山、山、山。絵に描いたような廃れた地方都市、新幹線さえ通れば栄えるだろうと安直に設けた駅だけが浮く田舎の光景に、介護から解放された自由を実感しました。

 人間の感情って簡単なものです。つい数時間前に母の膝元に泣き崩れたことなんて、目の前の悠々とした田舎風景に上書きされて、けろっと忘れてしまうんですから。

 駅から徒歩5分ほどのレンタカー屋さんで軽自動車を借りました。ここから更に約1時間、山道を走ってやっと皮頭村に到着します。

 駅に着いた時にはもう夕方で、車を走らせている内に日没を迎えました。久しぶりの運転が薄暮時の山道で緊張が止みませんでしたが、そんな中でも沈む夕陽に照らされた山肌のコントラストには目を見張りました。折角自由になったんだもの、ベランダで家庭菜園なんてケチなことせずに、こういう自然豊かなところで小さな畑でも借りて農業をしたい、と夢想するくらいの美しさで。

 しかし、山の奥へ入るともう真っ暗。昼間でも日の光の入る隙間がないんじゃないかと思うほどに木々の背が高く、山風が吹くと視界一杯の葉が一斉にひしめき合って津波に似た音を鳴らしました。人里の気配は全くなく、見えるのは黒々とした木と葉と時々飛び立つ鳥ばかり。本当にこの先に居酒屋なんてあるのかと不安に苛まれながら、十分な舗装が為されていない地肌が剥き出しの山道を慎重な運転で登りました。

 不安への返答は、唐突に現れます。

 森に埋もれるようにして灯る、酒肴と筆文字で書かれた赤提灯。同じ書体の『とんがらし』という看板の文字が目に入りました。土地は余るほどあるだろうに木造の店は随分と小さく細く、峠の茶屋を思わせる外装。

 異様だったのは、店に私の肩幅もありそうな大きさの無数の鳥の影が群がっていたことです。色褪せた暖簾のかかる入口付近だけでも3匹、平たい屋根の上にはその倍ほどの数もの巨大な鳥が翼を広げたり、自分の羽を啄んだり。まるで死肉にカラスが群がっているような不気味さで。

 恐る恐る店の前まで徐行して窓を覗き込むと、鳥の正体がわかり、一層不気味さが増しました。

 たかでした。それも、剥製の。

 動かないのなら安心できる、というものでもないのです。近くで見ると、くちばしが削れていたり、首が半分もげていたり、羽から虫が湧いていたり、それぞれが多様な形で半壊していました。壊れかかった姿でも、黄色の中心に黒々とした瞳を携えたその眼光だけは、真っすぐに闇に向けられています。死んでいるとわかっていても、怯んでしまい、中々車から降りることが出来なくて。 すると、エンジン音が聞こえたのか、入口の引き戸から居酒屋さんの女将さんらしき方が姿を現しました。

 割烹着を着ていました。居酒屋さんらしい装いはその1点だけ。夜だから紫外線の心配もないというのに、黒くて長い手袋を肘まで着けていて、同じ材質のマスクで顔中を覆っています。フェイシャルマスクっていうんでしょうか、火傷跡なんかを隠すためのあれです。 女性だと思ったのは割烹着と、多分後ろで結われているであろう髪型を見たからで、正直女性という確信は持てていませんでした。

 女将さんらしき方は車まで5歩くらいの距離なのに小走りで駆け寄って来て、運転席の窓をノックしました。応じて私も窓を開けます。 

 どこからか、バニラのような濃厚な甘い香りが車内へと一気に入り込んで来ました。

「いらっしゃい。やっとるよ」

 声を聞いて、この方が女性だと確信しました。かなりしわがれた声。しかし、姿勢は凛としているので、年齢の程は不明で。

「すみません、お店の前に停めちゃって」

「ええのよ。駐車場裏にあるんよ、わかり辛うてごめんなさいね。道がちょっとごちゃごちゃしとるけん、案内しますよ。お車乗せてもらっていい?」

「そんな、大丈夫ですよ」との返答を待たずに、女将さんは店の中に声を張りました。

「ちょっと駐車場まで案内してきますから」

「客か」

「そう、若いべっぴんさん。あんた惚れよるよ」

 店から聞こえたのは野太いながらも老いた男性の声で、恐らく店の主人なんだと察しました。

 表情はマスクで見えなくても伝わる女将さんの愛嬌のお陰で鷹の剥製への恐怖は解れ、主人がいるのか、となるとダブル不倫確定か、いや女将さんがいつ結婚したかによるか、そんな雑念が浮かぶほどにまで気持ちに余裕が戻って来ていました。まだ一言二言しか交わしてないのに、父が惚れる理由がわかる気がする、なんて思ったり。

「今日はお客さん見えないと思っとったけん、主人酔っぱらっとるのよ。やけん、変な絡み方したらごめんね」

 女将さんは笑いながら、助手席に乗り込みます。方言の温かみもあってか、その嗄れた声を聞けば聞くほどに素敵な方のように思えて来ました。

「そこの小道を左に入ってもらいたいんやけど、わかるかしら」と女将さんが指を示す方に車を徐行させます。

 小道に入ると闇が更に深くなり、女将さんの黒いマスクが影のようになりました。

「わざわざ都心からこんな山の中まで来る方なんて珍しいけん驚いたわ。観光? 里帰りかしら」

「里帰り、のような」

「あ、突き当り左ね」

 女将さんの指示の通りに、更に細くなった道をゆっくり左折すると、拓けた空き地に辿り着きます。灯りはありませんが、ここが駐車場のようでした。

 車のライトに照らされて、空き地に木造のやぐらのような建物が隣接しているのがわかりました。それの前には崩れた大量の石柱が散乱していて、どう見ても廃墟の構え。この廃墟の周りを回るようにして駐車場まで来たようでした。

 私は悪寒から、廃墟からなるべく遠くの空き地の端に駐車して車を降りようとしました。

「ちょっと待って」

 女将さんが私の手を引くと、その手に何かを握らせます。

「これ、初めて来られたお客さんにサービスで渡しとるんよ」

 手を開いたら、タグのように折られた和紙の包みがありました。ルームライトを点けると、淡く鮮やかな紫色がキラキラと光っているのがわかって、細やかながらもとっても綺麗。中央には『御守』と書かれた半紙が貼られています。

「可愛いお守りですね」

「でしょ。折り紙の上手な友達が作ってくれたんよ」

 鼻高々に言う女将さんも可愛いです。

 私が「ありがたく頂きます」とお守りを顔の前に掲げて礼をすると、和紙の中で砂が流れるような音がしました。振ってみたら、シャカシャカと軽快な音が鳴ります。

「何か中に入っているんですね」

「それね、漢方薬なの。昔、漢方の先生と仲が良かったけん、そん時に調合の仕方教えてもらって。簡単なものなら作れるんよ。具合悪くなった時のお守りにして」

「女将さんが作ったんですか。すごい」

「やだ、なんちゃって漢方よ。素人やけんね。でも、私も主人も時々飲んでるけど、食べ過ぎ飲み過ぎとか、胃疲れには効果抜群! 居酒屋のお客さんにはぴったりなんよ」

 だから今日は沢山飲めるね、と続けておどける女将さんの明るさは、何年振り、いえ記憶の限りは初めて浴びた女性のエネルギーのように感じて、妙に感動してしまいました。母がこんな明るさを私に向けたことなんてなかったから。

「車ですからお酒はちょっと」と返す言葉が少しだけ震えて、女将さんに緊張していたように思わせてしまったんじゃないかと心配になりました。

 私たちは車を降りて、外のむせ返るような甘い香りの中、女将さんが持って来た懐中電灯を頼りに今車で通った道を、つまり廃墟の敷地の輪郭を沿う形で戻りました。女将さんは私が片足を上手く動かせないことに気を遣って、杖で歩く私のスピードに合わせてくれました。障害について何も言及せず、優しく。

 「あ」。女将さんが歩きながら思い出したような声を上げました。

「お守り渡したこと、主人には内緒にしとってね。素人が遊びで作った漢方飲んでお客さんが体壊したらどうすんだって、前に怒られたの。怒ると怖いんよ、声でかいから。ほら、さっきお店出る時も『客かァ!!!』って山中の鳥が飛んでっちゃうような声出してたでしょ」

 女将さんの「客かァ!!!」に反応して、鳥が何羽が草木を蹴って飛び立った音がしました。そういえば、空を覆い隠すこの辺りの濃い茂みは、同じ種類の木々のよう。先程から不思議だった、この甘い香りはもしかしたら花香なのではと思い訊いたのです。

「この辺の甘い香りは何の花ですか」

「甘い?」

 女将さんはピンと来ていない様子で周りを見渡し、「ああ、甘い香りねえ」とすぐに納得しました。

「栴檀の香りやね。この5月が開花時期なんよ」

 栴檀。父の手紙に書いてあった高木です。大きいものだと20メートルほどにも成長するそう。特別珍しい木ではなく、温暖な地域であれば日本でも多く自生していると、図鑑に載っていました。ただ、花の香りについても『バニラのような甘い香り』と書いてあったのですが、高い所に花をつける為、その香りを感じるのは難しいとのことでした。

 しかし、私がいたのは実際濃厚な蜜に浸かっているような甘い香りの中。周りは暗闇ではっきりと見えませんでしたが、常軌を逸した本数の栴檀がこの辺りに生えていることは想像に難くありませんでした。

「お客さん、栴檀目当てじゃないの? あ、里帰りって言ってたかしら」

 女将さんが背中で訊きました。私は、ここが里だったかどうかわからないので、煮え切らない返答しかできません。

「里帰り、と言いますか、多分住んでいたことはある思うんですけど、すみません。あんまり覚えていなくて」

「そう」と、女将さんは振り返って寂し気に微笑みました。

「仕方ないわよ、記憶に残る程いいところでもないけん」

 女将さんは足を止めて、頭の遥か先に茂っているであろう栴檀の花々に懐中電灯の光を向けました。そして、じっと栴檀を見つめました。

「あれも、これも、みーんな栴檀」

 しみじみと言う女将さんの表情は見えません。栴檀に何を想っているのか、感嘆とも、呆然とも、懐かしさとも取れるような溜め息を言葉に混ぜた語調でした。

 光で照らされた栴檀の葉と花が風に吹かれてゆったりと波打ちました。

「自生じゃないけん、ずっと昔に植樹したそうなんよ」と、上を向いたまま女将さんが口を開きました。

「ここに前に住んでいた方のご趣味だったんですかね」

 私は廃墟の方を指差して訊きます。

「今も住んどるよ」

 私の方を振り返り言った女将さんの声には、抑揚がありませんでした。先程まであれだけ感情豊かに話してくれていたからかその声が極端に冷たく聞こえて、何か怒らせてしまったのではないかと思い咄嗟に謝ったのです。

「ごめんなさい、私、勝手に誰も住んでいないと思ってーー」

 言葉途中で女将さんは私の口元に人差し指の腹を当てて、「しー」と細く息を漏らしました。二人して声を潜めます。

 木々が風に騒ぐ音に混じって鳥の声。耳を澄ますと、その更に奥の奥のずっと奥に、とある声がありました。でもそれは言葉にはなっていなくて、「ああ」だの「うう」だのの唸り声で。赤ちゃんの泣き声のようにも聞こえるし、猫が喉を鳴らしている音のようにも聞こえるし、どちらにせよそれらをもっとくらくしたような声。

「聞こえた? 住民の声」

「多分」としか返せませんでした。その声が人のものなのか、獣のものなのかすら判別がついていませんでしたから。何より、その人気のない様子の廃墟から微かに聞こえる声に慄いてしまっていたので。

「里帰りやったら前に会っとるかもしれんね」 

 女将さんの表情は和やかなものに戻っていて、再び私を先導して歩き始めました。

 昔から今にも崩れそうな廃墟に住んでいるのか、その人は何歳くらいの方なのか、店のすぐ裏ということは店に関係する人なのか。気になることは山ほどありましたが、鷹の剥製が群がるこの『とんがらし』という店に来てからの情報量が多過ぎるあまり混乱し、訊く気にはなれませんでした。

 程なくして、店に到着。考えるのをやめよう、ともかく茜ちゃんにやっと会えるんだ、そう思うと喜びに心が逸りました。そうです、私は『とんがらし』で働く茜ちゃんに会いに来たのです。立派な大人になった茜ちゃんがお世話になっている場所を、ネガティブに捉えつつあった自分を恥じました。

 女将さんが私の手を取りながら入口の引き戸を開けると、そこは想像よりも狭く細く、そして薄暗い店内でした。光を発しているものといえば、吊るされている豆電球が3つと、熱を帯びた焼き場の赤い炭くらいでしたから。外の赤提灯の方が明るく思えるほどで。 

 左手の酒瓶の棚の半分はハブ酒で、その前には油が茶色く焦げた粘っこそうな焼き場があります。右手の窓と換気扇にも油がこびり付いていて、換気扇は動きづらそうに鈍重な音を鳴らして回っています。開いた窓から見えるのは、夜の闇だけ。カウンターを挟み並んだ丸椅子はたったの5席。

 その端の席に座る白いランニングシャツを着たざんばら髪の初老の男性が、ロックグラスを煽りながら手を上げました。サングラスをかけていて、カウンターに白杖を立て掛けています。

「いらっしゃい。おう、こりゃべっぴんさんや」

 男性が笑うと、上の前歯2本分がない口からハスハスと空気が漏れました。

「見えてないクセして」

「お前がべっぴんさん言うたらべっぴんさんに決まっとるやろ」

「あんたが思う100倍綺麗だって言っとんのよ」

「それじゃあ天女様やな」

 どうやら男性が店主であるご主人のよう。ご夫婦の軽妙なやり取りと、店内のお世辞にも清潔とは言い難い光景と暗がりが私の中ではアンバランスで、悪い夢の中にいるような心持ちになりました。

 女将さんが一番手前の席へと私の手を取り、転ばないように背中を支えて座らせてくれました。

「何にします?」と女将さんが訊きますが、お品書き表が見当たらず「おすすめを何か」と返します。

「じゃあ串でも適当に見繕うかね。飲み物はコーラでいい?」

「あ、じゃあ、ウーロン茶で」

「うちはカガシ酒が名物やけんね。カガシ酒飲んでいかんと」

 ご主人が口を挟みますが、呂律が回っておらず、相当酔っている様子でした。

「だから、車やて」

 女将さんはそう言って、焼き場へと回ります。

「そやった、そやった」。ご主人はまたロックグラスを煽ってから、ゲップ混じりに言いました。

「こげん美味いのにもったいない。お姉ちゃんは酒強いんか」

「いえ、どちらかと言うと弱い方で」

「そいじゃあカガシ酒飲んだら一発アウトやな」

 がははは、と大口で笑うご主人。ずっと楽しそうです。

「自分が漬けたから、飲ませたいんよ」

 焼き場で串の準備をしながら女将さんが呆れたように笑いました。

「カガシ酒って何ですか」

「ヤマカガシのお酒よ。蛇の。知っとる?」「はい、名前だけは」

「それを1年アルコールに漬けておくんよ。その間に毒がなくなっちゃうから不思議よね。滋養強壮にいいけん、次来た時に試してみて」

 棚に並んでいるハブ酒だと思っていた瓶は、そのカガシ酒だったのでしょう。味を確かめることは出来ませんでしたが、ご主人の様子を見る限り、ハブ酒同様かなり度数の高いお酒なのだと思いました。

「この辺は楝が呼んどるか知らんがカガシがよう出るけん漬け放題なんや。全部返り討ちよ」と半ば啖呵を切るような口調でご主人が白杖で床を叩きました。

「襲いよるカガシは皆、バン!」

 強く叩きました。

「バン! バン!」

 何度も叩きました。

「やめんね、お客さんにそんな物騒な話」

 女将さんに叱られたご主人は、またがははと笑ってグラスを舐めましたが空で、「おかわり」と女将さんに所望しました。

 栴檀、廃墟、カガシ酒、そしてご主人の言った『楝』。何も覚えていませんでした。もしかしたら私が東京に立ってからの産物なのかもしれないけれど、この十数分全てが新しく知ることばかりで、妙な孤独感を覚えてしまいました。

 でも、その孤独も、茜ちゃんが現れてくれれば多少は払拭できるーーそう思って気が付きました。茜ちゃんはいつ店に出てくるのだろうか。第一、この狭苦しい店に、アルバイトを雇うだけのスペースはあるのだろうか。

「あの、茜ちゃんって今日は来てないんですか」

 私は何故か申し訳なさ気に訊きました。

「アカネちゃん?」

「アルバイトの。大学の学費補う為に働いていると思うんですけど。お休みでしょうか」 

 学費を稼ぎに来ているって店に言っちゃってよかったのだろうか、と伝えた側から反省しましたが、そんな小さな心配事はご主人の言葉によって消え失せました。

 怪訝な顔を私に向けていました。聞く前から孤独感が際立つくらいの顔を。

「アルバイト? バイトなんてうち雇ったことねえよ」

 え。

 言葉を理解するまでに時間がかかったのを覚えています。茜ちゃんは? じゃあ誰が手紙を寄こしたの? いたずら? 何の為に? 混乱している内に、私の中で虚しさが滲んでいくのがわかりました。茜ちゃんに会える、という一縷の希望が断たれた瞬間から、周りの景色がただただ不気味に感じるようになりました。

「どんな子? 教えてもらえたらわかるかもしれんけん」

 黙った私を見かねてご主人が腕を組んで投げかけました。しかし、伝えられる手がかりは私の記憶の中にはありません。

「すみません、覚えてないんです。実は私、交通事故の影響で高校卒業以前の記憶がほとんどなくて。でも、子供の頃に女の子と遊んだ記憶は何となくあるんです。茜ちゃんって子から『とんがらし』ってお店で働いてるって手紙が届いて、もしかしたらその女の子が茜ちゃんなのかもって。ちょっとしかない記憶の中のその子と再会できるんだって嬉しくなっちゃって。ごめんなさい、人違いだったみたいです」

 私が捲し立ててしまった言葉は、混乱と虚しさと悲しさで支離滅裂だったと思います。これだけの言葉を吐いたのに、それは私が何者かに騙されたってことを確認しているだけだったから、言い終わって更に悲しくなりました。

 換気扇の汚い音と、焼き場で火の弾ける音だけが聞こえました。

「ここの住所で間違いないんよね」

「はい」

「『とんがらし』って書いてあったんよね」

「はい」

「んで、お姉ちゃんは覚えてないんよね」

「はい」

「誰やろなあ」と、唸ってご主人は考え込みます。

「お客さんの名前聞いたら思い出すんやない?」

 私の前に、焼き場からカウンター越しにウーロン茶を置いて女将さんが言いました。

「お客さんのお友達やったら、お客さんの名前を言ってた人が誰かいるかもしれんけん。そしたら、その言ってた人が茜ちゃんかもしれんよ」

「確かに! お姉ちゃん何て言うの」

 ご主人は膝を叩いて、前のめりに訊きました。そんなこと言っても、アルバイトをしていなかった時点で私の読んだあの感動的な手紙が嘘だったってことは変わらないのに。空っぽになった心のまま、私は名乗りました。

「日吉ツグミです」

 空気が、止まりました。 名前を言った瞬間、店の中にまどろっこしく渦を巻いていた何かが急停止したような感覚。

 ご主人の表情が、明らかに驚きの色に変わりました。

「何て」。ご主人が立ち上がりました。

「日吉ツグミ、です」

「おお、おお」と、感情のままの声を発しながらご主人が白杖を突かずに私の声の方へ寄ろうとして、転びました。女将さんが「あんた」と声を上げて駆け寄りご主人の身を起こしますが、ご主人の顔は私の方へと向けられたまま動きません。

「ツグミちゃんか、元気にしとったか。チョウジロウさんは、健在か。イヨちゃんは、今何をしとる。何にも覚えとらんのか、そうか」 

 抜け落ちた記憶の中の私を、ご主人が歓迎しています。サングラスの下から涙を流し、帰郷を喜んでいます。

 感情があっちへとこっちへと、振り回されました。信じていた茜ちゃんはいなくなったけど、ここには家族の思い出がある。どれが本当で、どれが嘘なのか。言葉を交わせば交わすほどに、喜んだり、驚いたり、絶望したり。ずっと私は脳の記憶の欠落した部分を掻き回され続けて、何もかもがわからなくなっていたんだと思います。

 だから、ご主人にかける言葉の正解は「覚えていなくてごめんなさい」だったはずなのに、訊いてしまったのです。

「私は何をしたんですか?」

 ご主人は記憶をしっかりと思い出させるように、名誉だから必ず思い出した方がいいと言わんばかりに、唾を飛ばして、頬を震わし、歓喜に満ち溢れた笑顔で私に言い放ちました。

 頭を振った勢いがサングラスを飛ばしたことで露わになった、その黒々とした光沢のない瞳を今も鮮明に思い出せます。


「あんたが紅一こういちの脳味噌をすっ飛ばし、チョウジロウさんが朱子あやこをカタワにしてくれたんよ! お陰で楝家は根絶やしや! ツグミちゃんは皮頭村の英雄なんよ!」


 私が死ぬ理由の輪郭は、この真相から描かれ始めました。




続く


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