第5話 ②
紗耶香は慎太に右手を引かれて通路を進んだ。その先には店舗出入り口がある。
歩きながら店内を見渡すが、人の気配は皆無であり、薄暗い空間が息を潜めているだけだった。
紗耶香の右手を握る慎太の左手は、想像していたよりも大きかった。そして、力強かった。
店舗出入り口にたどり着けば、内側のドアは開いていた。カート置き場の前を通り過ぎて、二人は外側のドアの前に立った。しかし、自動で開くはずのドアは、微動だにしない。
「開かないよ」
いちいち言葉にしなくてもわかるはずだが、黙っているのが耐えられなかった。
「手で開けてみる」
慎太は言うと、紗耶香の手を離し、右のドアの枠に左右の手をかけた。足を大きく開いてドアを動かそうとするが、びくともしない様子だった。
「わたしも……」
紗耶香は左のドアの枠に左右の手をかけた。
二人で同時にそれぞれのドアに力を入れるが、やはり、まったく動かない。
不意に、店内の奥から女のうめき――のような音が聞こえた。
「何?」
思わず紗耶香はすくみ上がった。
もう一度、同じ音がした。音というよりも、明らかに声である。
「くそっ」
悪態をついた慎太が、再度、ドアに手をかけ、力を込めた。
紗耶香も奮闘する。
だが、やはり、ドアは動かなかった。
慎太が腰をかがめた。
「ロックがかかっているのかもしれない」
言って慎太は、右のドアの下部にあるサムターンをひねり、さらに左のドアのサムターンもひねった。そして彼はドアに手をかけるが、しばらくもがくと、その手を離した。
「だめだ」
慎太は首を横に振った。
「どうしよう」
焦燥を隠せず、紗耶香は店内の奥に目をやった。
動くものは確認できなかったが、またしてもあの声がした。泣くようなうめくような声だ。それは先ほどよりもはっきりと聞こえた。どうやら近づいてきているらしい。
「こっちに来る……何かが……」
声が震えてしまった。少なくとも今の紗耶香には、どのような行動を取るべきなのか、そういった考えをまとめることができない。
「ほかの出入り口へ行ってみよう」
慎太の提案を耳にして、そんな単純なことさえ考えつかない自分を、紗耶香は愚かに思った。
「うん」と答えた紗耶香は、先と同じように、慎太に右手を引かれた。
自分は彼の足手まといになっているのではないか――急ぎ足で進みながら、紗耶香の脳裏にそんな考えが浮かんだ。足手まといになっているのなら、慎太が口にした「この問題にかかわらないほうがいい」という言葉が正しかったことになる。それは、悔しさというよりも悲しみであり、申し訳ないという感情だった。
「ごめんね慎太くん。わたし、役に立たないどころか、慎太くんのお荷物になっている」
たまらずに、そう告げた。
「紗耶香ちゃんらしくないぞ」
紗耶香の右手を握る慎太の左手に力が入った。
慎太の言うとおりだろう。今こそ二人が協力しなければならないはずだ。
――魔物なんかに負けちゃだめだ。
紗耶香は自分を鼓舞した。
もっとも今の紗耶香には、その魔物の正体を仮定することさえ不可能だった。
紗耶香の右手を引きつつ、慎太はレジの群れと壁との間を進んだ。この先にはもう一つの出入り口がある。そこから出られるかどうか確信はないが、試さない手はない。
暗がりの先――進行方向に、うごめく何かがあった。
慎太は足を止めた。
手を繋いだまま、紗耶香が横に並ぶ。
ゆっくりと歩いてくるその者は、スタンドカラーコートを身に着けていた。フロントを閉じたコートは、この肌寒さには合っているだろう。もっとも、首が右に折れ曲がっているのだから、快適ではないはずだ。
「こんなところにまで」
慎太がそうつぶやくと、紗耶香が「あれは……おばさん……」と声を漏らした。
「見えるのか?」
あの美琴の姿が自分とワカバ以外の者に見えるなど、これまではなかった。
「み、見えるよ……コートを着て……首が曲がって……お、お、おばさんが……」
紗耶香の答えは震えていた。
しかし今は、見えるか否かを考察している場合ではない。凄惨な姿の美琴は、慎太が目指していた出入り口の前に達しているのだ。
「あああ……」
美琴の口から声が放たれた。声を出すのも、これが初めてだ。
切羽詰まった状況だが、慎太は次の手を考えていた。
「バックヤードに行ってみよう。できれば、搬入口に近いほうがいい」
「そうか。そこからなら出られるかも」
「この店の搬入口は、確か、真後ろだったな」
そんなことを言っている間にも、美琴はゆっくりと近づいていた。
慎太は紗耶香の右手を引いて、レジを通り抜けた。そして、売り場の奥へと向かう。
背後で美琴のうめきが聞こえた。
陳列棚と陳列棚との間を、二人は急いだ。
暗がりだが、わずかでも照明があるため、足元は確認できた。
紗耶香を伴っているのだ。置きっぱなしのカートがあるが、それにぶつからないよう、陳列棚にも接触しないよう、慎重に、かつ速やかに足を運ぶ。
バックヤードへと通じる大きなスイングドアが前方に見えた。
美琴のうめきが小さく聞こえた。
もうすぐ狭い通路から抜ける、というときだった。
右の陳列棚の端から飛び出した何かが、慎太につかみかかった。
美琴だった。
慎太は美琴によって押し倒され、紗耶香は近くに尻餅を突いた。
「あがあああ!」
うめきではなく、叫びだった。とても美琴の声とは思えない。首が折れ曲がっていてもそんな声が出せるのだろうか――否、そんな状態だからこその声、なのかもしれない。
美琴は両手で慎太の首を絞めた。対する慎太も、両手で美琴の首を絞める――が、骨が折れているためか、柔らかく、つかみどころがなかった。
折れ曲がった首、額の大きな傷、白目、乱れた髪……目を背けたいものが、慎太の顔にふれそうなほど近くにあった。
腐臭が慎太の鼻を突く。
「おばさん、やめて!」
叫んだ紗耶香が、立ち上がった。そして彼女は、美琴の両肩をつかんで揺さぶる。
この美琴には実体がある――と慎太は認識した。ならば力でどうにかなりそうな気がするが、いかんせん、美琴の力は強かった。このままでは、慎太は美琴によって命を奪われてしまうだろう。
紗耶香が美琴から手を離した。彼女はつかの間、慎太の視界から姿を消すが、すぐに戻ってきた。
「うああああああ!」
今度の叫びは、紗耶香の口から放たれた。
何かがぶつかるような音が、薄闇の空間に響いた。
美琴の体が慎太の右横でうつ伏せになった。その先で横倒しになったのは、一台のショッピングカートだった。
慎太は上半身を起こし、息を整えつつ、紗耶香を見上げた。
「紗耶香ちゃんが、あれを?」
「火事場のなんとか……だよね……」
そう言う紗耶香は、息を切らせていた。
「ありがとう……助かったよ」
慎太も息が上がりかけていた。
紗耶香が左手を差し出した。それをつかもうと慎太は右手を差し出すが、右足を引かれてうつ伏せになってしまう。
体をねじって自分の足元を見れば、うつ伏せの美琴が慎太の右足を右手でつかんでいるのだった。
「おばさん、ごめんなさい!」
声を上げた紗耶香が、美琴の頭を蹴った。
「げぼっ」と声を出した美琴は、慎太の右足を離すとともに、体をうつ伏せにしたまま、頭部だけを仰向けにした。
「母さん……じゃない」
その顔を凝視しつつ、慎太は言った。
「どういうこと」と声を漏らした紗耶香にも、それは把握できたらしい。
首はねじれてしまったが、折れていることに違いはない。そして、額には傷があり、目は白目を剥いている。だが、乱れた髪はわずかに短かった。そして何よりも、顔そのものが、別人なのだ。
「これは……誰なんだ?」
疑問を呈しながら、慎太は立ち上がった。
腐臭の中に甘い香りが混交した。
「あーあ、壊しちゃった」
声がした。
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