エルフの里の数式使い ~転生したら研究三昧の生活ができました!~

藍埜佑(あいのたすく)

シルヴァーリーフ村編

第1章:転生と新生活の始まり

 穏やかな春の朝、シルヴァーリーフ村を包む柔らかな陽光が、エルフの少女アリアの瞳に映り込んだ。彼女は窓辺に立ち、村を見下ろす丘の上にある自宅から、緑濃い森と清らかな小川が織りなす美しい風景を眺めていた。


 アリアの長い銀髪が、そよ風に揺れる。しかし、その瞳に宿る深い思索の色は、17歳の少女のものとは思えないほどに沈潜していた。


「……来てから17年か」


 アリアは呟いた。

 その声には、前世の記憶を持つ者特有の複雑な響きがあった。


 かつてアリアは佐々峰薫という名の36歳の女性だった、

 彼女は、大学で数学を教える教授だった。しかし、理想と現実のギャップに苦しみ、ある日突然の事故により、この異世界に転生してしまったのだ。


 アリアは静かに目を閉じ、前世の記憶を辿る。

 数式が並ぶ黒板、講義室に響く自身の声、そして雑務に追われまったく研究に没頭できない日々への苛立ち……。


「話が違うぞーー!! あたしはもっと自分の研究だけがしたいんだーー!!」


 交差点の雑踏の中でそう叫んだ瞬間、彼女はあの事故に巻き込まれた。


 目を開けると、そこには前世とは全く異なる世界が広がっていた。

 そう、薫は17歳のエルフの美少女として生まれ変わっていたのだ。


「やったー、エルフだ! 長命だ! これでずっと好きな研究だけができるー!!」


 あの時の歓喜は今も忘れられない。


 アリアは深呼吸し、部屋の中央に置かれた机に向かった。そこには、すでに数式が所狭しと書き連ねられた羊皮紙が広げられていた。そうアリア……薫は今、存分に自分の研究に打ち込んでいるのだ。彼女は慎重に羽ペンを手に取り、新たな方程式を書き始める。


 窓から差し込む朝日が、羊皮紙に映る複雑な数式を照らし出す。その光景は、まるで科学と魔法が交錯する瞬間を表しているかのようだった。


 アリアは、村人たちに気づかれないよう、こっそりと研究を進めていた。大魔法使いとしての力を隠しつつ、この世界の自然法則を理解しようと努めているのだ。

 魔法などというチート能力を使うのは、数学と物理の真理を追究する真摯な学徒としては絶対許せない行為であった。


 この世界では魔法使いは希少な存在だった。まして絶大な魔力を有する大魔法使いなど、その存在を一生知らずに終える者が大半という稀さだった。


 しばらくすると、外から明るい声が聞こえてきた。


「アリア! 起きてる?」


 幼なじみのリリアンだ。

 アリアは羽ペンを置き、微笑みを浮かべながら窓から顔を出した。


「おはよう、リリアン。もう起きてるわ」


 リリアンは、アリアの変わった趣味を不思議がりながらも、いつも優しく接してくれる大切な友人だ。彼女の存在が、アリアにこの世界での生活の温かさを実感させてくれる。


「今日は村の広場でお祭りがあるのよ。一緒に行きましょう!」


 リリアンの声には、若さゆえの弾むような喜びが満ちていた。


 アリアは一瞬躊躇したが、すぐに決心がついた。研究も大切だが、この世界での生活を楽しむことも必要だ。彼女は優しく微笑んで答えた。


「ええ、行くわ。少し待っていてくれる?」


 アリアは急いで身支度を整え、大切な羊皮紙を隠した。そして、新しい人生を歩み始めた自分を励ますように、深く息を吐き出した。


 扉を開け、まぶしい陽光の中へと一歩を踏み出す。シルヴァーリーフ村の新たな一日が、静かに、しかし確かな希望とともに始まろうとしていた。



 アリアとリリアンは、木々の間を縫うように延びる小道を歩いていた。春の陽射しが木漏れ日となって二人の頬を優しく照らす。足元には、可憐な野の花が咲き誇っていた。


「ねえアリア、昨日の夜も遅くまで起きていたの?」


 リリアンが心配そうな表情で尋ねた。


「……ええ、少し」


 アリアは言葉を選びながら答えた。


「アリアったら! またを描いていたのね」


 リリアンは、アリアの部屋に広げられた数式を「難しそうな絵」と呼んでいた。

 アリアはかすかに笑みを浮かべる。


「ごめんなさい、気をつけるわ」


 二人の会話が途切れた瞬間、森の奥から不思議な音色が聞こえてきた。アリアは耳を澄ませる。


「あれは……風の通り道ね」


 アリアは呟いた。木々の間を吹き抜ける風が、自然が作り出した完璧な音階を奏でている。その瞬間、アリアの脳裏に一つの数式が閃いた。


「どうしたの、アリア?」


 リリアンが不思議そうに尋ねる。


「ごめん、ちょっと考え事をしていただけよ」


 アリアは微笑んで答えた。しかし、その瞳の奥には、新たな発見への興奮が燃えていた。


 アリアとリリアンは、木々の間を抜けると、突如として開けた空間に足を踏み入れた。そこはシルヴァーリーフ村の中心にある広場で、既に祭りの準備が整っていた。


 広場全体が、まるで虹を閉じ込めたかのような色彩に彩られていた。春の柔らかな陽光が、その色彩をより一層鮮やかに照らし出している。


 屋台が円を描くように立ち並び、それぞれが色とりどりの花で飾られていた。深紅のバラ、淡紫のラベンダー、黄金色のヒマワリ、純白のユリ……。それらが織りなす色彩のハーモニーは、まさに自然の芸術といえるものだった。


 花々の間を縫うように、キラキラと光る小さな魔法の光球が浮遊している。それらは、まるで妖精たちの舞踏のようにゆらゆらと動き、幻想的な雰囲気を醸し出していた。


 エルフたちは、優雅な動きで広場を行き交っていた。彼らの長い髪や、繊細な装飾が施された衣装が、風に揺られて美しく波打っている。あちこちで笑い声や楽しげな会話が聞こえ、祭りを前に高揚する空気が漂っていた。


 ある屋台では、エルフの職人が繊細な銀細工を披露していた。その技は、まるで魔法のようだった。別の屋台では、色とりどりの果実を使った芳醇な香りのワインが振る舞われ、甘い香りが辺りに漂っていた。


「わあ、綺麗!」


 リリアンの声が弾んだ。彼女の瞳には、広場の色彩が鮮やかに映り込み、まるで宝石のように輝いていた。その表情には、純粋な喜びと驚きが溢れている。


 アリアも、思わず息を呑んだ。彼女の脳裏に、数式で表現された美しさが浮かんだ。黄金比や、フィボナッチ数列……。しかし、目の前の光景は、そういった数学的な美しさとはまた違った魅力を放っていた。


 それは、計算され尽くした美しさではなく、自然の中に生まれた有機的な美しさだった。不規則でありながら、どこか調和のとれた配置。エルフたちの美的センスは、まさにその自然の美を昇華させたものだった。


 アリアは、ふと自分の研究を思い出した。数式で世界を理解しようとする自分の姿勢と、目の前に広がる自然の美しさ。それらが融合したとき、どんな素晴らしい発見があるだろうか。彼女の心に、新たな探究心が芽生えた。


 リリアンが、アリアの袖を引っ張った。


「ねえ、アリア。あっちの屋台を見てみましょう!」


 アリアは微笑んで頷いた。祭りの喧騒に身を委ねながら、彼女の心は新たな研究アイデアで満ちていった。エルフたちの美的センスと、自身の科学的アプローチ。それらを融合させることで、きっと素晴らしい何かが生まれるはずだ。そう確信しながら、アリアはリリアンと共に祭りの中へと歩みを進めたのだった。


 その時、人だかりの中から、一人の老エルフが二人に近づいてきた。


「おや、アリア、リリアン。来ていたのか」


 村の長老、エルダー・オークだ。

 その穏やかな笑顔に、アリアはいつものように安心感を覚えた。


「エルダー・オーク、おはようございます」


 アリアが丁寧に挨拶をする。


「アリア、最近どうだ? 何か面白い発見はあったかね?」


 エルダー・オークの問いかけに、アリアは一瞬驚いた。

 老エルフは、もしかして自分の研究に気づいているのだろうか?


「あ、はい。少しずつですが、面白いことが分かってきました」


 アリアは慎重に言葉を選んで答えた。

 エルダー・オークはにっこりと笑う。


「そうか、そうか。若い才能が芽吹くのは素晴らしいことだ。ただ、あまり無理をするなよ」


 その言葉に、深い慈愛が込められていた。

 アリアは、まだエルダー・オークが自分の秘密を薄々感じ取っているのではないかと思っていた。しかし、それを追及する様子はない。


「はい、ありがとうございます」


 アリアは心からの感謝を込めて答えた。


 初夏の柔らかな日差しが、シルヴァーリーフ村を優しく包み込んでいた。村の広場は、色とりどりの花で飾られ、笑顔と歓声に満ちていた。アリアは、久しぶりに肩の力を抜き、祭りの雰囲気に身を委ねていた。


 彼女は、リリアンと一緒に花の冠作りに挑戦した。巧みな指さばきで、デイジーやスミレ、忘れな草を編み込んでいく。完成した冠を頭に乗せると、リリアンが嬉しそうに笑った。


「アリア、とても似合っているわ!」


 アリアも照れくさそうに微笑み返した。


 次に、広場の中央で伝統的な踊りが始まった。最初は躊躇していたアリアだったが、村人たちに促されて輪の中に加わった。優雅な旋律に合わせて、彼女の体が自然と動き出す。足を交差させ、腕を大きく広げ、回転する。普段は数式と向き合う頭脳が、今は音楽と一体化していた。


 踊りの後、アリアは村の長老たちと語り合った。彼らの昔話に耳を傾け、村の歴史や伝統について新たな発見をする。彼女の目は好奇心に満ち、頬は興奮で紅潮していた。


 夕暮れが近づき、空が茜色に染まり始めたころ、祭りは最高潮に達した。村人全員で大きな輪を作り、最後の踊りを踊る。アリアは、周りの笑顔に包まれながら、心からこの瞬間を楽しんでいた。


 やがて、夜空に最初の星が輝き始めた。人々が徐々に家路につく中、アリアも自宅への帰り道を歩み始めた。頬には心地よい疲れが滲み、胸には温かな充実感が広がっていた。


 自宅に到着したアリアは、玄関を開けるや否や、靴を脱ぎ捨てて書斎へと駆け込んだ。彼女の目は、突如として研究者としての鋭い光を取り戻していた。


 机の上から羊皮紙を取り出し、アリアは急いでペンを手に取った。祭りの最中、風の音色を聞いたときに閃いたアイデアを、今すぐに書き留めなければならない。


 彼女の手が素早く動き、羊皮紙の上に複雑な数式が描かれていく。それは、風の音階を数学的に表現したものだった。フーリエ級数を用いて風の周波数を分解し、それを魔法の波動と関連付ける斬新な理論。


 アリアの呼吸が少し荒くなり、額に軽い汗が浮かぶ。しかし、彼女の顔には充実感溢れる笑みが浮かんでいた。祭りの楽しさと、研究の喜び。この二つの感情が、彼女の中で見事に調和していた。


 窓の外では、祭りの余韻が静かに漂っている。アリアは一瞬、書きかけの数式から目を離し、夜空を見上げた。そこには、彼女の未来を照らすかのように、無数の星が輝いていた。


「この世界の音楽にも、数学的な法則が隠れているわ」


 アリアは興奮を抑えきれない様子で呟いた。彼女の瞳は、新たな発見への喜びに満ちていた。


 窓の外では、祭りの余韻が静かに漂っている。アリアは深呼吸をし、この世界での新しい人生に、改めて感謝の念を抱いた。


 前世では叶わなかった夢。この世界なら、きっと実現できる。アリアは、そう強く信じていた。


 月明かりに照らされた羊皮紙の上で、新たな方程式が静かに息づいていた。

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