君の光になれたなら



 北大路通りを西に進んで、千本北大路せんきた――本屋と自転車屋がある交差点を右に折れる。

 緩やかな坂道を上っていくと、数分もしない内に、彼女の通う学校に辿り着く。


「じゃあね、のぞみ


 彼女が手を振ると、私は「うん」と返す。

 意識して、少しばかり、大きな声で。

 彼女は手慣れた風に白杖で地面を探りながら、校舎の中へ入っていく。


 私立B大学のすぐ傍ら。

 46号系統が停まるバス停の真ん前に、未来の通う盲学校はあった。


 私、小出石こでいし希の幼馴染、百井ももい未来みらいは、視覚障害者だ。






 私の幼馴染である百井未来はロービジョンだ。

 『ロービジョン』の正確な定義は知らないけど、未来に関して言えば、眼鏡でも矯正できないような極端な低視力らしい。

 未来のお母さん情報だから間違いはない。

 全く見えないわけじゃないけれど、本を瞳から数センチのところまで近付けて、ようやく文字が読めるくらい、と言えば、イメージは伝わるのかな、と思う。


 未来は生まれた時からそうだし、私は物心付いた時にはそんな未来と知り合いだったから、「そういうものだよなあ」と思いながら生きてきた。

 毎日遊んで、時には喧嘩して、お互い泣いて、仲直りして……。

 そうやって普通に過ごしてきた。


 彼女はいつも、私の半歩後ろを歩く。

 奥手だとか、引っ込み思案なわけじゃない。

 視覚に障害がある人への支援の仕方がそうなのだ。

 支援者は、半歩先を歩いて、リードされる視覚障害者は、支援者の肘辺りを軽く持つ。

 そんな感じだ。


「じゃ、よろしく」


 未来がそう言うと、私は彼女の手を取って、自らの左肘に導く。

 お決まりの動作だった。


 平日の朝の流れからして我ながら手慣れたもので、朝起きて、身支度を整えて朝ご飯を済ませたら、すぐそこの未来の家へ向かう。

 リビングにいる百井家のお父さんやお母さんが玄関前の私を見つけると、一分もしない内に未来が出てくる。


「おはよう、希」

「おはよう、未来」


 そうして彼女は右手を前に出して、こう言うのだ――「じゃ、よろしく」。

 いつものように。

 これが私達のお決まりの流れ。


 こんな風に過ごしていると、時折、「偉いね」とか、「凄いね」とか言われることがあるんだけど、私は、そういう言葉を掛けられるのは好きじゃない。

 どう考えても凄いのは未来であって私じゃないし、「視覚に障害がある方への誘導」って表現すると如何にも大変そうだけど、友達を手助けするって、普通のことじゃない?

 と言うか、褒められるほどのこともしていない。


 未来といて、大変なことがあるとすれば、何気なく、


「最近流行りの○○の新曲、聞いた?」


 と訊いた時に、


「聞いたよ。インディーズの頃より下手になってた」

「ええ、そうかなあ……?」

「うん。ベース、練習してないんじゃないの?」


 と、悪意なく返してくることくらいだ。


 サバサバ系で、音楽にうるさい女。

 それが私の幼馴染だった。






 私達の“お決まりの流れ”が変わったのは、中学を卒業した直後だった。

 お互いの卒業式が終わった後、彼女の学校の前で写真を撮って、打ち上げにカラオケに向かおうかと決めた時のことだった。


 西大路を下った先、北野白梅町のカラオケ屋へ向かうバスの中。

 隣に座る未来は、


「あ、そうそう」


 と、天気の話でもするかのように、こう告げた。


「高校に上がったら、もう、付き添いはいらないから」

「…………え?」

「いやだから、高校は一人で行くから」


 言葉にしようとした戸惑いは、生温いエアコンの風に呑まれていく。

 無機質な車内アナウンスだけが妙に頭に残る。


「……なんで……?」


 どうにか、ようやくの思いでそう絞り出すと、彼女は当然のように言った。


「え、だって私の高校とアンタの高校、方向、真逆じゃん」

「そうだけど……。でも、」

「大丈夫だって。バスに乗る必要もないような距離なんだから」

「……でも……」


 「でも、」――どうしたと言うんだろう?

 未来は、「大体、アンタは昔から心配し過ぎなんだよね」「この間だってさー」と、なんだかよく分からないことを言っている。

 言葉が、分からない。

 頭に少しも入ってこない。


 その後のカラオケボックスでも、彼女の歌うロックは、右から左に流れていって。

 「相変わらず上手いな」なんて、ぼんやりとそんなことを思ってた。


 そんな風にして。

 私の朝のルーチン。

 何年も続いた、私達の“お決まりの流れ”は、あっけなく終焉を迎えた。







 何故だろう。

 春が来て、高校生になって。

 私は、学校を休みがちになった。


 あんなに楽しみにしていた高校生活なのに。

 受験勉強、頑張ったのに。

 あの洒落たデザインのブレザー、着たくて着たくて堪らなかったのに。


 今は少しも、袖を通す気にならない。


「希―! 今日も休むのー?」


 階下から、お母さんの声が聞こえる。

 ……もう、どうでもいい。


 何故だろうも、何も、ない。

 私は分かっちゃったんだ。


 私は、未来のことが好き。

 でも、同時に、「そんな未来を手助けしてる自分が好き」――なんだ。


 最悪だ。

 最低だ。

 私は、友達を、好きな人を助けて、優越感を覚える人間だった。

 私の好意は自己愛で、友情だと思っていた関係は自尊心を満たす為の土台でしかなかった。


 しかも、それだけじゃない。

 私は、未来に支援が必要なことを利用して、彼女に好かれようとしていた。

 これ幸いと、親友ポジションに納まった。


 未来は、前向きで、お洒落で、はきはきしていて、曖昧なことを言わなくて……。

 私とは全然違うキャラなんだ。

 本当は、一緒にいるのだっておかしかったんだ。


 なのに。

 なのに。

 なのに、私は―――!


「……最低……。最低だ……」


 最低だ、最低だ、最低だ―――!







 その時、転げ回るような音が耳に届いた。

 さながら階段から誰かが転げ落ちたかのような、そんな音が。


 自室のドアが蹴破られるかのような勢いで開かれたことで、その音の意味を理解する。

 そこには未来が立っていた。

 未来が、来たのだ。


 多分、白杖を使って一段一段、階段の段差を確認しながら上ることが面倒くさくて、手摺りを掴むや否や、感覚任せで私の部屋までやって来たのだ。

 そりゃ壁にぶつかりもするだろう。

 段差に足を取られることもあるはずだ。

 無茶なことをするなあ、と他人事のように思う。


「―――希!!」

「は、はい!?」


 私が返事をしたことで私の位置を把握したらしい。

 彼女は、一直線に私の方に向かってくる。

 そしてベッドの縁に躓き、盛大に転び、布団の中に頭から突っ込んだ。


 私は思わず訊く。


「未来……? 大丈夫、」

「大丈夫?じゃないわよ!! 『大丈夫』って訊きたいのはこっちの方!」


 胸倉を掴まれた。

 そうして、私が本当にここにいるかどうか、確かめるように頬をぺたぺたと触る。

 次いで言う。


「どうしたのよ! 高校に行くの、あんなに楽しみにしてたじゃん!」

「……それは……!」

「それは、じゃない!!」


 顔を背けようとした私の頬を掴み、無理矢理に正面を向かせる。


「アンタ……泣いてるの?」

「未来には、関係、ないじゃん……!」


 咄嗟に強がるも、


「関係あるわよ!!」


 と、襟を掴んだままの右腕で、私を揺さぶる未来。


「私達、友達でしょ!?」

「友、達……」

「違ったの!?」


 違わないよ。

 違わないと、思っていたかったよ。

 私もそうだと思っていたかった。


 でも、違ったんだ。


 ええい、いいや、もう言っちゃえ。

 こんな私なんて、未来から嫌われるのが当然なんだから。


 そう、そっちの方が余程、諦めが付くから。


「……未来、私ね……」

「……希。アンタ、まさか、『私と一緒に登校できなくなったから学校行く気にならなくなった』とか言うつもりじゃないでしょうね……?」


 未来は眉を顰め、ずばりと言い当てる。


 そうだ。

 その通りだ。

 いや、そうなんだけど、そうじゃなくて。


「未来、私はね……、卑怯なんだ。未来の目が悪いことを良いことに、未来を助けることで、未来の一番の友達って顔をしてたんだ……」

「…………」

「困ってる友達を助ける自分に酔ってただけなんだよ……ッ!」


 言って、私は彼女を遠ざけようと、身体を両手で押す。

 けれども、未来は私から離れない。

 私のことを放そうとしない。


 やがて、


「……はぁ?」


 という、舌打ち混じりの声を出した。


「希!」


 今日だけで何度目だろう。

 また彼女は私の名前を呼んで、今度は思い切り私を引き寄せた。

 掴んだ胸倉を力の限り引っ張った。


 ……私の表情を確かめようとしたんだろう。

 近付けて、よく見ようとしたんだろう。


 が、勢い良く引っ張り過ぎたのか、私達は互いのおでこをぶつけることになった。

 頭に生じた激痛と衝撃が背筋まで通り過ぎるようだった。

 しかし、未来は私のことを放さない。

 死んでも放すかと言わんばかりに、右手を握り締める。


 そうして、今度はゆっくりと私を引き寄せる。


 ほんの数センチの距離。

 吐息が感じられるような。

 唇と唇が触れてしまいそうな。

 そんな近さまで。


「……マジで泣いてんじゃん。死にそうな顔、してんじゃん」


 どうしてよ、と吐き捨てて。

 次いで、ようやく襟首から手を放したかと思えば、今度は私を抱き寄せた。


「え、ぁ……う……」


 混乱する。

 思考回路がショートして、何も考えられない。


 彼女の匂いも、柔らかさも、体温も、鼓動でさえも。

 未来の全てが――感じられるようだった。

 心さえも、触れられるようだった。


「……自分に酔ってて、何が悪いの」


 彼女が言う。

 囁くように。

 泣き出しそうな声音で。


「アンタが、私を助ける自分に酔っていたんだとしても……。私は、友達と一緒に通学できて、楽しかった……」

「……!」

「希。アンタがね、私の一番の友達だ、って顔をしてたなら……。それでいいわよ。だって、そうだもん! 私にとって、アンタが一番の友達だもん! そういう顔して、何が悪いのよ!」

「……未、来……」


 私という存在を、その輪郭を、手の平で確かめるようにして。

 私の友達は続けた。


「大体、アンタが何をうじうじ悩んでいたのか分からないけどさ……。中学に行くのだって、親や妹に頼んでも良かったの!」

「え……?」

「つーか、行こうと思えば一人で行けたわよ!! 何年、この目で過ごしてると思ってるのよ! 何年、この街に住んでると思ってるのよ! そりゃまあ、たまには困ることもあったかもしれないけどさ……」


 けど、と未来は言う。


「私は好きでもない相手と毎日登校するほど、物好きじゃない!! そんなことも分かってなかったの!? アンタ、どんだけ鈍感なのよ!」


 分かんないの!?と彼女は叫ぶ。

 涙声で、大きな声で。

 すぐ傍らの私に届くように。

 私の中の心を揺らせるように。


「私は私で、アンタに助けてもらうのを心地良く感じてたの! でも、ずっとそれじゃダメだって、できることは自分でしなきゃって思って、中学卒業を機に決めたの! アンタの重荷になりたくなかったから!!」


 私はね、と未来は言う。

 私は―――。



「―――私は、アンタのことが大好きなんだよ!!」



 それくらい分かれよ、と。

 彼女は呟いた。


 未来は泣いていた。

 私も泣いていた。

 幼稚園に上がりたての子どもみたいに。

 当たり前に、女子高生として。

 二人で泣いていた。


「……大体、アンタがリードしなかったら、ライブにも行けないじゃない……!」

「ごめん……っ! ごめんねぇ、未来……!!」

「泣くな、みっともない……ッ!!」


 そうして、喧嘩とも決裂とも自然消滅とも分からない、私達の“何か”は――終わったのだ。






 私には幼馴染がいる。


 百井未来という名前の子で、サバサバした性格の、音楽の趣味が良い女の子だ。

 視覚に障害がある為に、彼女はいつも、私の半歩後ろを歩く。

 私の肘の辺りを軽く持ち、いつも半歩後ろを歩く。


『じゃ、よろしく』


 未来がそう言うと、私は彼女の手を取って、自らの左肘に導く。

 お決まりの動作だった。


 でもきっと、進む道を決めてくれるのは、未来なんだ。

 私の半歩後ろから私の前を照らす光。

 私が悩んだり、困ったりした時に、続く道を照らしてくれる光。


 これまではそうで、多分、これからもそうなのだ。



 だけど、できることならば。

 彼女が悩んだり、困ったりした時には、私が力になれればいいな。


 あなたの光になれたなら、どんなに素敵だろうと思うんだ。





『君の光になれたなら』 了


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