四 現象
早足で階段を登り、刺激を与えないよう、静かにドアを開けて彼女の部屋へと入る……。
「あれ? いないぞ?」
「咲乃、どこへ行ったの?」
だが、モニターから目を離したわずかなその隙に、浮遊していた彼女の頭はどこかへ消え失せてしまっている。
「あ! 見てください! どうやら外へ出たみたいです」
心配そうに部屋の中を見回す西尾夫妻の傍ら、胴から伸びた白い紐がカーテンの隙間へ入り込んでいるのを私の眼が捉える。
「そ、外へ!? なんてことだ!」
「ああ、こんなところを誰かに見られでもしたら……」
彼女の首が外へ出たことを知ると、やはり世間体を気にしているのか? 夫妻はかなり狼狽している。
「今まで外へ出たことはなかったんですか?」
「え、ええ。私達の知る限りは……部屋から出て、家の中を飛び回ったことはありましたが……」
窓に近づきながら夫妻に尋ねると、困惑した様子で西尾氏がそう答える。
気づかなかっただけでこれまでにも外出していたのか? それとも今宵に限って夜のお散歩に出かけたい気分になったものなのか……。
いずれにしろ私はカーテンを左右に開け放つと、本当に外へ出たのかどうか確認してみる。
「…ん? どうやって出た? もしかしてすり抜けたのか?」
しかし、予想外にも硝子窓は開いておらず、その代わり白い紐は戸の隙間から外へと伸びて行っている。
もちろん、その5mmにも満たない狭い隙間から人間の頭が出ることなんてまず不可能だ。だとすればあの頭部は肉体としての人頭とは異なり、実体を伴った物質的なものではないということになる。
このエクトプラズムのような白い紐といい、おそらくあの頭は咲乃の魂というか、何か霊体的な存在なのであろう……もしそうであるならば、この〝ろくろ首〟現象は一種の幽体離脱と呼べるような状態であるのかもしれない。
そんな仮説に思い至りながら、さらに窓も開けて左右を覗った私は、咲乃の首の行方を屋外の闇の中に探す……すると、彼女の頭を見つけるよりも先に、下の道を歩いて来る一人の人物の姿が視界の角に留まった。
「…梅〜は〜咲いたか〜桜〜はまだかいな〜♪」
その人物はだいぶ酔っ払っているらしく、ご機嫌に鼻歌を唄いながら千鳥足でこちらへと近づいてくる。
電信柱の街灯の明かりの下へ入ると、それはサラリーマン風のスーツを着た中年男性だった。手にはステッキのようにビニール傘を持っているが、そういえば今日は昼過ぎまで小雨が降っていたんだったか……。
「あ! 磯貝さん!」
やはりその男性に気づき、私の背後から外を覗っていた西尾氏が驚いたように口を開く。どうやら顔見知りであったらしい。
「まあ! なんて間の悪い……よりにもよってこんな時間に帰ってこなくても……」
偶然にも知人がこの場を通りかかったことに、夫人も困り顔で思わず愚痴をこぼしている。その口振りからしてご近所さんか何かだろうか?
「いました! あの塀の所です!」
一方、その間にも細い紐の先をたどっていた私は、道に面した築地塀の上に咲乃の頭があるのをようやくにして見つけていた。
塀の上に載っかったそれを道側から目にしたならば、きっと晒し首にでもされたかのように映ることであろう。
「…ん? うわあっ! な、なんだこいつ!?」
と、そんな感想を私が抱くのと同時に、ちょうどその傍にさしかかった磯貝氏が首に気づいて悲鳴をあげる。西尾夫妻の恐れていたことが現実のものとなってしまったのである。
「こ、この化け物め!」
酔っ払っているせいか? 幸い咲乃とは気づいていないらしいのだが、あろうことか磯貝氏は持っていた傘を振り上げるとそれで彼女の頭を小突こうとする。
「キャっ…!」
果たして、そんな物理攻撃が霊体に効くものかどうなのかはわからないが、傘の先が咲乃の額を小突いたその瞬間、彼女の首は短い悲鳴をあげると、まるで金属製の巻尺か昔の掃除機の電気コードかといった感じに、しゅるしゅると細い紐が高速で巻き取られ、連動して咲乃の頭も胴体のもとへと瞬時に戻ってくる……。
「痛ぁっ…!」
と、胸元から出ていた湯気も霧散して消え去り、ベッドの上の咲乃も額を抑えながら勢いよく跳ね起きた。
「き、消えた……な、なんだったんだいったい……」
他方、小突いた磯貝氏の方は狐にでも抓まれたような顔をして、だんだん怖くなってきたのか早々にこの場を立ち去ってゆく。
「咲乃! 大丈夫か!?」
「目が覚めたのね! どう? 痛いところはある? どこも怪我してない?」
戻って部屋の方では心配そうな眼差しを向け、夫妻が覚醒した娘に声をかけている。
「お父さま、お母さま、どうしてここに……いいえ、それよりもすごく怖い夢を見ましたの! 庭先で磯貝さんをお見かけたしたんで挨拶をしたら、なぜだかものすごい形相をして傘で突いてくるんですのよ!」
両親の問いかけに、いまだ
なるほど……首が抜けていた時に経験したことを、どうやら夢の中の出来事だと彼女は認識しているらしい。
だが、夢と判断してはいるにせよ、
西尾氏の見解とも一致するが、これは睡眠時に意図せず幽体離脱をしてしまう、一種の超心理学的な病なのかもしれない。
「なに、ただの夢です。私もついていますんで安心して寝てください。もし眠れないようでしたら気持ちを落ち着かせるお薬をさしあげましょう」
ともかくも、この手の病は往々にしてストレスがその原因の根幹にあったりするものだ。治療法は後々考えるとして、今は精神の安定を図ることが第一であろう。
また首が抜ける可能性もなくはなかったが、夢と認識しているところからするとレム睡眠時にだけ発症し、ノンレム睡眠までいけば起こらないことも考えられる。悪夢に怯える彼女を落ち着かせると、私はもう一度、ぐっすり眠るよう彼女を促した──。
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