第三十七話 窓辺の幻想

「無事にここまで来れて本当によかったわ、エグランティーノ」

「意外とやるじゃん」

「二人とも……ありがとう」

 



 グエンと別れた後、家に通じる隠し通路を通って私は自領の屋敷⸺光輝の侯爵家に無事辿り着くことができた。


 私を抱き締めてくれる姉様と、ツンツンしながらもホッとした顔で私を見守ってくれているアンリを見て、ようやく私も肩の力を抜くことができた。


 


「まずはどうする?お腹すいたでしょう、今晩はばあやが腕によりをかけてくれるらしいわ」

「それよりもお風呂でしょ、姉上。エグランティーノは山登って来たんだよ」

「あはは……じゃあ、先にお風呂に入ろうかな」

「そうね、それがいいわ」



 

 侍女に荷物を預けて浴室に向かう。


 何度も来たことのある屋敷の調度品を眺めながら、妙に現実味のない感覚に陥った。



 私、本当に旅を終えたんだ。

 こうして姉様やアンリと話して屋敷にいるとそもそも旅に出ていたことさえ夢のようで、グエンとの日々が幻のように思えてくる。


 


「お嬢様、服を」

「あ、えっと」



 

 当然のように側に控える侍女につい距離をとってしまう。そういえばいつもは侍女に洗ってもらってたんだった。

 でもどうしよう、旅をしていたティーニャから貴族のエグランティーノに気持ちを切り替えられない。


 


「今日は一人で入ることにする。少し一人でゆっくりしたくて」

「そうですか?では外におりますので、何かございましたらいつでもお呼びください」

「ありがとう」

 



 侍女たちが出て行ったのをきちんと確認して衣服を緩めていく。


 熱すぎず冷たすぎないお湯に全身を浸けてホッと息を吐く。爽やかな石鹸の匂い、清潔な水、それらを用意してくれた使用人たち。自分が今までどれほど贅沢な暮らしをしてきたのか、この旅のおかげで身をもって知ることができた。


 


「疲れたぁ」

 



 疲労の蓄積している四肢をグッと伸ばして、ゆっくり目を閉じる。こうしていると今朝までグエンと一緒にいたのが幻のようだった。


 そうして私は心配した侍女が呼びかけるまで、暫く一人体を休めたのだった。



 


 ***





「お嬢様、長旅で疲れたでしょう。今日はお嬢様の大好きなタルトがデザートですよ」

「ありがとう、ばあや。どれもすごく美味しそう」

「げ、またワイン飲むの姉上」

「当たり前じゃない、こんな嬉しい日に飲まないなんてあり得ないわ」


 


 久しぶりの家族での食卓はとても豪勢だった。


 宿では一品か精々二品しか食べなかったのにこんなに食べられるかな、と思ったけど、登山中もきちんと三食食べていた私の胃は余裕でそのコースを平らげることができた。


 酒豪の姉様は赤ワインのボトルを並々とグラスに注いでは上機嫌に酔っ払っていて、渋いものが嫌いなアンリはそれを見てうへぇと顔を歪ませる。


 分かるよアンリ、姉様の飲むワインはすごく渋いから。



 

「僕も大人になったら飲まなきゃいけないのか。やだなぁ」

「アンリ。豊沃の平野で一度ワインを飲んだんだけど、そこのワインはすごく飲みやすくて美味しかったの」

「エグランティーノ、もしかしてだけど酒場に行ったんじゃないわよね」

「あっ」


 


 分かりやすく目元を真っ赤にした姉様が絡むように私の肩に手を回してくる。


 しまった、失言だった。姉様は私が女にしか見えない論者第一号だったのに。


 


「い、行ったけど普通にご飯食べただけで……お姉さんたちが男前ですねってチーズとかおまけしてくれたりしたけどそれだけ、本当本当」

「さっきワイン美味しかったって言ってたじゃないの。飲んだんでしょ、素直に言いなさいエグランティーノ」

「はい、飲みました」


 


 そう言うと「もう!!なんて危機感のない子!」とどこかの誰かさんみたいなことを叫んで、姉様がまた酒を呷った。


 ああ、どうしよう。こうなった姉様はもう手がつけられないのに。


 ジト目で私を見るアンリと完全に酔っ払った姉様に挟まれてオロオロとしていると、部屋にノックが響いた。


 


「失礼します、エグランティーノ様。お荷物なのですが、このアクセサリーは服と一緒に処分しても構いませんか?」


 


 アクセサリー、と言われてハッとした。グエンにもらったレースのヘアバンドだ。

 



「ダメ!捨てるなんて絶対にダメ!」

「そ、そうでしたか、申し訳ありません」


 


 思わず声を荒げてしまい、侍女が驚いたように目を見開いた。

 謝らせてしまった。私の気が動転したばっかりに情けない。旅の中で貴族としての立ち居振る舞いが抜けてしまったのだとしたら、きちんと気を引き締めなおさないと。


 


「いえ、こちらこそ突然大きな声を出してごめんなさい。それ、とても気に入ってるから」

「こちらで洗っておきましょうか?」

「これは私が持っておきたいの。あと、その処分予定の服は処分せずに洗ってもらっていい?思い出の品で勿体無くて」

「かしこまりました」

 



 手元に戻ってきたレースのヘアバンドを握りしめて安堵する。よかった、ちゃんと確認してくれる侍女で……あとで彼女にはもう一度お礼を言わないと。


 


「それ、真珠糸だよね。珍しい」

「こうして見ると儀式で着る衣装とお揃いね」

「ああ、だから買ったの?」


 


 ほとんど汚れていないそれはグエンに貰った頃のまま美しい純白の光沢を放っていて、思わず兄弟三人うっとりと見惚れる。


 懐かしいな。これを貰ったときなんて昨日のことのように思い出せるのに、そこから随分遠くまで来たものだ。


 


「アンリ、野暮なことはやめなさい」

「へっ?」

「見れば分かるでしょう、あのエグランティーノの顔」

「顔……?腑抜けた間抜け面だね」

「もう、本当まだまだお子様なんだから」




 

 兄弟たちがコソコソと話している声さえ聞こえないくらいその美しさとグエンとの思い出に浸っていると、ふとあることを思いついた。



 

「姉様、これって儀式につけても良いと思う?」

「ふふ、いいんじゃない?それ、あの衣装によく似合うわ。まるで花嫁衣装みたい」



 

 乙女が儀式で身につけるのは白と決まっている。代々受け継がれた真珠糸のレースのドレスに繊細な宝石が散りばめられた真っ白な靴、この二つは必ず身につけなければいけない。



 でもその他の装飾品については、時代によって家族にもらったものをつけたり自分で作ったものをつけたりと自由が効くらしい。



 

「じゃあ、当日はこれも持っていかなきゃね」

「姉上、結局どういう顔なのあれ」

「アンリにもいつか分かる日が来るわ。ね、エグランティーノ」

「え?うん……?」


 


 よく聞いてなかったけど、重苦しい気分だった儀式が少し楽しみになった。グエンにもらったヴェールをつけて儀式に臨めるなんて、まるで姉様の言う通りグエンとの結婚式みたいだ。


 尤も、現実はそんなに良いものではないのだけれど。


 


「少し話しすぎちゃったわね、そろそろ寝ましょうか」

「そうだね、エグランティーノも疲れてるだろうし」

「二人ともありがとう」



 

 グエンにもらったアクセサリーを大事に抱えたまま、二人と別れて自分の部屋に戻る。


 


「広いなぁ。山小屋よりも大きいかも」



 

 全てが上質なもので揃えられた広い部屋。


 ずっとただのティーニャとして旅をして来たような気がするけど、こうして部屋を見ていると改めて自分の立場というものを認識させられた。



 

「……グエン」



 

 虚空に向かって呼びかけても当然返事はない。


 あの大きな手で頭を撫でられることもないし、揶揄うような目で見つめられることも、もう二度とないのだ。



 ふと窓辺から月を眺める。


 もしこれがお伽話だったら、グエンが窓辺に現れて手を伸ばしてくれるのだろうか。




 残念ながら私はお姫様じゃないし、グエンも王子様じゃない。私にもグエンにも、それぞれ役目があるのだ。



 けれど甘くない現実の中せめて夢だけでも幸せな時間を過ごしたくて、私は窓辺で静かに目を閉じたのだった。

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